かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

天国と地獄

 マンガ『ONE PIECE』に関するお話。

 なお俺、ジャンプ講読しとりません。なので現在、連載がどこまでどう進んでいて、どういう状況になっているか知りません。尾田先生ごめんなさい。しかもソースはラーメン屋に置いてあったコミックスです。買っていません。集英社さまごめんなさい。
 というわけで以下は、たまさかラーメン屋で読んだコミックスを読んで思ったこと。
 その点、特にコアなファンの方はご容赦の上でご覧くださいませ。

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 一応『ONE PIECE』は最初から読んで、二年の休暇のあと一同が海底へ潜り、サニー号にコーティングをしようぜって話がまとまった……って辺りまでは消化してる。が、そのあとは着いていけてない。齢とったせいもあって、次々と霜降りステーキや脂の乗った鰤とか並べられてもなかなか食えんのです。こってりした料理がだんだんつらくなってくる年頃なんですよ。
 でも先が気になる部分はあるわけで、よく行くラーメン屋にぼちぼちとコミックスが置いてあったりすると、ラーメン食いながらぱらぱら拝見したりしております。
 相変わらずエネルギー容赦ないよね、すごいと思う。

 で、そしたら、海賊ドンキホーテ・ドフラミンゴ(以下ドフィ)がこんなこと言う場面が出てきた。うろ覚えで申し訳なさ目一杯ながら、こういう感じ。
「俺は(この若さで)天国も地獄も見ちまったんだよ」
 それ見て強烈な違和感を覚え、そして「あーこりゃドフィ全然アウトだな」と思ったというお話。
 もんのすごーく端折っていえば、ドフィは天国も地獄も見ていない。いや地獄は見たかもしれないが、天国は知らない。それで世界を恨んで世界を滅ぼそうとしてんだから、こいつは目的には至れないし、ドフィのやり方では世界は滅ぼせないなあ、と。
 そう思い、ああ尾田先生さすがにわかってらっしゃるな、と感じたのね。

 ドフィが見たと主張する天国と地獄とはどんなものか。
 ドフィは、かの物語の世界では、理由もわからず崇拝され特権をもつ天空人と呼ばれる“階級”に出自があり、天空人以外の人間は全部奴隷扱いしていいという“天国”を知っていて、でも理想化肌の父親の甘い目論見から野に降り特権を失し、そしたらそれまで奴隷扱いしていた人間たちから寄ってたかって復讐されて“地獄”を見たってことなのね。
 これ、天国じゃないよね。
 地獄の方は地獄かもしれない。でももうひとつ足りない気がする。

 じゃあ天国ってなんなのか。
 それを俺は、「信」のある状態だと思ってんの。

 おそらくそれは、生まれたばかりの頃、親たちから無条件に愛でられ育まれた経験に基づくものなのだろう。すべてに疑うべき要素はなく、存在は完全に肯定され、あらゆることは叶えられたあの時期。
 呼べば誰かが必ず応え、なにをせずとも身の周りのことはすべて整えられ、ただシンプルに生きることだけを文字通り無心に欲し、それが叶えられた時期。
 世界はまさに自分のためだけにあったといえる時期。
 生まれて最初に経験してしまった、無上の幸福。
 そしてそれは特別なことではなく、本来は生まれたいのちすべてに与えられるべきもの。普遍といってもいい。少なくとも哺乳類においては、それは普遍といえると思う。
 もちろんこれは理想的な話ではあって、実際には人間以外には天敵がいるし、人間には貧困とか飢餓とか戦争とか人格形成不全の親とかいろんな問題があって、必ずしもすべての赤子が上記のごとく過ごせるものではないってことはわかっている。魚とか、卵から孵ったとたんに食われたりしてるしな。卵のうちに食われたりもするしな。
 でも、幸福という概念を追求すると、その辺に至ると思うのよ。

