かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

まもりたいもの

 まもりたいもの。
 あなたにはそれが、ありますか。
 あるとすれば、それはどんなものですか。
 どうまもりたいのですか。なぜまもりたいのですか。
 まもった結果なにがどうなりますか。まもられたものはどうなりますか。
 まもられたものは、そうあるべきものですか。
 まもられたものが、それで納得するような結果になりますか。


 日本語というものはなかなかに奥が深い。
 他言語についてそれほど詳しくはないものの、それでも日本語の表現力というものは幾多の言語に勝るものを備えているだろうと思う。
 特に文字表記において日本語は強い。
 文字自体は基本的に(かな表記や国字など独自のアレンジを経たものも含めて)異国からのいただきものだが、その活用法には多言語の表記に比べてさまざまなアドバンテージがある。
 それゆえ使いこなすのが難しいのも事実だが(もちろん自分自身の能力が充分ではないという自覚はあるよw)、だからこそ日本語はすばらしいものだと思う。

 たとえば「まもる」ということば。
 基本的には【他から侵されないように防ぐ】【決められた状態を破らずに持ち続ける】という意味を備える。語源は“目を離さずにいる”こと、らしい。(【 】内は三省堂新明解国語辞典』に拠る。以下同)
「まもる」は やまとことば、つまり日本古来の発音して用いることばで、だから本来は音のもの。これを文字で表す時、日本語は漢字を混じえた表記で、その細かい部分を弁じ分ける。
「護る」「守る」などだ。
「護る」は上記の意味の前者、「守る」は後者に使われる例が多い。護衛の護、遵守の守だ。その意味の差はオリジンである漢字自体の意味に即しているようだが、おもしろいのは漢字では発音の異なる字が、日本語では同じ「まもる」という音でまとめられているところだ。
 もちろんこれは、やまとことばの「まもる」ありきで、そこに輸入品の漢字を当てはめたからそうなるわけだが、それでも性格の異なるふたつのことをまったく別のものとせず、同じ傾向のこととして音では括り、しかし表記の上では区別するというのは、おもしろい。深い。

 たとえば「もの」ということば。
 これを「物」と表記した時は、【存在すると考えられるすべて】、「者」とした時は【与えられた条件の範囲内で対象を選択し、指定することを示す語】となる。「者」はおよそ「物」に含まれる。数学的にいえば、物⊇者というところだろうか。
 なぜ ⊇ であって ⊃ でないかというと、これらにはまた微妙な差異があるからだ。
「物」とした場合、【われわれが見たり、触れたりできる、具体的な形を持っている物質。物体。物品】という要素が加わる場合が多い。一方「者」とした場合は【主体の生活・関心と密着し、何らかの意味で力関係を持つと考えられる、人】という要素が加わる。
 大変に砕いていえば、「物体」と「人間」の差だ。
 だからあやしいやつを「曲者」とは書くが「曲物」とは書かない。
 いや「人物」という語もあるだろう、って? いや人物という語は【〔観察・描写・評論などの対象としての〕人】だからね。つまりやりとりをする直接的なかかわりのある相手としてでなく、距離をある程度おいた、いわば物体に近い感覚でひとを扱う時の語だからね。人格と直接に触れあうのではない。その辺の距離感が微妙に違う。

 だから、今日の標題にしても、漢字表記次第で四通りの解釈が生じる。
「護/物」「護/者」「守/物」「守/者」。
 最初の場合なら「他から侵されることを防ぎたい物体」、二番めは「他から侵されることを防ぎたいひと」、三番め「現状を維持したい物体」、最後が「現状を維持したいひと」。
 発音すれば同じ一連のことばだが、「護/物」と「守/者」では含む内容がかなり違うことがわかるはずだ。
 そういう細かい部分までも、文字で表記すればある程度が伝えられる。
 それが日本語のすごいところだ。

