テトリスそのほか
若いひとはご存知ないかもしれないが、その昔――そうだねえ、およそ25年ぐらい前かねえ――、『テトリス』っていうテレビゲームがあったのさ。
とにかく大ヒットしてね。
もともとは、ソ連(そう、まだソビエト社会主義国連邦ってのがあった頃の話なんだよ)のアレクセイ・パジトノフってひとが、「人間は同時にいくつの図形を的確に認識し処理し得るか」のデータ作りのために作ったソフトだったという。
どんなゲームかといえば、設定されたゲームフィールド内に、四つの正方形を組み合わせたいくつかのブロック(くの字、凸の字、×4の正方形その他)が落ちてきて、これがフィールドの底に溜まってゆく。
ブロックが横列に隙間なく並べば、並んだ横列が消える。消さないと降ってくるブロックがどんどん積み上がり、それがフィールドの天井に達したらゲームオーバー。
プレイヤーは落ちてくるブロックをレバーで左右へ移動させ、ボタンで回転させて向きを変えて、任意の場所に積み上げることができる。一度他のブロックと接したブロックは、基本的にそこで貼りついてしまって動かせない(触れる瞬間にレバーでスライドさせたりボタンで回転させて、通常はハマらない場所に強引にハメ込むというテクニックも存在した)。さらにブロックが落ちてくる速度は、次第に早くなってゆく。あるレベルを越えると、瞬時の判断力とそれに追随する指先の反射能力がものをいい始める。それが続くと、ある種のトリップ感さえ味わえた。
まずはセガからアーケードへ出て、これがいきなりセガ、いやメガ、いやいやギガヒット。
俺の記憶する限り、あれだけヒットしてどこのゲームセンターへ行っても複数台置かれていたゲームは、それこそ『スペースインベーダー』以来のものだった。(後日、『ストリートファイターII』と『バーチャファイター』がそれを越えるけどな)
コンシューマーでもセガが、と思っていたら、ブレットプルーフソフトウェア(BPS)がファミコンをプラットフォームとして出した。これは大騒ぎになった。契約上の隙を突くような、どうにも納得のゆかない流れの結果だったと後日判明する。といっても悪いのはBPSじゃないと思うが。権利を高く売りたい側の理屈だったんだろう、多分。
セガの当時のメインハードはメガドライブだった。あそこでテトリスを売りに出せなかったおかげで、メガドラユーザーは増えなかったのだと俺は思っている。後日、ソニック・ザ・ヘッジホッグで改めて「16ビットすげえ」と思わせてくれたメガドラではあったが、その時にはいかにも遅過ぎた。
『テトリス』という名は、いわゆる四段消しのことを意味しているのだそうだ。
落ちてくるブロックの種類のひとつに、正方形が一直線によっつ並んだだけの、通称「棒」と呼ばれるものがある。これが入るように、フィールド内にひとマス分だけを空けてブロックを積んでおく。で「棒」が来たらそこへ挿入、すると横列四段分が一気に消える。
この四段一気をロシア語でテトリスたらゆうらしいがな。
本当かどうかは知らない。
さて、ここからがやっと本題。
かつて、素っ頓狂なライターが「テトリスは四段消しの快感が魅力」みたいな記事を書いていたんだな。
それを読んで俺は、「ああ、わかってねえ」と思った。
確かに四段消し=テトリス達成は快感だ。だがそれは、消す快感じゃないんだよね。
「四段消しを“作る”快感」なんだよ。
消すのが楽しいわけじゃない。
テトリス実行可能な状態を作るのは、意外に難しい。思った通りのパーツが降ってくるとは限らないからだ。実行可能な状態ができても、なおテトリス達成は難しい。ちょうどよく「棒」が降ってくるとは限らないからだ。
時には、テトリス可能状態を必死で維持しているのに、とことん「棒」が来ないで無駄死に、なんてことも起きた。そんな時の悔しさったら、なかったよ。
とにかく全身全霊を込めてテトリス可能状態をつくり、維持し、「棒」を待ってテトリスを達成する。それがテトリスの大きな快感であることは間違いない。
だがそれは、「消す」快感じゃない。
逆。
「作る」(生み出す)快感なんだ。
およそ人間ってのは、破壊に快感を覚えるようにはできていない。というより、作る方により強い快感を覚えるようにできている。ごく稀に、本当に破壊だけに快感を覚える人間がいるが、これはたいがい本人がどこか破壊されているか、きっちり作られてこなかったかの事情によって存在している。
消すこと≒破壊することが快感のゲームだったら、テトリスはあんなにヒットすることはなかったんだよね。
上記の通り、テトリス実行可能状態を作ること。そしてなによりも「テトリスを作る」こと。それがテトリスというゲームの快感の根本なんだ。
それがわからないライターは、人間そのものを全然理解していないわけで、まあダメなお方だな、と思ったわけだ俺は。
これは別にテトリスに限ったことじゃない。
『スペースインベーダー』だって、押し寄せてくるインベーダーを消すことが楽しいってものでもない。“イカ残し”(一名“名古屋撃ち”)をつくり、14発めのUFOを狙い撃つ。高得点にたどり着ける者は皆、このパターンを繰り返す。というより、このパターンを繰り返せなければ、高得点は得られない。このパターンを達成し繰り返すことが、つまり「高得点パターンを作る」ことが、おもしろみなんだな。ずるずる降りてくるインベーダーをただ単に消し続けるだけでは、すぐ飽きる。
もっと根源的には、自分が“死なない”こと=自分の命を「作る」。これが快感だったりもするわけだ。雨あられと降るインベーダーの弾を避け続ける、これもやがてトリップに至る。
対戦型格闘ゲームも同じ。特に対CPU戦では、最初のうちこそ敵を倒す快感で進められるが、プレイヤーがあるレベル以上になると「鮮やかに倒す」ことを狙い始める。これも「作る」行為だ。鮮やかな流れ、見ている者にも楽しい場面を「作る」。あるいは、出しづらいワザを見事に決める場面を「作る」。そういう楽しみ方をするシチュエーションが設定されていないゲームは、ヒットしない。
俺の好きなウィザードリィに至っては作るところだらけで、いちいち例を挙げられないほどだ。なにしろファーストステップが「キャラを作る」だもんね。途中で懐中時計を作ったりすることもあるしな。なにより「迷宮のマップを作る」ことができなきゃ、一歩も先へ進めない。
まあとにかく、普通に生まれ普通に育った人間にとっては、消す=破壊することよりも、組み立てる=作ることの方が快感になるってことだ。
今の世の中がわりと暗い雰囲気に覆われているのは、いろいろな意味で“作る”余地が減っていることに起因するのだろうとも思う。ん。これはかなり強引か。まあいいや。
ここんとこ、どちらかというと“消す”ことが中心の生活を送っていてね。
疲弊しながら、ふとそんなことを思い出したんだよ。
なんか作ることしないとだな。
でないと元気になれない。
なにか考えよう。