 存在の無条件の肯定。
 生存の無条件の保証。

 おとなになっても人間は、それを欲する。それを満たされた状態を幸福というのだ。そしてその幸福な状態にあることを、比喩的に、天国にいる、というのだろう。
 現実にはそれが完全に達成されることはないけれど(なぜ達成されないのかは今回は特に触れない)、この状態、無条件の肯定と保証には、欠かせないものがあるんですな。
 それが「信」。
 無条件の肯定や保証は、自分で準備しようとしてできるもんじゃない。協力者が必要だ。人間はそもそも単独で生きることができない生物で、もし物理的に単独で生きていても自身の人格の中に複数の視座があれば実際には複数いるのと同じ。
 それに、自分が根本的に関与介入できないもの、つまり他者の人格、異なる価値観に肯定されなければ、自身の納得できる自身の確立は難しい。この辺、たとえ話や具体例を多用しないと伝わりにくい話だとは思うんだが、なにしろほら齢だから俺。あんまり根性入れてあれこれ書くの、つらいから。うっかりそれを始めると、先日の『報道に真実を求めるうちは』みたいになっちゃうから。
 ともあれ、だいじなとこは二度いうぞ。
 人間はひとりでは幸福を完遂できない。
 異なる人格、平たくいえば自分以外の誰かがいなくちゃ、幸福を完成させることができない。
 そして、そういう幸福があっちもこっちも満たされた状態を天国という。

 そういう幸福の根本に必要なのが「信」だ。
 単純な話で、自身が信頼できない誰かに褒められたり認められたりしても、意味ないでしょ? “このひとだ!”と自分が信じたひとに認められて、初めてそれは価値をもつわけよ。
 でも「信」は得難い。自分が信じられるのも、自分が信じるのも、難しい。それがなぜかは、これまたいっぱい説明が必要なので(もしかすると宗教なんてものは信の説明と実現のためにあるのかもしれないってぐらいだ)、申し訳ないが端折る。
 ともあれ、だからこそ、多くのひとびとにとって幸福は遠く、天国の門は狭い。

 さてここでドフィを振り返る。
 ドフィは「信」を得ていたか? ある意味、得ていただろう。天空人として無条件に存在を、生存を保証されていた時代。それは彼の「信」の源ではあった。
 だがそれは、赤子の記憶と同じだ。
 人間は長ずるに及んで世界は父母のかいなの中だけではないと知る。自身の存在・生存を肯定してくれなかったり、ひどい時には否定されたりすることもあると知る。そういうものどもの中で最大の敵は誰あろう自分自身で、自我の存在ゆえに自我は否定されざるを得ないという堂々巡りの中にある。
 その時期を経てどうにかこうにか自我を説き伏せ、然るのちにようやく外部に「信」を求められるようになり、そして運がよければめぐり合える……かもしれない。
 ドフィはどうか。ドフィは未だ自我を説き伏せておらず、父母のかいなに相当する天界から脱していない。いわば赤子同然なのだ。他者を信じるかどうかなんてのは、遠い課題だ。その前に自身の中の敵ときちんと対峙できていない。
 これでは天国を知ろうにも知りようがないじゃないか。

 一方、地獄。
 確かにドフィが受けた仕打ち、自身になんの落ち度もないのに徹底的に糾弾され責められるという仕打ちは、地獄と呼べるだろう。天空人時代に他の人間を奴隷扱いしたことは、落ち度とはいえない。それはドフィの外部に事情があり、ドフィはなにも知らずに周囲の真似をしていただけだ。無知は罪ではない。糾弾される事情にはならない。無知に気づいて努力しないのは罪だが、無知自体を知らないんじゃどうしようもない。なのに過酷な目に遭わされたのなら、これは地獄と呼び得る。
 だがそんなドフィも、最悪の仕打ちは受けていない。
 最悪の仕打ちとはなにか。
「信」を失うことだ。