 さて一方、文字を使わない場合――口と耳で伝えあっている時には、それゆえの齟齬が生じてしまう。
 上に挙げた例でもわかるでしょう?
 このふたつが「同じ音で語られる」というのは、かなりのすれ違いを生む可能性を備えている。
 誰かが「われわれには、まもりたいものがある」と言ったとしよう(余談だが、個人的用字コードにより『言う』は口がついているので音として発した場合に限り、そうでない時にはすべてひらがなで『いう』表記にしている)。
 それを聞いておおいに頷いた者があったとしよう。
 だがそこに意志の疎通があったかというと、必ずしもそうとは限らない。
 発言者は、第一の組み合わせでこれを言ったのかもしれない。具体的には、たとえば「まもりたいもの」=「誰かに意図的に破壊されてはならない、美しい景観を備えた国土」という意識だったかもしれない。
 一方、聞いた者は、それを第四の組み合わせで解釈したかもしれない。「まもりたいもの」=「事故など突発的事態を含めた事情で現状と異なる好ましくない状態に陥ってほしくない、身近なひと」というつもりで聞いたかもしれない。
 全然、意味が違う。
 当然、もしその場で言う者と聞く者が頷きあったとしても、意志は通じていない。
 だがおそらく彼らは、同じ意志をもつ者同士、という認識をもっただろう。
 そして現実には、「まもる」にも「もの」にもクロスオーバーするさまざまな意味や要素があるわけで、だから口頭でのやりとりには、常に相当な量の齟齬が含まれている。

 だからやりとりは、慎重でなければならない。
 これは日本語の、とても難しい部分のひとつだ。

 声高になにかを述べる狡猾な者は、このすれ違いを意図的に用いる。
 昨今、メディアが恣意的な印象操作をしているとか、いや政府がやっているとか、なにかと喧しい。だがそんなものは、半歩ばかりさがっておおよそを眺め、さらにウェブやらなんやらで情報を集めまくれば、簡単に裏が見える程度のものだ。大したものではない。
 実際、報道こそされないがウェブを渡れば見つかる海外の大騒ぎなんてのは、いくらでもある。あることがわかる以上、操作としては拙劣なものといえる。
 だが、今述べたようなすれ違いについては、裏の確かめようがない。
 そういう部分を選んでなにかを強く主張するモノが、今、我々の周囲にはごまんとある。
 日本語はそれを最もおこないやすい言語のひとつだといえる。

「あかい」と発音したとしよう。
 それが「赤」なのか「紅」なのか、あるいは朱(はアカではなくアケだが)なのか。赤だったとしても、たとえば R255/G000/B000 の赤なのか R200/G000/B000 か、R180/G000/B050 の赤なのか。それは受け手に任せる。それによって受け手に広い“世界”をもってもらう。言語とその意味の曖昧さには、そういう用い方がある。より豊かな、あるいは受け手独自の感性を重んじた、よい刺激に使うことができる。
 だが、その刺激を発言者の都合のよい方向へ導き、受け手の意識を操作することも、ことばでおこなうことができる。これはよい刺激とはいい難い場合がある。
 慎重でなければならない。慎重にならなければいけない。
 今は特にそういう慎重さが必要な時期であるようだ。


 まもりたいもの。
 あなたにはそれが、ありますか。
 あるとすれば、それはどんなものですか。
 どうまもりたいのですか。なぜまもりたいのですか。
 まもった結果なにがどうなりますか。まもられたものはどうなりますか。
 まもられたものは、そうあるべきものですか。
 まもられたものが、それで納得するような結果になりますか。

 考えてください。
 繰り返し、繰り返し、考えてください。
 ことばの表面的な美しさや力の入った調子に惑わされず、その深い部分での意味を見極めながら、何度でも考えてください。
 もしそれができないのなら、それは、まもりたいもの、が、ない……ということになるかもしれません。
 その時はあなたの“まもりたい”意志がなにに由来しどこへ至るものなのか、それを考えてみてください。
 何度でも、繰り返し、考えてください。


2017年8月15日 かどいようへい