かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

「かいじゅうさんは、おんがく、きらい?」――『ウルトラマンマックス』第15話『第三番惑星の奇跡』について もしくはごく個人的な三池崇史論(※ネタバレ含む)

――絵を描くのが好きだった孤児・アッコは病から視力も失い、その後は絵と同じくらい好きな音楽を志してピッコロを演奏するようになる。
 その発表会の直前、白く巨大な謎の球体が現われる。一見は無害な代物だったが、都市の真ん中に出現したことと、その巨大さゆえに焼却処分が決定され、焼夷弾による攻撃がおこなわれる。
 すると球体は、炎を噴き出す怪物に変化した。やがてそれは、光線やミサイルで受けた攻撃も“習得”し、それらを駆使する怪物へと“成長”してゆく。
 登場したウルトラマンマックスの攻撃までもすべて習得した怪物・IF(イフ)は、街を、アッコの発表会が催されるはずだった公会堂を、散々に破壊してしまう――

 脚本・NAKA雅MURA。監督・三池崇史。個人的にはむしろ嫌いな組み合わせだ。
 おそらく俺は、NAKA雅MURA氏は嫌いではない。だが三池監督ははっきりと嫌いで、なぜかといえば作品を創る時の視点がたいがい中途半端な高さにあるように感じられるからだ。
 どの作品がどうという話は省くが、全体に三池作品には「好き」という気持ちを冷めた手でつまむような作風を感じる。
「好き」に全力で飛び込むことはなく、かといって「好き」を排除するわけでもない。
「好き」を「好き」と知りながら、人指し指と親指でつまんで覗き込み(もちろんほかの指はぴんと伸ばしている)、ふるふるっと揺すって笑うような感覚で扱う。
ウルトラマンマックス』に参加した時もそういう印象で、ウルトラマンという対象(ヒーロー)をつまみ、覗き込んで笑っているように感じられた。
 だが、ただそれだけのひとだったら、嫌いもしない。軽蔑し忘れるだけだ。
 逆説的なものいいだが、嫌うのにだってエネルギーは要る。本当にくだらないものは、嫌いにもならない。なれない。
 三池監督の場合は、実は彼自身も対象への「好き」をもっていて(あるいは「好き」の仕組みを理解していて)、自虐的な要素も含めつつそれをおこなっているように思えるから、嫌いにもなれる。
 あるいは三池監督もまた「好き」のひとであり(いや「大好き」のタイプなのかもしれない)、だからこそ笑う方向へしかもちこめない、そういう視点で対応するしかないひとなのかもしれない。
 そう思えるからこそ、嫌いにもなれるというものだ。つまりは「好き」の表し方に、俺には容れられないものがあるということだ。

「好き」の表現は難しい。
 突き抜ければ「好き」を直球で表せるのだろうし、未満なら否定するだろう(が、観る者が観れば「こいつ未熟者だぜ、自己否定に気づいてねえよ」と笑う)。
 三池監督は当然、未満の者よりはるかに上だ。だが、突き抜けることはいやなのだろう。だから「好き」をもてあそんでいるように見える作風を選んでいるように俺には感じられる。それが俺には、視点の中途半端な高さに思える、というわけだ。
 NAKA雅MURA氏は一方、三池監督との関係の近さから、仕事で組むことが多いらしい。
 企画段階からタッグを組む監督と脚本家の関係は難しい。脚本家が我を通すことは難しいし、かといって無の境地で書くこともできない。その辺りを考えると、おそらく俺はまだNAKA雅MURA氏の本音に触れていない。だから氏への感想は保留となる。

 三池作品を観る時には、心構えが要る。自分の中に湧く“嫌い”の感情に囚われず、なんとかして作品に対さなければ、という緊張を維持しなければならないからだ。
 その三池作品で、珍しく素直に観られたのが『第三番惑星の奇跡』だった。
 最初こそ心構えをしていたが、途中からその映像の迫力に、またシナリオの巧みさに引き込まれ、構えを解いて作品に吸い込まれた。
 タイトルを一見した時には、これが『ウルトラセブン』第43話『第四惑星の悪夢』になんらかのインスピレーションを得たものだろうと感じたが、物語の直接の関わりはなかった。
 もっとも『ウルトラマンマックス』は過去の、特に昭和第一期(“Q”から“セブン”まで)のアップデートもしくはオマージュ作品という印象を強く備えているので、別に『第三番惑星の奇跡』だけが特別ということはない。インスパイアードという色は、他のウルトラシリーズよりもはっきりと出ている作品だ。
 なにしろレギュラー出演陣に黒部 進氏(ハヤタさん!)や桜井浩子氏(フジ隊員! 由利ちゃん、早苗さん!)、二瓶正也氏(イデェェェェェ!!!!)がいらしたりするわけで、さらにゲストが佐原健二氏だ西條康彦氏だときては、いやでも初期ウルトラを実感せずにはいられない。それにしても皆さん、老けられましたよね。ちょーイイ感じに。
 それでも一応『第三』と『第四』を比較すれば、「文明の過度の発展」が底流にあるという点、そこからの脱出のカギはエモーショナルななにかにあるのではないかという提案に強い共通点があるとは感じられる。
 念のために書いておくが、『第四』のアンドロイド国家が『第三』のIFに相当するわけではない。地球人が開発した武器がアンドロイド国家に相当している。
 IFは敵でも味方でもなく、『第四』におけるアンドロイド国家の成立と繁栄、すなわち人間の自滅的な衰退を、第三の住民の目前にものすごく短い時間へ縮めて提示してくれるモノだ。

