かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

理性の一人

(私は卑怯だ、確かに)
“ナイト”の到着を待ちながら、彼はひとり頷いた。
 店のカウンターの中から、若い女――この店の経営者であり、たったひとりの正規の店員でもある――が、そんな彼を気味悪そうに見ている。カウンターには彼女の齢の離れた妹が座り、彼に背を向けながら、それでもちらちらと彼を窺っている。
 ふたりの視線を充分に感じ取りながら彼は、目の前ですっかり冷めてしまったコーヒーを、見るともなく見ていた。
 そう、自分は卑怯なのだ。
 奴らには、奴ら自身の動機がある。
 奴らの行為が、時には奴らの動機自体が社会に受け入れられないものだったとしても、奴らは奴ら独自の則に従って行動している……はずだ。
 だが、自分はどうなのか。
(……およそほとんどの部分を、私の外側に備えている……といっていいな)
 自分の外側の理由。
 それはたとえば、社会の秩序の維持。正義の遂行。国民の利益の確保。
 悪党どもという不要分子を退治するということは、つまりそういう錦の御旗を掲げて行動するということだ。
 だが、その御旗自体は自分のものではない。
 自分の中で生じ、自分が育んだものではない。
 それを借りて、それを実行する――そこに自分の主体的な理由は、
(ないわけではない。その旗を戴くことを決めたのは自分だし、実行すると決めたのも自分だ。だがそれは、根源的な裁定ではない。そもそも正義を定めたのは自分ではないし、社会を築いたのも自分ではない。その社会に奉仕することにしたといっても、それはどこまでいってもひとの褌に過ぎない。なのに……)
 自分はそれを、秩序の維持を正義の遂行を、やめることができない。いや、もはややめるわけにはゆかない。今さら引き返すには、あまりにも多くの“実績”をつくり過ぎた。ある意味ではすでに、自分自身が社会を脅かす存在なのだ。この立場から逃げ出すことは、できない。
(正義、か……)
 彼は自嘲の冷笑を片頬に浮かべた。
 それを認めたカウンターの女が、改めてぞっとしたように肩を震わせる。
 彼はよくこうしてひとりで笑う。それはほとんどの場合、自分自身へ浴びせる冷笑、あるいは憐れみの笑いの類だ。だが周囲の者にそう気取られたことはない。周囲の者たちは彼の笑みを、他の誰か――目前の誰かや、その時々の標的となる“敵”へ向けた嘲笑だと思うらしい。彼はそれほど冷徹で酷薄な自信家だと思われている。
 もっともそれに不都合はない。むしろそう思ってもらっていた方がいい。
 徹底的に社会正義を追求する者が、自身の責務の重さに喘ぎ、また逡巡しているなどとは、思われない方がいい。そういう弱みに勘づかれることは、そのまま任務の遂行への支障となる。いやそれどころか、自身で組織した機関の根本的な否定にも繋がる。そしてそれは、もはや止めるわけにはゆかないこのシステムの、システムに加わった者たちの、致命的な障害以外のなにものにもならないのだ。
 遂行し続けるしかない。
 そして“敵”は、自分自身の判断で裁き続けるしかない。
 すべての責任を負いながら。敵のことについての、仲間のことについての、すべての責任を常に感じながら――そう、仲間たちの。
 彼らはそう認めていないかもしれない。いや、認めてもらわない方がいいだろう。自分は司令塔であり、調教師であり、絶対の上司。そう思ってもらっていた方が、むしろ彼らにはいいはずだ。なまじ感情など寄せてくれない方がいい、でなければ自分が彼らに向き合えなくなる。借りが重過ぎて、彼らの顔を正視することさえできなくなる。嫌ってもらった方がいい。
(……またか)
 彼は自身の気弱さを、再び嘲笑った。
 自分の中に自分から生じた動機がなく、すべて借り物であると考えていた次の瞬間には、“嫌ってもらった方が”などと考えている。本当にすべてが借り物だ。自分が割り切ることができないから彼らに嫌われたいなど、愚かしいことこの上ない考え方だ。
 こうなることは、知っていた。
 組織を構築する前、その必要性について、考えた。維持について、考えた。その中に自分がどう組み込まれ、そうなった時に自分がどうなるかも考えた。とことん考え抜いた。その過程で、ほぼすべての可能性は吟味し尽くした。いや、ほぼ、という形容は用心深い彼だからこそのものであって、彼の吟味を他の誰かが見ることができたなら、それはまさに完璧といっていい、なにひとつ遺漏のない吟味と思っただろう。それほどに彼は、考え抜いた。
 だから彼は、自分がこういった気弱さに翻弄されるであろうことも、実行以前から知っていた。そう、“知って”いたのだ。感じたり予想したりするのではなく、間違いなく起きる事象のひとつとして、知っていた。だからこそ、このシステムの責任は他の誰にも預けられない、自分自身が負わなければならない――とも。
 それでもなお、防ぐことはできないものなのだ。裁くということが裁く者にもたらす大きな負担は。裁くために仲間を傷つける、そのことの負担は。相手が悪党であれその命を奪うこと、その負担は。
 だが。
(……これは私の負うべき荷だ)
 なぜそうなのか、それについても考えた。当然、結論は出ている。だからもうそれについて考える必要はない。だが理解していても感情が拒もうとする。それも“知って”いた。その上で行動を興したのだ、もはや逃げ隠れできる先はない。
 そこだけが、同じなのだ。
 彼と、彼の仲間たちと。彼の敵たちとも。
 そう、敵たちとも同じだ。
 結局は命を弄ぶ悪党と同じ。それが自身の則に従って生じたものか否かにかかわらず、自分の興した行動によって自分が負った荷は、もう降ろせない。この先はずっと、その荷とともに自分の役割を遂行し続けるしかない。そしてそれは、決して誰かに認められたり、赦されたりする類のものではない。
 自分はすでに、そういう者になっている。今さら気弱になっても遅いし意味はない。意味がないなら、そこに取られる力は無駄にしかならない。そして自分には、無駄にするべき力も時間も残ってはいない――けれど時には、どうしても立ち向かえない時もある。
 そんな時には……。
 ちりりりん、と軽やかな音を立てて、店のドアが開いた。
“ナイト”だ。“ナイト”がやって来た。
“ナイト”は彼に軽く手をあげてあいさつし、向かいの席にどすんと座った。遠慮のない若造だ。そこがなにより、好ましい。
(……宣告、の、時か)
 彼は懐から小さな箱を取り出した。
“ナイト”の運命を転がす、危険極まりない小球が入った箱だった。

(了)