かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#4】邂逅−06

(承前)

 あの街──猥雑で危険な流れ者の街にふたりが着いたのは、昼少し前のことだ。
 旧式の洗濯機は、意外なほど洗濯に時間がかかった。おまけに脱水槽が不調で、仕上がったはずの服を手で絞り直さなければならなかった。
 それは、誠実だが不器用な年嵩の男の仕事のようで、憎めはしないものの、いささか焦れるものだった。その上、途中から美弥も洗濯物を出したものだから、さらに時間がかかってしまい、部屋を出るのがかなり遅くなってしまったのだ。
 街に出た美弥は、街に着くなりいきなりドーナツ屋に入り込んだ。街の中心からは少し外れた場所だが、極端に離れた場所でもない。もし中心で何かがあれば、走って二分もあれば着けるという場所だ。
 美弥は、ろくにメニューを見もせず由衣に言った。
「あたしはコーヒーね。あんたもコーヒー飲むだろ? ドーナツも食うかい?」
「ドーナツはいいです。飲み物は私、紅茶の方がいいかな……」
「コーヒーにしときなさい。お代わり自由なんだから」
「……はい」
「じゃおにいさん、ホットコーヒーふたつね」
「あっ、私、アイスの方が……」
「アイスはお代わりできないんだよ」
「……ホットでいいです」
 お代わりするほど飲まないのにな、と思っている由衣に、美弥が「席、取っといで」と命じた。由衣は二階の客席に上がり、空席を確保した。
「はい、お待たせ」
 上がってきた美弥が持っているプレートには、コーヒーふたつしか乗っていない。美弥も腹ごしらえをするつもりはないようだ。
「さて、と」
 コーヒーに砂糖とミルクを無造作に入れて掻き混ぜると、美弥はいきなり腕組みをして瞼を閉じてしまった。由衣が語りかけることはもちろん、店の騒々しさや人いきれの類を、一切遮断しようとしているような様子だ。
 ここに来るまでの途中でも美弥は、こうして外との関わりを遮断する姿を採っていた。訊きたいことが山ほどあるのに、電車の中でも由衣が何ひとつ訊ねることができなかったのは、美弥のこの姿のせいだ。
 昨夜や今朝、由衣に見せた優しさとは、まるで正反対の態度だった。声をかけることもためらわれる厳しさが、その全身から滲み出ている。場所が場所なら、それは修行僧の瞑想といっても通じそうだ。
(……いったい、何をしてるんだろう)
 由衣はミルクだけを入れたコーヒーをひと口啜って、美弥と、その周囲を見回した。
 平日の昼間だというのに、人が多い。それも、何をしているのかわからない人だらけだ。
 由衣と同じぐらいの年頃の少女も多い。学校はどうしてしまったんだろう? 親は何も言わないのだろうか? 会社員のような者もいるが、こんな時間からこんなところにいて、仕事はしないのだろうか?……行き交う人々を見ていると、そんな疑問が後から後から湧いてくる。
 美弥の行動も、わけがわからない。昼前からこんなところに座り込んで瞑想。
 そして自分自身も。
 時間があると言われても、今はその時間自体が棘々しいものに感じられる。美弥と会うまでは、逃げることしか考えていなかった。だが、とりあえずの居場所を見つけた今は、だいぶ気持ちが落ちついてきている。すると今度は、何かをしなければならないという強迫観念じみたものが生まれてくる。こうして、ただ座っていることにひどく後ろめたさを感じる。
(なのに、何をしてるんだろう……私は)
 由衣はため息をついて、窓から外を見た。
 と、その時、あの耳鳴りが訪れた。ずいぶん聞いていなかった気がする。美弥と会ってからの十数時間は、まったく聞こえなかったのだ。その空白を埋めようとでもしているかのように、耳鳴りは、ぶぅぅぅん……と、低くしつこく続く。
 視線をふと美弥に戻して、由衣はどきりとした。
 美弥が目を見開いている。眉間にはくっきりと深い皺が刻まれていた。だが瞳は遠くを見るように虚ろだ。その瞳には、相変わらず底知れない深さがある。そしてその瞳からは、さっきまでの“瞑想”よりも、よほど厳しく険しい何かが溢れ出している。
 不意に耳鳴りがやんだ。と、それと同時に美弥もため息をつき、瞼を閉じた。
 え? まさか?
「……あのぅ」
 おずおずと声をかけた由衣に、美弥は、うん? と喉の奥から声を出して応えた。
「……もしかしたら、今、何か聞こえてました?」
 美弥の瞼が開かれた。その瞳は、今し方の恐ろしいものではなく、ちゃんと温かみを備えた、ひとらしいものだった。
「ああ。あれが探し物だからね」
「探し物?」
「そうだよ。あたしはあれを探しに、ここんとこ一週間ばかり、この街に日参してるのさ。昨日は、あんたのものかと思ったんだけどね」
 あれを探す? 私のもの? どういうこと?
 美弥は、ふう、と声に出して、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干した。
「どうもあたしは、この、コーヒーってやつが好きじゃないんだよねえ。焦げ臭くて、ねばねばしててさ。お代わり自由じゃなかったら、こんなもん飲みゃしないぞ。
 比べたら、初めて飲んだツバキの葉っぱのお茶の、どんなにかおいしかったことか」
「ツバキの葉っぱのお茶?」
「ああ。いけるよ。そのうち気が向いたら、作って飲ませてあげる。何はともあれ、お代わりもらってきておくれ」
「はい」
 由衣はカップを持ち、席を立った。
 熱い湯気のたつコーヒーが満たされた新しいカップを手に戻った時、美弥はまた瞑想の姿勢に戻っていた。
 目の前にカップを置いても、微動だにしない。
 由衣は仕方なくまた椅子に座り、さっきと同じように窓から外を眺め始めた。
 数えきれない数の人が、次から次へと現れては消え、流れていく。一生のうちで、この時しかまみえることなくすれ違っていくだろう人々の、顔・顔・顔。その圧倒的な量に、由衣はわずかな眩暈を覚えた。
 この人も、あの人も、あの人も……今、こうして私の目の前を通り過ぎていくだけの縁しか、自分とは持ち合わせていないのだろう。
 でも、そのひとりひとりに、それぞれの家族がいて、生活があって……。
(ああ、でも私は、それを失くしちゃったんだな。私、切れちゃってるんだ……この世の繋がり、みたいなものから)
 そう、切れてしまった。これまで身の周りに、当然のようにあった縁が、今の由衣にはないのだ。
 それでも生き物なら、いつかは死ぬことで縁の輪に戻れるのかもしれない。
(でも……悪魔、って……)
 死ぬのだろうか。縁の輪に入ることのできる“生き物”なのだろうか。
 また耳鳴りが始まった。さっきよりも少しだけ、強い。目だけで窺うと、美弥はまた瞼を開いている。由衣は視線を逸らし、窓の外を見た。
 次第に耳鳴りが強まる。と、視界の外れ近くにある、ごく遠い交差点を通り過ぎようとした男の姿が、妙にくっきりと見えた。

(続く)