魔少女・由衣 闇狩り【#4】邂逅−07
(承前)
その姿は、本当にくっきりとしていた。
かなりの距離がある。本来ならぼんやりとしか見えない距離のはずだ。それなのに、動作のひとつひとつが、それこそ指先の運びまでがはっきり見える。色のコントラストも、スポットライトが当てられてでもいるように鮮やかだ。
目がどうかしてしまったのかと思って、由衣は数度、まばたきをしてみた。だが見え方は変わらない。
男は交差点を通り過ぎ、姿を消しかけた。が、途中で急に足を止めると、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
男は、色の濃い丸形のサングラスをかけていて、表情はよくわからなかった。長い黒髪を後ろで束ねている。黒のフィットネスシューズと黒のスリムジーンズ、黒のタンクトップに身を包み、一重でだぼっとしたものとはいえ黒のコートまで羽織っている。この季節には、かなり暑苦しい装いだ。
やや背が高く、すらりとした体型に見えるが、コートの肩がしっかりと張り出しているからには、脱げば相応にがっちりした体つきをしているのだろう。
その男の顔が、由衣と真っ直ぐに向き合う角度で、ぴたりと止まった。
(えっ?)
由衣は慌てて視線を逸らした。まさか、向こうからここが見えているはずはない。けれども男は、明らかに由衣を見つけたようだ。由衣の方を見たまま、迷わず近づいてくる。それにつれて、耳鳴りも強まる。
美弥はやっと由衣の様子に気づいた。
「……あんた、何か、見つけた?」
低い声だ。詰問に近い、強い口調だった。
由衣はただこっくりと頷いた。
「何を見つけた?」
「……黒い男の人、です。今、こっちに向かって歩いてきてます」
言っている間にも、耳鳴りが強くなってきている。低く強く、その唸りは店内の喧騒を上回るほどになっていた。
「……あの人!」
階段の上に、その男が現れた。由衣の視線の先を追い、美弥は背後を鋭く振り返った。
男までの距離は、ほんの数メートル。近くで見ると、さほど大柄ではなかった。だが威圧感は強い。それに、その男の周りに、黒いベールのようなものがふわりと被せられてでもいるように、周囲の景色が捩じれて見える。
『ふたり連れとは、面白いな』
どこか不自然で、高い周波数のレゾナンスを持ち上げたような金属質の声が、頭に直接、飛び込んできた。男は口を、まったく動かしていない。
(……この人も!?)
由衣が思った時、美弥の声も流れ込んできた。
『あんたかな、あたしを呼び寄せたのは』
『俺は別に呼んだつもりはないが』
『だがあんた、けっこういい食事してるんだろう?』
『そんなものは、この街にいればいくらでもありつけるさ。どす黒い街だからな。俺が何をしなくても、勝手に喰い物が転がり込んでくる街だ』
男は、にやりと笑った。
『お前さんたちも、それにありつきに来たんじゃないのかね?』
『残念ながら、あたしは喰わないよ。多分、この子もね』
『……ああ、噂を聞いたことがあるぞ。このところ、“仲間”を狩る奴らがいるらしいって噂だ。それがお前さんたちなのか』
『たち、じゃない。それは、あたしだ。この子は関係ない』
『そうか。で、あんた、俺も狩るのかね?』
『……いや。あんたが悪どい真似をしなけりゃ、手出しはしないさ』
『悪どい真似、ねえ。大変に恣意的で曖昧な基準であることだな。まあ、いい。俺も敢えて、お前さんたちには手出しはしないことにしよう』
『ああ。お互い、そういうことにならないように気をつけようじゃないの』
『そういうことだな。無駄な争いには、俺も興味はない。ただ、ひとつ忠告しておいてやるよ。この街には、俺やお前さんたちの他にも、けっこういるんだ。知っているだけで、三にんほど。強い奴もいる。甘く見るな』
『あんたは?』
『今のところは、干渉する気はないんでね。よほどな巻き込まれ方をしなければ、無縁だ』
『……そうかい。じゃあ、行ってくんな』
『ああ。そうしよう』
男はコートをひらりと翻し、階段を降りて行った。言いようのない緊張感から解き放たれて、由衣はテーブルの上に肘をつき、はう、と息を吐き出した。
「……やっぱり多いんだね、こういうところには」
美弥が口を開いて言った。
やっぱり多い? 探していた? 狩る?……由衣の頭に、また疑問の山が積み上がる。
「やっぱり、ちゃんと説明してあげなきゃいけないのかねえ。今ので、あんたの波長も顔も、少なくともあいつには知られちゃったことだしねえ」
美弥は目の前のコーヒーをひと口啜って、「うぶ」と顔をしかめた。砂糖もミルクもまだ入れていないことを、すっかり忘れていたらしい。
「ひでー味。だからコーヒーは嫌いだよ。まったく、こんなもんを好んで飲みたがる奴の気が知れねえ」
その口調と動作が、あまりにも突拍子のないものだったから、由衣は思わず笑ってしまっていた。
「そうそう、そういう余裕をもっておきな。でないとあたしら、やっていけない。……今日はもう切り上げようか。疲れたよ」
美弥は言って、立ち上がった。
「なるほど。あんたの話は、だいたいわかった。それであんたは、自分のことを全然知らないんだな。そんなに日が浅くちゃ、それも当然だ。変なわけさ。どうやらこりゃ、それこそ一から説明してやらなきゃならないかもしれない」
あの後すぐにドーナツ屋を出て戻ってきた、美弥の部屋。
由衣は、美弥に会うまでの一連を、問われるままに話し終えたところだ。
美弥は座布団の上に胡座をかいて、ただ無表情に、相づちを打つこともなく話を聞き続け、最後にそう言ったのだった。
「一から……?」
「そうさ。あたしたちがどんなもので、どんな力をもっているか、をね。いってみりゃ、あんたは生まれたばかりのややこみたいなもんなんだから」
美弥は言って、深呼吸をひとつ、した。
「悪魔、か。当世風だね。あたしらの頃には、鬼とかもののけと言ったもんだけどね」
美弥は窓の方を向いた。別に景色を眺めている風ではない。ずっと遠く、目には見えないほどの遠くを見ているように、漆黒の瞳がぽっかりと沈んでいる。
「ひとの、いや、いろいろな動物の心を喰って永らえる種族がいる。
何でも喰ってりゃそれなりに満足はするもんなんだが──それこそネズミやイヌのものでもね──、ずっしりとした喰い応えがあって、おいしい、とやっぱりいうんだろうか、喰った満足感を与えてくれるのは、ひとの心だ。それも、醜く激しい感情……恨み、憎しみ、嫉妬、分を越えた欲望、そんなものをたっぷりと抱え込んだ心だ。
そいつを吸い取る時には、体中が溶けちまいそうなほどの快感を、あたしたちは感じられる。……そうさ、あたしもあんたも、そういう種族なんだ。そういうモノに、なっちまったのさ」
そういう、もの……に、なってしまった。
もっとショックを受けるかと思っていたが、意外なほど由衣は落ちついていた。由衣も、悪魔。美弥もまた、悪魔。そして、あの男も。
みな、ひとの心の闇を喰って永らえるもの。
「あたしらには、実体ってものがない。強いていうなら、自分が思ったかたちが、実体になる。たとえば、こんな風にね」
美弥は立ち上がり、窓辺に寄ってカーテンを閉めた。まだ夕暮れには早く、南向きのその窓からは、カーテン越しにも十分な光が入り込んできている。そのもどかしい光を背にした美弥の髪が、突然、ざわざわと逆立った。
(続く)