かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

孤立とそれに基づく連携/連帯その他(おぼえがき)

 いささか思うところが生じて、外部からここの記事への誘導をしようと思ったら、あれれ? ちゃんと書いた記事が見つかりませんよ?
 おっかしぃなあ。俺とつきあいの長いひとならまず間違いなく「あーまた(まだ)やってんのw」と思ってくださるような話題なんだけどなあ。少なくとも俺自身は「あぁまたここか、またしてもか」と思う。
 んー。書いたつもりで書いていないのか。そもそもしゃべるばかりで書いてはこなかったのか。
 まあいいや、じゃあ今ざっくり書いちゃえ。子曰學而時習之不亦説乎、だ。

 中身は標題の通り、孤立とそれに基づく連携/連帯その他について。
 人間の本質的な孤立と、そこから至る連携・連帯についての話。
 人間は根本的に「私」だけで成立しているもんなんですよ、だから……って話だ。


【個体の根本的な孤立/孤立の定義】

 そもそもこれは物理的な話から始まるものなのね。
 人間に限らず生命体ってのは、物理的な外界との干渉・関連を絶って初めて成立するもの、なわけだよ。
 たとえば細胞という単位、これは外界と本体を機能性の膜構造で隔てているから成立している。
 もし単細胞生物がある日突然思い立って「いや! オレは! 世界と繋がる、世界と一体化するんだ!」と細胞膜の選択透過機能を停止させたら、浸透圧の問題でからだは一気に膨らみはじけてしまって、当然ながら細胞質も散らばってしまう。
 早い話が、細胞として成立しなくなる。
 生命としてはジ・エンドというわけですな。
 当然その集合体としての多細胞生物も、物理的には、外界と自身を切り離すことによって成立している。たとえ同種の生物であっても、一個体は、別個体とは同一になれない。物理的に孤立している。

 もちろん人間もその例に漏れないわけで、つまり人間の各個体は、他個体と物理的に同一になることができない。
 物理的に同一になれない以上、個体ごとの経験もまた共有することはできない。
 たとえば、並んで隣り合って座って同じ夕陽を観ていても、物理的に別の実存である以上、視差が生じる。ゆえに各個は「まったく同じ光景」を見ることができない。
 さらに「観た光景」は、情報(=外界の状況やその変化、そこからもたらされる刺激)として個々の脳に送られ、経験として記録される。そういう記録(記憶)の集成が character を構築し、その個の形而上的特徴となる。
 どんな情報であれ、それを受け止めた個の特性・傾向により、情報としての内容は恣意的に取捨選択されるから、どれほど物理的に接近した状況に複数個体が存在したとしても、そこから生じる“記憶”は各個に違う。どころか個によっては、その“記憶”を残すことすらしなかったりもする。
 従って個はどんどん違うものへと分化してゆき、形而上的にも(つまり非物理的にも)唯一にしかなれなくなる。他個体との、情報の完全な共有・並列化を果たすことは、不可能だ。
 それは、個々が互いを完全に理解し合うことはできない、ということを意味する。
 これを以て孤立という。

 それは生命として存在してしまった以上、逃れようのない事実としてあるわけですな。


脆弱性に由来する人間の連携・連帯】

 さて人間ってのは弱い生物で、本気でケンカしたら猫にも勝てない。いやネズミにも勝てないかもしれない。
 他生物との生存競争に限らずとも、食料の確保からなにから、一個の人間の能力はマジ低い。
 だから人間は、“協力”しなければならない。互いの力を出し合うことで、互いの存在を担保する。
 協力するには、互いの能力やニーズを把握することが必要だし、状況への認識もできるだけ近いものに揃えたい。
 そのためには、個体間での情報伝達が必要になる。
 それで人間は、情報伝達にずいぶんと力を割いてきたわけだ。
 そうやって得た、擬似的あるいは表面的な情報共有によって、人間は共存体制を整えてきたし、今も整え続けている。
 ここで使われるのが“ことば”というツールで、これは、特定の音の並びや一定の身振りなどと特定の意味を結びつけることで、情報の伝達を効率化したものだ。
 ただし、これをおこなうには個々の了承が必要で、それが人間の教育というものを特異にしている部分もある。

 ついでに、個々が内部で情報処理をする時にも、ことばを用いることで飛躍的な効率化がはかられるている。
 ある一連の状況――たとえば『鍋を水で満たす』『火にかけ沸騰させる』『塩いれる』『乾麺を投入する』『タイマーをセットし8分放置』『麺を取り出す』という行為を、ひとこと「スパゲティ茹でる」とまとめることで、いちいちひとつずつの行動を取り出さなくても済むようになる。同様に、さまざまな概念をことばでまとめ名づけることによって、思考は加速する。
 この加速により、個々の character の独自性・唯一性は、さらにおおいに増す。
 それをよしとするか悪しとするかは、まあそれぞれ自由に決めてくれ。