「信」はいろいろなかたちで失われ得る。
 他者が自分へ捧げてくれていた「信」が、自分の落ち度によって失われるというパターンもある。逆もまたある。他者への「信」を自分の落ち度で失うってのもあるし、その逆もある。いずれにせよ、一度得たはずの「信」が失われることは、その「信」によって支えられていた世界の崩壊を意味する。
 たとえビルいっこ崩れることすらなかったとしても、それは世界の崩壊なのだ。
 なぜなら……いやこれも長いから端折る。
 いずれにせよ、未だ「信」に気づかず「信」を得てもいないドフィには、それを失うこと“すら”できない。最悪の仕打ち、最悪の事態とは未接触なのだ。
 この点、未だ赤子である以上は仕方のないことではある。
 ドフィの主張する地獄は、昨日まで親しかった最後の友達までが今日からいじめの輪に加わって自分を疎んじ始めたという経験をしてしまった日本の小学生より甘い。

 ドフィは世界を理解できていない。
 少なくともエースを愛しエースを失い、シャンクスを追い続けるルフィには及ばない。
 だが赤子だからこそ恐ろしい部分もある。赤子には相対概念としての善悪の規準がない。ゆえにその行動に制限がない。この辺、FF6ケフカにも似た部分がある。
 ルフィは言うかもしれない「おまえはなにもわかっちゃいねえ」と。
 ドフィは、そう、なにもわかってはいないのだ。
 そこがドフィの最大の弱点であり、強みでもある。
 いずれにせよドフィが見たという天国と地獄は、誰もが通過してきたものに過ぎない。まあ規模が半端なくデカいけど。でも規模という形而下的要因を外せば、形而上的にはみんなドフィの天国地獄は経験してるんだよ。経験して一人前になってきている。ちゃんとしたひとならね。

 連鎖的に思い出したのは『あしたのジョー』、対金竜飛戦だ。
 朝鮮戦争に巻き込まれまさに生き地獄へと投げ込まれ、自分が食うこと生きることを肯定できなくなったボクサー・金を相手に、成長期のただ中にあって減量に苦しむジョーは圧倒される。こいつの経てきた地獄には勝てないと感じ、劣勢に立つ。
 ジョーの感性は正しい。
 だがジョーは勝つ。なぜそれができたのか。
 力石 徹という男を思い出したからだ。
 ジョーは思う。金の経験は強烈だ。日本に生まれ育った自分が、日本でどんなに過酷な経験をしてきたとしても、金のそれにはかなわない。
 だがそれは、自身で選んだ道ではない。日本と半島という生まれた場所のことを含め、自分で選んでおこなった地獄ではない。与えられた、あるいは投げ込まれてしまった地獄だった。
 だが力石という男は、ジョーと戦う、ただそれだけのために自ら減量地獄へ身を投じ、克服してリングに立った男だった。
 自分で選んで地獄へ進んだのだ。
 その力石と文字通り命懸けで戦ったジョーが、望まぬ地獄に囚われてしまった金に勝たなかったら、力石の決意に対して失礼だ。そう考えた時、ジョーは金の経歴を克服し、力対力の場で(本来ボクシングの試合はそうあるべきなのだ)正面から勝負をしかけることができるようになった。

 ジョーの考え方を全面的に肯定するつもりはない。
 力石が自ら地獄へ飛び込んだといっても、所詮は日本での拳闘の話。戦争というとんでもない事態とは、比較しようとしてもやはり無理がある。
 ある、が。
 逆に、ボクシングという舞台に、戦争経験をもちこむことが道理を弁えない行為ともいえる。ボクシングはボクシング、他の事情と切り離すのが正道だ。(ホセはその点でも完全にチャンピオンだったなあ)
 いずれにしてもジョーはジョーの論理で自身の立場を肯定し、勝った。
 同様にルフィには、ドフィを越える論理と立場の肯定ができる。
 どんなにドフィが酷い目に遭ってきていたとしても、ルフィはそれに負けることがない。負けないで済むだけのものをルフィは経験し積み上げてきているのだから。
 さすが尾田先生。きっちり布石を打ってらっしゃる。

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 繰り返しいうけど、連載見てませんので、もし全然違う展開になったり、すでに結着がついてたりしても、書き捨て御免です。すんません。