――暴れ回るIF(イフ)により、都市は壊滅に近い状態にまで追い込まれる。
 そのさなかアッコは自宅の机の下に隠れ、愛用のピッコロを手に呟く。
「どうしてなの!?……どうしてわたしは、えも、おんがくも、やらせてもらえないの?……」
 そしてアッコは逃げることを拒み、愛用のピッコロを手にして、発表会が催されるはずだった公会堂のあった場所へ、ただひとりで向かう。
 泣きながら、けれど決然と。
 廃墟となった街を、ひとり公会堂へ向かう。
 IFに破壊され尽くした廃墟にたたずみ、アッコは泣きながら語りかける。
「かいじゅうさん!……そこに、いるよね?……」
 見えない彼女がどうしてそこへ辿りつけたか、なぜそれを感じたかはわからない。いや、あるいは見えないからこそ辿りつけたし、そこに“いる”ことも感じられたのかもしれない。
 アッコは問いかける。
「かいじゅうさんは、おんがく、きらい?」
「……わたしはね、だーいすきなの」
 そしてアッコは、発表会で演奏するはずだった曲を、絶対に手放さなかったピッコロで奏で始める。
 防災頭巾や、いのちを保つためのものが入っていただろうポシェットは、ここへ来る途中で棄てた。それでもピッコロは、手放さなかった。
 そのピッコロを、アッコは、奏でる。
 きっと被災地からの避難を拒んだ時点で、彼女、アッコの意志は確定していたのだろう。彼女は理解していたのだろう。
 自身のいのちを“おこなう”ことは、ただ肉体を保つことではない。物理的な存在を維持することではない。自身のこころをおこなうことだ。願いを求めることだ。
 そして彼女から、ショパンの練習曲作品10-3『別れの曲』が表される――

 この先は圧倒的な展開となり、予想もしていなかったラストへ結びつく。
 ここになにを読み取るかは自由であって、演者の台詞の通り「攻撃には攻撃、音楽には音楽か……」と、それらを対立する概念と解するのもよいだろう。逆に「音楽も武器のひとつ」と解釈する者もあってよい。
 そして、攻撃も音楽も接触もしくは表現の手段と考えるのもありなのではないか。

 そう、それは接触の手段なのだ。
 そもそもに、なぜ接触が必要なのか。それは、他者が存在するからだ。
 異なるふたつ以上のなにかが並立しなければ、接触という“現象”は成立しない。唯一が屹立するだけの世界に、接触はない。
 そして、接触のための手段はいろいろある。その基本が“表現”だ。並立他者が存在しない、あるいはその存在を認識していなければ、表現の必要はない。並立他者に接触したいから、表現というactionが生じ得るのだ。
 音楽もそうした表現のひとつであることは、疑いない。
 さらには“攻撃”も、表現のひとつと見做してよいのかもしれない。
 たとえばこどもが、好きな相手をいじめてしまう。歓迎されることではないが、これも接触には違いないし、表現であることにも間違いはないのだ。
 そういえば幼馴染みがぬいぐるみを叩いたりしていたっけ。「なんでこんなにかわいいんだ!」と言いながら抱きしめ、転げ、しまいには叩いて投げた。
 親はさぞ不安に思ったことだろうが、当時、俺には理解できた。
 どうすればいいかわかんないんだ。わかんないんだよね。
 こんなにすきなきもち、どうすればいいかわかんないから、できることをひとつずつちからいっぱいにやってるんだよね。
 それだけだよね。

 あるいは。
 IFという怪物、いや存在は、接触の権化なのかもしれない。攻撃を吸収し習得するものではなく、向けられたすべての接触に同等の行為を以て返す。
 この時、接触は一段上の行為になる。
 すなわち“交流”だ。
 接触は片側からのアプローチ。それに応えがあれば、それは交流となる。
 攻撃には攻撃を。音楽には音楽を。
 それをともにおこなうこと。まさにこれは交流。
 IFは、交流そのものを練り固めたものだったのかもしれない。

 こういう作品がポロッと出てくることがあるから、三池監督はやっぱり嫌いなんだ俺。
 そして、そういう作品を収容できる「ウルトラ」というシリーズが、俺は大好きだ。
 フトコロが深いんだな、ウルトラシリーズは。