かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

「麻子はシチューが得意です」

 俺が中学生の頃だったか、もう高校に入っていたか。
別冊マーガレット』(通称べつマ=別マ)に、くらもちふさこ氏が連載していた『いつもポケットにショパン』という作品がある。
 クラシックピアニストを志す高校生、須江麻子が主人公。
 麻子の母親の愛子は国際的にも高名なピアニストで、麻子は常にその母をプレッシャーに感じて生きている。
 その麻子と、幼馴染みで同様にピアニストを志す緒方季普(おがた・としくに、通称きしんちゃん)との家族絡みの複雑な関係や、麻子の不器用だが素直な様子がとても印象的な作品だった。

 当時くらもち女史は本当にのりにのっていたと思う。
 その後は次第に感性重視になり、それはそれでもちろん好きなのだが、ぽけショパ前後まではとにかく作家も作品も外を向こうとしていて、その足掻きめいたものがストレートにキャラクターや作品自体に反映していた頃だった。
 のちになると、自身の存在に達観したような部分が強くでてくる。
 これは思うに、ぽけショパやその前の『おしゃべり階段』で、いわゆる“どじっ娘”もしくは“不思議ちゃん”の感性がおおいに認められ、それ以前は「自分なんかヘン。居場所ない。どうしよう」的な不安に追われていたのが「自分ヘン。それでよし」に落ち着いたからなのではないか。
 もちろん、居場所を得たのちの活躍だっておおいにおもしろいのだが、切実な居場所探しが作品に反映していた頃の緊迫感めいたものが放つ、作品全体を覆うような不安感めいたものは薄まっている。“不思議ちゃん”は“天然さん”になり、そして天然さんは自ら「あーあたし天然だからー」と笑っていられるようになって、突き抜けたわけだ。
 そして俺は、俺自身が不安定で薄暗いやつなので、似たようなひとや場所が好きなのである。しかも未だ中学生やら高校生の頃とあんまり変わっていない。ひー。

 さてその『いつもポケットにショパン』には、忘れられない台詞がある。
「麻子はシチューが得意です」
 これは、麻子の母・愛子が、公開レッスンで放ったことばだ。

 麻子は、愛子にきちんとレッスンをつけてもらった記憶がない。
 自分は娘として、母にもっと愛されたいし、その愛はおそらくレッスンで最も濃くやりとりできるはずだと麻子は思っていた。
 麻子は不器用だ。髪はうまくまとめられないし、言いたいことは常にズレてしまう。
 愛子は無口で、なにを考えているかわからない。珍しく口を開くと、わけのわからない話が始まる。サンドイッチを食べながらショパンの恋人の話をしたりする。(ジョルジュ・サンドねw)
 だが愛子のピアノは雄弁だ。
 だから、と麻子は思っていた。ピアノでなら対話できるのではないか、と。母親と。
 自分のピアノが雄弁かどうかはとにかく、ピアノを介してなら自分もなにかが伝えられる気がする。
 畏敬の対象でもある母親と、慈愛の対話ができるのではないか。
 ピアノを介してなら。

 だがレッスンの機会はない。
 そんなところへ、母親が公開レッスンをすると報せてくれる。
 自分にも一度だってちゃんとしたレッスンをしてくれたことがないのに、先に誰ぞの子へレッスンかよ……てな不満を感じつつも、麻子はその会場へ足を向ける。
 そこで愛子は、鍵盤を叩くタッチを包丁の使い方にたとえた。
 が、そのレッスンを受けている子の母親がそれへクレームをつける。
 ピアニストが包丁なんか使って指にケガでもしたらどうするのか、と。
「ご自身のお子さまにはそんなこと言わないのでしょう」などと難癖までつける。
 その時に愛子が放つのが、

