かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『めい』

 こどもが長時間の視聴にも耐えられるようになり、また物語への理解も深まって、映画を観られるようになった。
「ととろ、みた! おもしろかった!」
「おう、そうかー。だよなあ、あれはおもしろいなあ」
「さいごまで、ちゃんとみられたからね!」
「そいつはすごいぞ。あれは長いのに」
「うん! もう、おにいちゃんだからな!」
 メイとひとつふたつしか年齢の違わないものがなにを言うかw
 もっとも、この頃合いの一年二年の差は、でかいからなあ。パーセンテージで比較したら、ミドルティーンとハタチ過ぎくらいの差になるわけだものな。
 ……待てよ。
 あれはおもしろいとは言ったものの、最後に『となりのトトロ』を観たのはいつだったか。うっかりしていると、こどもと話が合わせられなくなりそうな気がする。
 なにしろ、このくらいの頃の記憶力はすごいんだ。文字(文章)に変換する能力をまだ修得していないから、ソースをダイレクトに憶えてゆく。ほんの小さなこともそのままに記憶する。それしか手だてはないし、ゆえにそれができてしまう。
 そういう記憶力の主からふとした拍子にトトロの話を振られて絶句、なんて具合ではおとーさんとしてサマにならないなあ。これはいかんぞ再履修が必要だぞ。
 そう考えて、毎度の手段で“お勉強”させていただいた。

 ……のが、もうずいぶん昔のこと。
 二年は前になるんじゃなかろうか。
 トトロを観たのは家のテレビでの話だったようだが、今や映画館でウルトラマン仮面ライダーの映画を、最後まで座って観ていられる。
 もちろん身動ぎは盛んにするが、おとなだってそれは大差ないからね。
 まこと成長とは恐ろしくも素晴らしいものであることだよ。
 とかなんとか思いつつ先ほど、ふと自分の気分で、あの時に“お勉強”したトトロを、再々々……もう何度めになるかわからないが、とにかく履修し直した。
 そして毎度のことながら、同じ場所で泣いた。
 笑いどころはけっこう変わるし、その他いろいろ細かい発見もあったりするが、泣く場所は毎度同じだ。
 どこかというと、ねこバスが颯爽と登場し、サツキを乗せて、行き先に「めい」と表示するところ。あそこでどわッとくる。
 その少し前、サツキの訴えを聞いて飛び上がるトトロが一瞬見せる決然としたまなざしで、うるっとくる。ねこバス表示はトドメというところ。
 俺にとって、その前はその一瞬のための延々たる準備だし、その先はもうオマケ。
 文字通りに一陣の風と化して疾走するねこバスの雄姿とか、夫婦の対話、今後の見通しなどは、もはや“後日譚”の域であって、俺的には「めい」表示で映画は終わっている。

 なぜそんなことになるのか、初めて観た時には自分でもよくわからなかったが。
 あとから整理すると、どうやらこういうことらしい――
「あの瞬間、メイは存在を無条件に認知され、肯定されたのだ」
 然り、ねこバスが行き先として表示できるということは、そこが行き先として確実に“在る”からであり、だからメイは無事だし、なにものかはわからないがなんかすごい連中がその存在を認めたからこそ行き先としても登録されているのであって、つまりメイはこの“世界”に、しっかりと受け止められ、迎え入れられている。
 あの表示は、その証明なのだ。
 メイという、ごくちっぽけでワガママで口が悪く可愛げがない意地っ張りの、でも真っ直ぐなガキは、しかし、ちゃんとこの世界の一員として認められている。
 なにかをしたからというわけではなく、またおそらくこの先になにかをしなければならないという理由によるのでもなく、とにかく今いるということ、それをそのままに受け入れられている。いるということ自体を、肯定されている。
 それが、あの「めい」表示だと感じたのだ。