 ……と、そんな流れで人間は、物理的事情によって「孤立している」という事実から、表面上は「連携/連帯している」といい得る状況をうみだすに至った。
 けれどそれは、突き詰めてゆくと、便宜的な、あるいは当座的な連携/連帯であって、本質的に連携/連帯ができているわけじゃない。
 だってそりゃ無理だよ。そもそも入力される情報が違うんだし、それを処理する能力や方針だって違うんだし。
「なんとなく」で他個体やその行動を認識・解釈することはできても、まったくトレースすることはできない。少なくとも現状では。
 もちろん、だからといって人間の連携/連帯を無意味無価値と断ずるわけじゃない。それはたいがいうまく機能していて、ゆえに人間という種自体が存続し得ている。
 ただ、考え詰めてゆけばそれは便宜的なものでしかない、ということ。
 それで充分じゃないか、というのであれば、この先は読む必要なし。


【孤立の認識の土台にあるもの、その先にあるもの】

 形而上的にも形而下的にも孤立を余儀なくされている人間は、しかし繋がらなければ生きてゆけず、外界との連携/連帯を試みるわけだが、ここでまた圧倒的に越えられない壁にぶつかってしまう。
 人間は、自分の力で自分の周囲のものを認識する以外の能力をもたないから、他個体どころか、外界そのものの完全な認識もできないわけよ。

 人間の sensor なんてのはホントにいい加減なものでね。
 まず、絶対値をもたない。
 ちょっと発熱すりゃぼーっとするし五感も鈍る。精神的に不安定になれば見えるべきものが見えなくなったりもする。そうして得た外界の情報なんてものは、その時の自分自身にとっては重要なものであっても、別の時の自分には無意味無価値かもしれないし、まして他個体や他個体と営む集団においては。
 でも、人間には、それしかできないわけだよ。
 そして人間は、そうやって得た個の独自の情報に基づいて、それぞれの中で周囲の全体像を組み立てている。便宜上これを世界と呼ぶことにする。個に含まれない周囲の状況を外界と呼ぶことにして、個が認識した外界の状況とそれへの解釈が“世界”。
 となると世界は、世界を“感じる”ものの数だけ存在する。
 その世界は、決して共有されることがない。

 わかりづらいかもしれないので具体例。
 AさんとBさんは、ちょう仲良しです。AさんはBさんを、BさんはAさんをよく理解していると思っています。
 でもそれは、理解という語の定義にもよりますが、実は理解に至っていません。
 なぜならAさんが知っているのは、Aさんが断片的に得たBさんについての情報を、AさんがAさんの中で組み立てた、Aさんだけが知るBさんの像に過ぎないからです。
 BさんからAさんについての理解も同様で、Bさんは自分の中に組み立てたBさんだけのAさんしか理解していません。それしかできません。
 たとえばの話、Aさんは確かにBさんをよく知っていて、何百人の中からBさんの顔を即座に見つけ出し、「Bさーん!」と声をかけることができます。Aさんが絵の達者なひとだったら、みんなが「似てる似てるーwww」とウケまくるBさんの似顔絵だって描けるかもしれません。
 でもそれが、Aさんの“理解”しているBさんと、Bさん自身が認識するBさんとの決定的な差なんです。
 なぜならBさんは、Bさんが人間であるなら、Bさん自身の顔を肉眼で見たことがないんです。BさんはBさんの顔を「知りません」。
 Aさんが見ているBさんと、Bさんが“見ている”Bさん自身は、こんな点からしてすでに違うBさんなのです。

 こうなると、対象を認識する個体の個性ってのが大問題になってくるわけでね。
 そして、個体の個性が共有されることがない以上、これらは交錯しない。し得ない。
 や、別にね。かかわりのある全個体・全情報に対して、そんな厳密なことを考える必要はないんだけどね。必要だったとしても無理だし。
 ただ、それぞれに必要な対象、大切な対象ってあるよね。
 ところが、そういう対象でさえ、それぐらい距離のある存在だってことなのよね。

 そう、それぞれに必要な対象、大切な対象ってのがあるわけだ。
 人間は脆弱なので、形而下のみならず、形而上的な部分でも、孤立の状態のまま――少なくとも孤立を認識した以降は――在り続けることができない。
 形而下的な事情は上記の通り、個体の維持・保存自体についての問題なので、これについては主に物理的な連携/連帯を保たなければならない。
 一方、形而上的な事情については、孤立に気づいたら、その圧倒的な不安感に個の精神性が押し潰されかねないということから生じる。(この不安感は多分、形而下的な単独生存が困難という経験識から生じるんだろうと思う)(その経験識はおそらく新生児~幼児期に生じると思う)(だからその時期には、「誰かの存在による安心・安定」の実感が要る!)(でないとその後に連なる一切が成立しなくなる!!)
 だから内部に、形而上的な連携/連帯を保てる相手を望む、求める。
 これが「必要な」「大切な」対象なのね。
 それは必ずしも同種(人間)とは限らない。
 場合によっては、生物ではないこともある。