「麻子はシチューが得意です」

 このひとことなのだ。

 この台詞の、なんとすばらしいことか。
 これを言う愛子の表情の描写もすばらしい。誇りがある。信念がある。それはピアニストとしてのものであり、母親としてのものでも、いや、人間としてのものでもある。
 そう、人間としてのもの、があるのだ。
 ピアニストもまた人間であり、人間として成立していない者にいい音楽など紡ぎ出せるわけがないという理念。“シチューの得意な麻子”は人間としてもきちんとしているのだ。それが私の娘であり、私はその子の母なのだという自負。
 麻子はもちろん、それを悟る。悟って、心の中で幾度もありがとうと叫ぶ。わたしの指は生きています、と叫ぶ。
 生きているからこそ感じることがあり、伝えたい意志があらわれ、繋がりへと及ぶ。
 人間はそうして繋がろうとして初めて人間なのだし、そもそも音楽だってそういう繋がりのためにあるものではないのか。
 自分と母親は繋がろうとしていたのだ、やり方はお互いに下手だったけれど。
 そういう確信を得て、麻子は大きな枷から解放される。

 ぶっちゃけ「シチューが得意」ってどうよ、とは思うのね。
 いっちゃなんだが、要するに煮込みだからね。加減とか、あんまりないよね。ひたすら煮込んじゃえば、そこそこの味になる。ことに日本は、出来合いのルーがすばらしいからね。誰がつくったって、それなりにできちゃう。
 そういうものに得意とかなんとかって、どうなのよ、と。
 たとえばステーキとかだったらさ、究極は生肉なんだからさ。いかに生肉に近い、でも生肉よりもよい仕上がりにするかが勝負よ。火加減、スパイス、塩加減。香りをつけてみたり熟成させてみたり、いろんなレシピがあって、これでけっこう難しい。そういうものが得意だってんなら、感心もする。刺身だってそうよ。包丁一本で味が変わる。
 なのにそこでシチューですか、と。
 ただ確かにシチューは、刃物も使うわけだ。ケーキをつくるのに刃物は特に必要ない。不器用な麻子に炊き合わせはにあわない。いろいろぶっこんで煮込んでルー割って入れてできあがり、は麻子的。実際それまでにも何度か麻子がシチューをつくる場面があって、それも背景として活きている。
 それでも。いや、それゆえに。
 それを言い切る愛子に、麻子への確かな感情、親バカといってもいい感情を感じはしないか。
 剥き出しの愛情だ。娘へ向ける、至上の気持ちだ。ほかの誰にも向けられない、愛子の最も強烈な衝動だ。
 それがこのことばとなって、けれど静かに、放たれた。
 あれは名言、名台詞だ。
 名場面であり、ぽけショパの最も重要な瞬間だ。

 もしかしたら、と思う。
 くらもちふさこというひとは、誰かに「ふさこはシチューが得意です」って言ってほしかったんじゃないかな。
 料理するとなんか変になっちゃうけどシチューなら大丈夫。だから得意。これはあたしの味だと思う。と自分で思っていたら、誰かがそれを認めてくれた。ふさこのシチューいいよね、と。
 それがマンガという媒体で、多くの読者から支持されることによって、実現された。
 彼女は、それを作品でなんとか表現したかったんじゃないかなあ。
 だからあの台詞は、愛子のものでありつつ当然くらもち女史のもので、愛子にはレッスン相手へのものに見せかけた麻子へのものであったように、くらもち女史にとっては作品の一部でありながら読者のひとびとへの感謝と報告のことばであり、そして麻子やくらもち女史と同様「なんかヘン」なことに戸惑っているひとびとへのエールでもあったのではないかなあ。
 だとしたら確かに、おしゃれっぽい料理や技巧の必要な料理じゃだめなんだな。
 シチュー一点か。(似ているが刺激的にすぎるのでカレーは却下w)

 あのひとことで事実上ぽけショパは完成したと俺は思っている。
 きしんちゃんの件とかコンクールとかは予定調和に過ぎず、愛子のひとことが出た時点で、麻子の物語は一旦落着しているのだ。
 そして、あの場面こそ、くらもちふさこ氏が“不思議ちゃん”から“天然さん”に変貌した瞬間に違いない。
 俺はそう勝手に決めているのである。


※言い訳ですけど上記すべて記憶頼りで書いてます。倉庫へゆけば現物があるはずなんだけど、ちょっとゆく気になれませぬ。春だから。なので細かいとこいろいろ違ってたらゴメン。