かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

悟った!

 あっ。
 突如、天啓のごとく結論が降ってきちゃったぞ。
 わあ。
 驚いた。

 個人的な話だけれど、どうも『ウルトラマンマックス』にはノリきれないのね。
 平成三部作はどれも好きだし、ネクサスも好きだし、メビウスもけっこう好き。オーブもよかったし、ジードはもうリクのがんばりというか成長がうれしくて。(でも一番惹かれたのは伏井出さんの屈折ぶりだったけどな)
 でもマックスにはノリきれない。
 なにかが違う、どうも違う。
 なぜなんだろう。
 ずっとその辺がもやもやしていた。

 ところが。
 さっき突然わかりました。
 マックスは、あくまでも俺の視点からの観方ではあるけれど、あれは“おとなのクリエイターたちのウルトラマンごっこ”なのだ。
 だからノリきれないのだ。
 わあ。わかっちゃったよう。

 たとえばネクサスは、初代以前に立ち返り、「宇宙からやってきた光の生命体が地球と地球人類にかかわりをもったら」という発想を展開させた創作物だった。
 だから土台になる“ウルトラマン”という概念はあっても、その具体的なありようはほぼゼロから創り直した。ウルトラマンとはなにかという定義から練り直した創作物だ。
 平成三部作も同様で、確かにウルトラマンという概念は大前提だったが、その存在意義や設定自体はやはり土台から定義し直している。M78星雲、度外視。ガイアに至ってはティガ・ダイナで組み上げ直したものを再び放棄してまでウルトラマンを創作していた。
 コスモスも同様。ただコスモスは大前提が俺の好みに合っていなかった。これは好きではない理由がはっきりしている。メビウスは特殊で、というのもメビウスは昭和ウルトラの集大成でありエンサイクロペディアであり再解釈であり、昭和ウルトラを熱心な視聴者として受け止めたこどもたちによる“あのヒーローの足を地につけるための整理”だったからだ。だがその整理作業の根底には、常に創意があった。昭和ウルトラに不足していたものを補おうという創意。それはオレたちが創る、という意志。
 飛んでギンガ以降は、メビウスをさらに土台にして発展させたり、ウルトラマンという“シチュエーション”でなにをするかという挑戦だったりした。
 すべてそれらは、創作だった。

 だがマックスは、おそらく、創作ではなかったのだ。
 ウルトラを知っている世代のクリエイターが、ウルトラマンごっこに興じた。
 そう解釈すると、俺には一番しっくりくる。

 再解釈というよりは、その設定を楽しむためにやっている。
 だから、ウルトラマンを再定義することはない。する必要もない。
 再登場怪獣が多いのは、その怪獣でなにをするかとかよりも、その怪獣が好きだから出すという感じ。この点、たとえばマックス第14話『恋するキングジョー』の登場ロボットがキングジョーである必要がない(ひとが乗れて強ければよいので、ビルガモだってガメロットだってかまわない)のと、メビウス第32話『怪獣使いの遺産』の登場怪獣がゾアムルチでなければならない差を考えればわかる。
 中にはナナメに構えてアプローチする者もあって、それも“ごっこ”ならではのことといえる。真ん中にもともとウルトラマンがあって、それは動かないから、横へハミ出すことができる。
 ウルトラマンを楽しんでいるのであって、創っているわけではない。
 最終的にはきれいにまとめた感はあるが、それは小中千昭氏の力ワザといえる。
 ほとんどのエピソードは百%の創作ではなく、おとなの“ごっこ”なのだ。
 だからたとえば、メビウスの怪獣使いの話がオリジナル(『帰ってきたウルトラマン』第33話『怪獣使いと少年』)に対するひとつのアンサーになっていても、マックス第24話『狙われない街』はオリジナル(『ウルトラセブン』第8話『狙われた街』)のアンサーにはなっていない。どころか、同じメトロン星人が出てきて監督が実相寺昭雄氏で宇宙人と宇宙人が卓袱台はさんで対話しているのに、続編という印象もあまりない。
 なるほどー。だからかー。

 別に“ごっこ”が悪いとは思わない。
ごっこ”がこどもの遊びで、だから軽視に繋がる……という意見があるのなら、トリビュートだってオマージュだっていい。個人的には“ごっこ”が一番しっくりくるが。
 要するに「ウルトラマンでなにか創ろう」ではなく「ウルトラマンを楽しもう」がマックスだったということなのだ。
 だが俺はウルトラには常に創意を求めている。だからノリきれなかった。
 俺はそれだけウルトラとの距離をとれていない。
 あいかわらずこどもじみたウルトラファンなのだ。
 次になにを見せてくれるかワクワク待っている。客観視して遊ぶ余裕がない。
ごっこ”にできるだけの冷静な目をもてていないのだ。

 だからマックスにおいても、太田脚本作品は好きなのだな。
 太田脚本はそもそもウルトラを特段意識してはいないと思う。
 もちろんクライマックスではウルトラマンが登場するわけだが、ぶっちゃけ他のヒーローでもよい。巨大ヒーロー、怪獣(というよりは異形)、人間という組み合わせに、なにを織り込むかを、常に彼女自身の感性で創作している。
 そういう部分に彼女は妥協も忖度もしないのだろう。

 そうかー。マックスはおとなの“ごっこ”だったんだぁ。
 納得した。