 小さな、けれど唯一のものに対する、存在の、無条件の肯定。
 それがうれしくて、泣いちゃうのだ。

 ……という話をすると、まあだいたい「は?」という顔をされますなw
 うん、そうだろうなあ。そういう反応が多分、ふつうなんだろう。
 だいたい俺の場合、特にジブリ作品での泣きのツボが、どうも微妙にズレてるっぽい。
 たとえば、これは厳密にはジブリ作品ではないが、『風の谷のナウシカ』。
 これの泣きどころは、大ババさまだ。
 ナウシカの凛然でもユパさまの頼もしさでも巨神兵の脅威でも王蟲の行軍でもなく、ましてやクロトワの狡知でもクシャナの凄艶でもなく、金色の野に踊るナウシカを見るこどもたちにかけた大ババさまのひとことだ。
 それも、伝説を語り直すところじゃなく、その前、「こどもたちよ……わしの盲いた目の代わりに、よく見ておくれ……!」のとこ。
 盲いた、という語自体の美しさもあるが、ここに俺はさまざまなものを感じる。
 盲目の大ババを敬い尊び、文字通りにその目の代わりとなるこどもたち。そこに、風の谷のひとびとの、互いを支えあい補いあって生きてゆく姿を感じる。谷のひとびとの繋がり方を観る思いがする。
 また、新たな“情報”、新たな“時代”は、は新たな者たちが担う、そんな真っ当な世代交代の実現も感じる。当然、こどもたちの未来もそこに加わる。あと何十年かしたら、このこどもたちはあの老年戦士どものようになり、さらに次の世代に「ワシらがオマエらぐらいの頃にのう」とかやらかすに違いない。このこどもたちが、やるのだ。
 当然ババさまは、単に自分が盲いているからこどもたちに見ることを求めたのではないのだろう。これは婉曲的に“この光景を、いずれ誰かに説明できるほど、しっかりと記憶に留めておけ”と言ったのではあるまいか。
 そこにはやはり、ひとつずつで存在するわけではなく、幾重にも重なり連なってゆく無数のいのちの重みが感じられてしまうのだ。
 それが今あるのが風の谷であり、そしてこれからもそれはきっと続く。
 そんなことを感じて、泣いちゃうのである。

『天空の城 ラピュタ』はどうか。
 これはラピュタが崩壊し、パズーとシータが“凧”で離れてゆく、その時刹那に視界に捉えられる園丁ロボット、これで泣く。
 大崩壊パニックにうろたえるでもなく(もっともそんな機能なんぞもとからないんだろうが)、ただ悠然と、いつも通り肩に小鳥をたからせながら、庭園を歩いている園丁ロボット。
 この姿を見る時に、悠久を感じる。
 そして泣く。
 人間のなした偉大なるわざ、その結実たる天空の城ラピュタ。しかしそこに住んだ人間は滅び、大自然は文明の名残の結構を再び自らの懐に納める。人間の悠久はなかった。けれど大自然の悠久はここにある。かつて大自然から掘り出された飛行石を取り戻してそのかいなにいだき、大自然は空を飛び続ける。
 そこに在るのは大自然とその眷属たる小鳥の一群、そして、人間の産でありながら人間の手を離れ大自然へ回帰した園丁ロボットばかり。
 これが悠久。
 比べて人間のなんとちっぽけでこざかしいことか。
 いにしえの偉大なる文明にしても、たかがその程度。
 そこから現れた技術のみが大自然に受け入れられ、人間を込みにした文明は容れられないというのは、皮肉なことなのかもしれない。
 しかしそれが悠久というものだ。
 これぞ「ヒトがゴミのようだ」の具現。
 その規模のケタ違いの大きさに感じ入って泣く。

 ……という具合に、われながら「そこ? そこなの?」ってとこがクライマックス。
 そしてだいたいそれは、初見の最中に突如の現象として生じ、自分で「なぜ」と思って考えてみて「……多分こういうことなんだろうな」という具合に決着する。
 なんか自分でもよくわからない回路がまだ自分の奥の方にあるっぽい。
 いったいこういう回路、いつ、どこでできてきたもんなのだろうなあ。
 目下の最大の謎、考えるべき課題は、どうもその辺にあるっぽい。