 また人間は、孤立ゆえに、自分が“見ている”対象が、対象そのものではないことも知る。
 自分が頼っている(頼りたい)対象は、自分の中にある(自分の中にしかない)“虚像”だという事実に気づいちゃうわけ。
 ここで堂々巡りになってしまうと地獄だw
 アレもコレもみんな自分の中の虚像に過ぎないと知り、それ以外の解釈がえられなければ、これはもう永劫の孤独(≠孤立)に囚われてしまう。意識がある限り、圧倒的な不安感に襲われ続ける。まあほどなく壊れますな。
 だが道はそれだけではない。
 そこで重要になってくるのが、孤立した自分自身への“信頼”と、そして頼りたい対象が自分同様に存在するもの、わかりやすいパターンでは同種別個体(つまり他人だな)であった場合、互いの孤立の理解と許容になるわけですよ。

 自分は孤立した存在で、その外界認識にも偏向があり、万全な情報は得られない。
 でも、その偏向(=個性)自体には価値がある。そういう“信頼”。
 ひらたくいえば「俺は俺でいいじゃん。俺は生きてていいんだよ」という一種の開き直りw
 これは幼時の安心の実感、自分が肯定されていたという経験がないと構築できない。経験してなけりゃ具体化のしようがない、人間はその程度にソウゾウ力の貧弱なものだ。
 そして他者についても同様の認め方をする。
「あいつはあいつでいいじゃん(=認知、孤立そのものの理解)。いやいや、あいつだからいいんじゃん(=肯定、孤立の積極的な許容)」。
 お互い孤立しつつも、お互いの存在を認め、その意義を肯定する。
 ただ、それは無闇にはできないことなのよね。てゆうか、したらヤバいw
 人間は賢いので、いろんなことを目論めるからね。
 どの個体に対しても積極的な肯定を与えちゃうと、いろいろ困ったことが起きたりしますよ。積極的肯定をする相手は、選ばなくちゃいけませんよ。だいたい書を読みて六分の狂気四分の熱をもってれば大丈夫。ん。ここ笑うとこですからね。ええ。もう大変なんスから。だぅも。

 しっかりと足元を固めたければ、まず孤立を認識し、“世界”は『個々の内側へ向かって閉じたもの』であると理解すること。
 続いて、自分はもちろん、他者の“世界”も肯定すること。
 その上で、その異なる“世界”を連携させようと願い、力を割くこと。
 これがつまり形而上的な繋がりになってゆくんだな。

 ただ、実際にこれをおこなおうとすれば、さまざまな事情がからんでくる。
 上でもちょっと触れたけれど、人間の sensor は肉体的な事情によってもさまざまに変化するわけで、これは判断や行動の基準が不安定だし常に変わるということだ。そういう変化や不安定をもたらす事情には、個としての存続に深くかかわるものもあるし、種という概念に因るであろうという事情もある。
 さらに個の独自性なんてのは、人間にとっては特に大問題だったりする。
 上でね、ちょろっとなにげなく書いてるけどね、「他者の“世界”を肯定する」ってのは、簡単じゃないんだよね。
 それはたとえば、AさんBさんの例の「誰かがもっている自分への像というものは、必ず自分のもつ自分の像とはズレている」っていうことを認めなきゃならないってことなんだな。そしてもちろん、自分がもつ誰かの像だってズレている。
 そして他者が自分にもつイメージというのは、必ずその他者の傾向を投影したものになっていて(それしか人間にはできないからね)、多分に他者の願望を含んでいる。
 当然ながら、自分にはそれに応える能力がない。だって他者の願望を理解しきることができないんだもん無理だよそんなのw
 そういうズレまでも含めて、他者=自分以外の個というものを認め、求める。
 これ、大変なことですよ。
 さらにそれを、相互に、なんてことになったら。
 もんのすげえ大変ですよw
 でも、孤立という事実に気づいてしまったら、それによりもたらされる孤独に耐えきれない脆弱な人間の自我は、それを求めずにはいられなくなる。
 そして、ふつうにものごとを考えられる脳みそがあれば、いずれ孤立には気づく。
 考える能力と余裕をもってしまった者の、避けられない宿命ってやつだね。

 そしてさらにいえば、「精神『だけの』繋がり」は、肉体も備えた人間という実存にとって、おおいに無力なのでありますよ。
 まあ考えてみりゃ精神の根源は脳っていう肉体の一部だからね(今のところは)。
 肉体から離れた精神は、現状、あり得ない。肉体とともにあってこその精神。
 これがまたハードルをさらに高くするw
 形而上的な飢餓を満たすのに、形而下的な要素も取り入れなければならない。
 ここでまたさらに事態がコジれてきたりもするw

 以上、大変に大雑把なおぼえがき。
 最終段、形而上下の要素の絡みが具体的にどういうものになりがちで、それはどう解消され得るのかについては、いずれ気が向いたら。


(2017年4月28日/2019年3月20日改稿の上で当ブログに転載)