かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#4】邂逅−01

(承前)

 それは、家中に響くどしんばたんという音とともに、突然、居間に現れたのだった。
 目を醒まして撥ね起き、ゴルフクラブを握って寝室から出た父親は、そこに醜悪な化け物を見つけた。同様に目を醒ました弟と母親は、父の肩越しにその異形を見た。
 獣とも人ともつかない、いや、あるいは機械かもしれないとさえ思える化け物。
 そいつは、真っ直ぐに立ったら三メートルにも届きそうな巨体を窮屈そうに丸めて、集まった家族たちを睥睨した。
 逃げろ、と父親が叫ぶ。そして居間の戸口に立ちはだかって、化け物に殴り掛かる。だが化け物は、わずかな痛みも感じなかった。
 ふん。馬鹿め。たかがエサの分際で、何をするか。
 化け物はひょいと片腕を振り、その一撃で父親を、軽々と部屋の隅へと弾き飛ばした。
 返しざまに、逃げようとする母親の背に向け、手を振るう。
 一本が赤ん坊の腕ほどもある指、その先端に突き出た出刃包丁のような爪は、母親の背肉をやすやすと削ぎ取った。三筋の抉れ傷から、音がしそうな勢いで血が吹き出す。
 のけ反り倒れた母親は、階段を這い登ろうともがいた。その全身が急にびくんと硬直したかと思うと、がくがく痙攣し始めた。
 見る間に、母親の腰の下に湯気を立てる水溜まりが広がり始めた。失禁しているのだ。あの快感──精神を喰われる快感のあまりの激しさに、母親は失禁してしまったのだ。
 失禁しながら母親は、喉を反らせて首を何度も左右に振っていた。首を振るたび、口からは大きな涎の粒が飛び散る。背にあれだけの傷を負っているというのに、その顔には、はっきりと笑みが……弛み、陶然とした笑みが浮かんでいた。その笑みには、普段彼女が母親として振る舞っている時とはまるで違う、ひどく生々しい、淫らなものがあった。それは何か生理的な嫌悪感すら催させる、卑しい表情に思えた。
 母親の痙攣が弱まるにつれ、満腹感──といっていいのだろうか、全身に充実の感覚が広がってゆく。喰っているからだ。母親の精神を喰い、そのエネルギーを自身の体内に吸い取って、我がものとしているからだ。
 やがて母親は、笑みを貼りつかせたままの顔を、階段の上にごとんと落とした。同時に、肉体の端々から、一気に力が抜けていく。
 母親の最期を見て腰を抜かした弟は、二階の廊下の真ん中で震えていた。
 化け物は大股で歩み寄り、彼の両腕を掴んで持ち上げると、左右に軽く引っ張った。ごりごり、と固い物がこすれ合う音とともに、弟の体はチーズのように裂けた。
 化け物が手を放す。ごん、と鈍い音を立てて、弟の体が廊下に落ちる。弟は、半分に千切れた体を踊らせるように動かして、自分の部屋へと這って行く。背中からはみだした自身の臓物を、床にずるずると引きずりながら。
 部屋に辿り着いた弟は、そこですっかり力を失い、倒れた。ひくひくと末期の痙攣を始めた時に、化け物は、その精神を喰った。
 大した陶酔も感じられないまま、ただエネルギーが流れ込み体を満たしていく。不味い……呟きながら化け物は、けれど、最後のひとかけらも残さず、食事を終えた。弟の全身を揺する痙攣がすっかり収まるのを見届けてから、化け物は、ゆっくり階下へ向かった。
 居間では、壁にしたたかに頭をぶつけ意識を失っていた父親が、ようやく目を覚ましたところだった。その父親に向かって、化け物は語りかける。喰ったぞ、と。お前の家族を、みな喰ってやったぞ、と。
 父親は憤怒に表情を歪め、まなじりから滂沱と涙を流しながら、力一杯にゴルフクラブを振りかざして、化け物に立ち向かった。
 化け物はそれを平然と受けつつ、指先で彼を弾く。そのたびに彼は部屋の端まで吹き飛ばされ、家具の角や硝子の破片で全身傷だらけになっていった。だが彼は、それでも起き上がっては化け物に立ち向かうのだ。彼には、それ以外に今できることも、しなければならないと思うことも、残ってはいなかったのだ。
 だが、その抵抗も、突然にして終わる。化け物が、彼の精神を喰らい始めたからだ。
 精神を蝕まれて、彼は、がっくりと床に座り込み、そのまま壁に倒れた。
 脱力し、人形のようになりながら、彼は腰を激しく前後に振っていた。
 やがて背中に鉄の棒でも入れられたかのように彼の全身が反った。そして、その一瞬の硬直の後、彼はぶるぶると体を震わせ、次にはだらりと弛緩した──。

