かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

報道に真実を求めるうちはまだ青い(4/了)

 
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※過去の記事※
2014-09-19 報道に真実を求めるうちはまだ青い(1) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
2014-09-26 報道に真実を求めるうちはまだ青い(2) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
2014-10-30 報道に真実を求めるうちはまだ青い(3) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
 できればご参照くださいませ。
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 またまたずいぶん間が開いちゃったな。前回掲載が10月末か。まる一か月のご無沙汰になったわけだな。こうなったらまた粗筋を書かなきゃならないなあ……。

1)「ことば」は不完全なツールだが、人間はそれに頼らねば交流ができない。
2)なので、伝えたい内容を確実に伝えるには、そもそも工夫が必要。
3)さて世の中には報道なるものがある。その使命はなんであるか。
4)その前に定義。「真実」とはものごとの含む最も大きな意味、「事実」は生じたものごとそのものとしよう。
5)だが、「真実」はものごとに関与した人間の数だけ、最低でも生じる。その“ものごとに関与した人間”には、当然“報道者自身”も含まれてしまう。

 ……あれ。5)の後半はまだ書いてないんじゃなかったか。つか、それについて書くことが今日の本題になるんじゃなかったっけ。んー。んんん。んー……。
 ま、いっか。

 まあつまり、そういうことなんだな。
『報道者』は、多くの場合、人間だ。
 もちろん、媒体そのものを報道者と呼ぶこともある。だが根本的に、報道する内容の作成は、報道しようというものごとの選択も含めて、人間──個人がやるものだ。
“彼”は、“彼”の視点から起きたものごとを眺め、調べ、そして得た情報を拡散させる。
 だがそれは、あくまでも“彼”の視点から眺めたものごとに過ぎない。
 たとえ報道機関という“組織”、多くの個からなる共同体の一種から発信されるものであったとしても、その起点は個であり、そして個は「事実」に対して忠実ではあり得ない。すでに述べた通り、ものごとの把握は「ことば」、ごく不完全なツールによってしかおこなわれないし、その発信もまた不完全な「ことば」によってしかおこなわれ得ず、受け手もまた不完全な「ことば」でそれを再生するしかないからだ。
 え。映像はどうなのか、って。
 カメラに映ったものは完全なんじゃないか、って。
 映画ならとにかく、ドキュメント映像ならそこに主観は挟まりにくいんじゃないか、って。
 ……映像文法ってことば、知ってる? 知らなかったら調べてね。
 そこまでは面倒みないよ。

 話、戻す。
 それが“組織”の送り出す情報であるなら、個が作成した報道内容をチェックする仕組みは当然ある。それが新聞記事であれば先輩記者や編集長とかアンカーとか呼ばれる人々がやるだろうし、テレビなどの映像ものであればディレクターがそれを担うことになるのだろう。
 前者の場合、日々の記事のチェックはせいぜい部長レベルどまりだが、その部長自身が社風とか社是といったものに基づいて選ばれている場合は多いようだ。となれば、その社風、社是が反映した報道内容が残されてゆくことになる。結果的に、同一のものごとについて、新聞なら新聞社の数だけの紹介のスタイルがあることになる。
 これは前回に述べた、ひとつの殺人事件における真実の大量生産とまったく同じことが、報道という行為の中にも生じているということだ。ただし今回は、個人ではなく法人もしくは実体のない人格に近いものがその「真実」の生産をおこなっているということだ。そしてそれは、各種媒体を通じて広く紹介されることが前提になっている。
 そうやって拡散される「真実」、その拡散の可否なんか俺にはわからない。というより、わかったとしても決める立場にはない。決めていいのは俺が触れる分の情報についてだけで、そしてそれは共同体に参加する全員に与えられるべき権利であり、義務でもある。

 そう、共同体に参加する全員に、伝えられる情報の内容の可否を吟味する権利は保証されなければならない。そして同時に全員が、その内容の可否を吟味する義務を負っている。それは本来、共同体と個が共存するための基本的なルールであるべきだ。
 わかりやすくいえば、「殺人事件がありました」というのが事実。
 報道がそれを“借金をチャラにするための殺人事件がありました”と伝えた時、
「うわー自分勝手な殺人犯だ許せねえなー」
「実はひでえ高利貸しだったんじゃねえか」
「借金殺人それがどーした俺には関係ねえ」
 その他いろいろの考えを報道の受け手がもつことは、権利として認められなければならない。
 そして同時に、
「そういうワルイコトするやつには処罰が必要だな」
「実際どういう経緯でそんな結果になったのか、ちゃんと調べないといかんだろ」
「刺殺だって? それ怖いから包丁とりあえず取り締まっとけ俺が死にたくないから」
 って具合に、必要に応じて意見をいわなきゃいけないってことね。
 その辺の権利や義務が曖昧になったり、好きなこといえないような感じになってきたり、いっても通じない状態に陥ったりすると、いわゆる情報統制社会っていわれるようになるんですな。

 ……あれ。本題とズレたな。戻そう。
 ええと、アレです。『報道に真実を求めるうちはまだ青い』だ。うん、それです。
 ちょっとオーバーランしちゃったよ。すぐ上に書いた分は、そこから先の話なんだ。

