かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

報道に真実を求めるうちはまだ青い(1)

 今さらの感もあるが、あらためて「ことば」について。

 俺は知るひとぞ知る物書き業者なわけだが(って書かなきゃならんとこがあまりにも情けねえなあ)、ゆえに商売道具である「ことば」には、それなりの意識をもって接してきた。いろいろ考えもした。もちろん調べもした。
 その結果、今のところ「ことば」については、以下のような考えをもっている。
1)それは情報交換のためのツールである。
2)交換する情報は、個々が認識し得るすべてのものである。
3)ただし、その情報交換は必ず完遂されない。

「ことば」が情報交換のために発明され、改良されていたことは間違いない。
 おそらく最初の「ことば」は、同族同類に(場合によっては他族他類も結果論的に含まれる)投げかけるアラートだったのだろう。危機が迫った時、周囲に警戒をもたらす叫び声のようなもの。
 それが改良されて──たとえば、ただ大声を出すだけじゃなにが起きようとしているのかわからないから、『アー』と叫んだら天敵の襲来、『オー』だったら他族同類の襲来にしようという取り決めがなされるとかの──さまざまな場面でさまざまに使える「ことば」になっていったんだろうと考えている。
 もっと遡れば、それは意図的に発するアラートではなく、すでにヤられちゃって絞り出した末期の悲鳴になるのだろうし、そもそも悲鳴ってなんだと考えると、多分は突然の異変により反射的(あるいは物理的)に出た“音”であろうから、もとは“声”ですらなかったはずだ。その辺まで遡ると今度は、「じゃあ、その反射的・物理的な“音”が、いわゆる発声器官に由来するものではなかったとしたら、ことばはどんな発達を遂げたのだろう」という展開ができるわけで、これがおそらく筒井康隆『関節話法』になるのだと思う。

 上記、「それが改良されて」ってのは実は大きなポイントであって、これは現在も続いているしこれからも続く。つまり「ことば」は、使われる限りずーっと変化し続けるものなのだ。
 なぜか。
 それは俺の考えの 3)、「ただし、その情報交換は必ず完遂されない」による。
 然り、「ことば」によるコミュニケーションは、必ず完遂されないのである。
 なぜか。
 それはとりもなおさず「ことば」の使用者が「ことば」を使わねばならない存在であるゆえである。(そしてだからこそ上記「取り決め」も重要なのだ)

 わけわかりませんなあ。
 わかるようにしよう。

 他のさまざまな存在も「ことば」を使うが、とりあえずこの話は人間限定とする。なぜって、他のさまざまな存在のことは、俺よくわかんないから。人間についてもよくわかっているとはいえないが、でも他の存在より少なくともわかりやすいし、情報も多くもっている。
 そもそもに、なぜ「ことば」が必要なのか。
 それは、「思っただけじゃ伝わらない」からだ。

 遠くを見ていたら、肉食獣が近づいてくるのが見えた。これは危険だ、もしかするとオレたちを狙っているのかもしれない。だとしたら誰か(自分かも)が食われるぞ。対策を講じなければ。
 群れの見張り番がそんなことを思ったとしよう。
 思ったが、思っただけじゃ通じない。
 だからアラートの音声を発する。発さないと、他の同族に伝わらない。伝わらなければ、そもそも見張りをしている意味がない。
 これが“あヤバい”と思っただけで周囲の同族みんなに伝わるのだったら、そもそも「ことば」なんか要らないわけだ。

 これね、当たり前なんだけど、重要なことなのよ。
 そして、今も変わらないことなの。

 思っただけじゃ伝わらないから、声やその他の方法で伝える。
 それは、声やその他の方法を使わなければ自分の思ったことは伝わらないし、他の誰かの思ったことも伝わってこないってことだ。
 そう、伝達のための手段を使わなければ、自分以外の誰かが見たもの、聞いたもの、その他感じたり思ったり考えたりしたすべてのことは、わからない。
 これがつまり、俺が今までにも繰り返しいってきた「個は内側に向かって閉じている」ということ。これに甘んじているうちは、個はあくまでも個であって、生じては滅するだけの分断されたものに過ぎない。たとえ種族というものがあったとしても、それは遺伝子の構成がほぼ同じで交配が可能な個の総体、という意味しかもたない。連携し形而上的な繋がりをもつ集団にはならない。個と個の、生殖を除く交渉があって初めて同族とか一族と呼べる集団が成立する。その交渉の唯一の手段が、「ことば」なのだ。
「ことば」の使用によって初めて個と個は個と個として交流することができる。
 その交流によって個々の経験は集団のものとして拡散・蓄積され、それがやがて文明と呼べる“知”に昇華する。

 が、「ことば」には大きな問題がある。
 それは「意味の共有」だ。

 これも繰り返し述べてきたことなんだが、たとえば“青”ということば。
 これはつまり「波長435.8nm前後の光波が(人間の)眼によって捉えられた時に脳が感知する刺激」のことなんだが、そのことを同じ「ことば」を使う全員が理解し納得していなければ、「ことば」として通じないわけだよ。
 中にヘソマガリというかワカラズヤがいて「いやオレは波長700nmぐらいが青」とかいいだしたら、“青”という概念自体が成立しない。だからこれは、自由度ゼロの取り決めによって定義されなければならないわけだ。(なお700nmの光波は通常“赤”と認識される)
 だが、光波の波長なんて概念が出てきたのはせいぜい19世紀以降のことであって、それ以前は経験学習として「この色を青と呼ぶ」という“情報”が集団により維持されてきたに過ぎず、だから認識する“青”には当然のように個人差があった。
 今でもそれはある。
 Aさんにとっては群青色が青で、Bさんには青緑が青、Cさんには硫酸銅の結晶の色が青だったりするわけだよ。並べればその違いははっきりするが、普段はそんなことはしない。A:「そしたらさ、空がすっげー青でキレイでさー」 B:「あー、わかるわかるー」 C:「それは感動したよねーきっとねー」なんて会話があったとしても、それぞれがイメージしている空の色は違うってことだ。
 およその雰囲気は共有されている。おそらく、Aさんの感動もある程度はBさんCさんに伝わっている。でもAさんが見た空の色は、BさんにもCさんにも伝わっていない。
「ことば」ってのは、そういうもんだ。

 それで通じる部分もあるんだから、そしてまたたいがいのことはそれで充分だったりするんだから、「ことば」がまるっきり不全なものってことはない。
 だが、そのズレが致命的になる場面は、実は少なくない。
 それは多くのひとが感じている。
 そしてそれを不便だと思っている。
 だから「ことば」は改良され続ける。変化し続ける。
 だが、エレメントの部分でさえ(上記“青”についての例のように)「ことば」は厳密には使われてはいないので、改良されても改良されても足りることがないのだ。

 で、だ。
 これ全部前置きであって、いいたいことの中心はねえ、「取り決め」の方だったんだよねえ。
 いやはや。

 あんまりにもめんどいんで、続きはまた機会をあらためてってことで。


追記;
 後日に続きを書いてます。
 置き場所は以下の通り。

報道に真実を求めるうちはまだ青い(2) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
報道に真実を求めるうちはまだ青い(3) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
報道に真実を求めるうちはまだ青い(4/了) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』