 由衣は、声を上げて泣き出していた。
 その泣き声で、由衣は目を醒ました。
「あ」
 声を出し、左右を見た。
 由衣は、道端にしゃがみ込み、眠り込んでいたのだ。
 その低い視線に、夕刻を迎えて慌ただしさを増した人々の雑踏と、これから先が自分の時間だと言わんばかりに毒々しく輝く、ネオンの光が割り込んでくる。
(夢、なんだ……。それにしても、なんてリアルな夢なんだろう。まるで自分が、その場に居合わせたみたい。……なんていやな夢)
 由衣は大きな息をひとつ吐き、改めて周囲を見渡した。
そこは、以前には少し恐くて、立ち入ることのできなかった街だった。
 ひたすらに人が多く、それに倍数比例して危なげな者たちも多く、警察さえもその全容を把握しきれてはいないと噂される街。
 ここなら、彼女を隠してくれる気がした。
 それで由衣は、この街へと逃げ込んできたのだ。
 あの日から──家を出た日から、五日が経っていた。
 ビルの壁面を飾るビデオサインで、自分の家の事件の報道を見たのは、昨日のことだ。そのショックが、今し方の悪夢を見せたのだろうか。
 ビデオサインのニュースは一昨日、あの男──由衣を乗せてくれた車の若い男のニュースも報じていた。だがそのニュースは、ごく浅いものだった。それというのも、屍体ともども男が、由衣と別れたあの場所で発見された時には、男はすっかり気がふれており、供述も何も取れなかったから、らしい。
 自分が彼を追い詰めてしまったのだろうか。自分に何か、できることがあったのだろうか。
 由衣にはそれが、どうしてもわからなかった。
 考えようとしても、あの男の目を……由衣に向けた、ひと以外のものを恐れる目を思い出した途端に、すべての思考がストップする。それを考えようとすることを、由衣の心は拒んでいた。今、それを考え続けた先にあるだろうものを、由衣は恐れていた。
(もう夜か。今夜を過ごす場所、見つけなくちゃ)
 由衣はゆっくりと立ち上がった。と、ぶぅぅぅん、という低い音が、耳の奥で鳴った。
(あ、まただ……また、耳鳴りがする)
 由衣は、壁に凭れかかって目を閉じ、両手で頭を抱えた。
 由衣がこの街に入ってから、何度も聞いた耳鳴りだ。
 夜となく昼となく、それは突然に鳴り始める。由衣は、ひどい時には一日中、この耳鳴りに悩まされなければならなかった。
(この街も私を受け入れてはくれない、ってことなのかな……)
 彼女が、見るからに体の調子が悪そうな様子をしていても、誰も優しい声など掛けてはくれない街。たまに肩を叩いてくる者は、みな一様にいやらしく歪んだ顔で彼女を誘う。
 そんな街すら、彼女という存在を認めないというのだろうか。
 由衣は、また瞼を閉じた。
(でも……帰る場所も、頼る人もいないんだ、私には。……もう、何も。誰も)
 由衣は壁に背をつけ頭を抱えたまま、再びその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
 この街に来て以来、由衣は、昼間は公園や道端で、夜はカプセルホテルで、ただぼうっと時間を過ごしていた。
 最初の二日ほどは、ホテルに入っても眠れなかった。だが、それで体が疲労するという感覚は、ない。おそらく悪魔の体には、睡眠は必要ないのだ。睡眠めいた休息は、むしろ由衣の心、ひとの心の疲労が求めた。今し方のうたた寝も、そんな疲労が求めた休息だった。
 由衣はまた、空腹感を覚えることもなかった。もっともそれは、悪魔に空腹という状態がない、というわけではないのだろう。おそらく、喰い溜めのようなことができるのだ。なにしろ、由衣の今の肉体は、由衣に乗っ取られる直前に、たっぷりと“食事”を済ませている。
 食事をせずに済むのだから、それほど手持ちの金が減ることはない。汗をかかない体にまとった服は、垢じみてくることもない。衣類はただ、街の埃を吸って汚れてゆくだけだ。
 洗濯の手間や費用が省けるのはありがたいことではあった。けれどもそれは由衣に、
(……人間……じゃ、ないよね。私)
 そんな独り言を重ねさせることでもあった。
 それでも由衣は、この街が怖かった。特に夜は、この街のどぎつさから離れていたかった。それで由衣は、夜毎ホテルに泊まっていたのだ。
 だが、この調子で行けば、あと半月と経たないうちに由衣は文無しになってしまう。それへの漠然とした不安を、由衣は感じ始めていた。
 不意に耳鳴りが途切れた。
 由衣は、頭を抱えていた両腕を下ろし、壁に寄り掛かって座ったままで、また人の流れを眺め始めた。

(続く)