 つまり、報道は常に真実を含んでいる、ってことなんだ。
 ただしその真実は、俺が前回に定義した真実だ。もう一度、紹介させてもらおう。
「真実」とは、あらゆることがら──形而上下を問わずあらゆることがらが含む、最も重要な“意味”のこと。
「事実」とは、実際に起きたこと。
 どういう個人が発信しようが、また組織が発信しようが、その“報道”には、常に発信者の得た(感じた)真実が含まれている。
 そして、不完全なツールである「ことば」がその“報道”の主な手段である場合、送り手側の不完全・受け手側の不完全で不完全はものすごい勢いで増え、しばしば伝えられるべきことがらからまったく離れたものになってしまう。
 たとえばの話、日本語では助詞ひとつで主格の重みがまるっきり変わってきちゃうわけだしね。『あいつ“は”やった』と『あいつ“が”やった』では文章の意味が違ってくるでしょ。え? わかんない?……あ、そう。それは困ったねえ。
 ……と、これぐらい「ことば」は不完全なわけさ。
 だから報道を通じて起きたものごとの核心に迫るなんてのは、まあ無理。
 だがむしろ「真実」には毎度お目にかかれている。
 そう、報道されることはすべて「真実」なんだよ。
 記者が見た「真実」。記事をチェックした者が感じた「真実」。報道される内容からは、それが常に溢れている、溢れまくっている。
 得られないのは常に「事実」。
 なにが実際に起きたのか。それは実は、常に語られない。語られ得ない。
 そして多くの人々が求めるのは、実は「事実」だということ。

 報道に真実を求めるってのは、そういう仕組みに気づいていない者がやることだ。
 報道は常に真実の塊なのに、それがわかっていない。
 青いわけだよ。

 だが、じゃあ、「事実」は、得られるものなのだろうか。
「事実」の定義は単純だ。実際に起きたこと。ただしこれは俺の勝手な定義だけど。
 それがたとえば、沸騰している湯に塩をスプーン一杯分の塩を入れたらあっという間に溶けました、なんてことであれば、伝えるのにそれほどの苦労は要らない。もちろん厳密さを求めるなら、沸騰しているとはいえ正確にはその湯の温度は何度なのだとか、その湯の量は何リットルなのだとか、スプーンの容量は、塩の正確な成分は、などとさまざまな情報を要求することができるだろうし、そしてそれらは(記録やサンプルさえ残っていれば)誰にでもわかる単位や基準によって伝達し得る。
 だが、経済の状況だとか、国際的な政治情勢といった問題になると、「不況だ」だの「紛争が起きた」だのと報じることはできても、具体的にどう不況であるのかとか、紛争の規模や進展の見通しなんてのは、いいきってしまうが、捉えられない。
 つまり「事実」が得られない。
 伝え得るのは、市場を歩き回って聞いた話から記者が組み立てた「真実」、紛争の現場へ行って死にかけてきた取材者が語る「真実」だけだ。
 これはある点では困ったことではあるんだが(それがどういう点かはもう面倒だから皆さん自由に考えてください)、しかしそれ自体はどうしようもない「事実」であり、そしてその「事実」は人間が人間である限り引っ繰り返るものじゃないんだな。
 だから報道に最も欠如していて、同時に永遠に得られないものは「事実」。
 いつでもいくらでも転がっているのが「真実」。
 その区別がつかない青いやつが、報道に真実なんぞを求めて騒ぐってわけさ。
 おそらくやつらが求めたいのは「事実」。
 だがそれは、得られない。
 その辺のことに気づいていないと、いつまでも“情報”に振り回されて金輪際行きたい場所へは辿りつけない。それにすら気づいていない者のすることが、報道に真実を求める、ってことなんだよ。
 報道に真実を。
 そういいだした時点で、その者のいい分には、もはや聞く価値がないのさ。

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 青い。
 ねえ、そもそもこのいい回しが、真実ではあっても事実じゃないわけでしょ?

 青いってのは、未熟だってことだ。未熟ってのは、広辞苑的には「果実がまだ成熟しないこと」であり、そこから比喩的に「学問・技芸などのまだ熟達しないこと」という意味が発生している。そして、未熟な果実がしばしば「青い」から、「青い」=「学問・技芸などが未熟」という意味になる。だがこの場合の「青い」は「波長435.8nm前後の光波」の青じゃない。日本語では古来、緑(波長546.1nm前後の光波)と青が一緒くたに表現されてきた。今でも信号の緑色を青っていうしな。未熟な果実は通常緑色だが、それが慣用的に青と言い習わされているところからでてきている表現だ。
 緑と青が一緒くたになっている時点ですでに相当曖昧だが、しかも、報道に真実を求める者が緑であれ青であれそういう色をしているもんかね? していないよな。静脈の色は青く見えるが、だからって肌色全部が青いってことは、まあ、あんまりないな。だいたい「報道に真実を求めるうちはまだ青い」ってタイトルを見たら、ほとんどのひとが青い肌の、あるいは緑色の肌の人間を想像したりはしないよな。
「ことば」は、そういうかたちで通用している。
 俺たちはそういう「ことば」で編まれた“情報”の海にたゆたっているんだよ。そもそもに。
 そんな中で「事実」をひたすら求めてカリカリするのもどうかとは思わんかね。
 無論、必要な「事実」はある。それを理解し相応に求める努力はした上で、種々雑多な「真実」をすべてフィクションのエンターテインメントの産物であると認識し楽しんだ方が世の中は有為だと思うんだが、どんなもんだろうかね。