かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

それは砂場じゃない

 近所の公園で、何十年に一度レベルの大改修がおこなわれている。
 そこはかなり大きな公園で、基本的にはおとな対象のものだ。
 中の一画がこども用の遊具もあるコーナーになっている。
 そこがおよそできあがったようなので覗いてきた。
 ひと目見て「あーこりゃダメだ」と思った。
 無駄に広いエリアがあるかと思うと、砂場が小さい。
 あの砂場はダメだよ。この公園ほどスペースがあるなら、もっと広くしないと。

 砂場ってやつ、意外に維持費がかかるらしい。
 端的には砂の補充が大変になる模様。
 だが、だからといって小さい砂場じゃ意味がない。
 こどもにとって砂場は「砂に触(さわ)れる場所」「砂で遊べる場所」じゃないんだ。
「砂の場所」なんだよ。
 文字通りの“砂場”なんだ。
 それを実現するには、あんなチマいもんじゃダメだ。ぜんぜんダメだ。

「砂の場所」がどう違うのか?
 見ていればわかる。ほんの小一時間ベンチに座って、こどもたちが砂場で遊んでいる姿を見ればわかる。
 確かに、こてこてと山を造ったりトンネル掘ったりする時もある。
 だがそれよりも、盛大に砂を撒き散らしたり、そこで何人かのこどもたちが無意味に集まったり散ったり、砂の上を走り回ったりもする。
 そう、走り回ったりもする。
 夏場なんかはね、砂も焼けてて熱いわけだよ。
 そこを裸足で「あついー! あついー!」って言いながら笑ってぐるぐる走り回ってるよ。それだけで遊び終える子もいるぐらいだよ。
 そういう遊び方をするには、円形であるなら少なくとも直径5m以上の砂場が必要だ。少なくとも、だ。
 四畳半くらいのスペースに砂を置くだけじゃあ意味がないんだよ。

 そんな遊び方をされたら砂の消耗が激しく、補充に費用がかかる。それはわかる。
 だが、それぐらい面倒みなくて、なにが政治なもんか。
 確かにね、砂をいじって遊ぶだけなら、三畳だってかまわんよ。
 だが、砂場はそういう場所じゃないってことだ。
 そこはこどもたちにとって「区切られた砂の“世界”」でなければならない。たとえ区切られていても、そこには世界を感じられる規模が必要だ。
 彼らのイメージの中には、あるいは、おとなが見る砂丘ぐらいの広さが感じられているかもしれない。それを感じ得るだけの規模が、“砂の場所”には必要なんだ。

 こういうのの設計をする人がどういう人なのかは知らない。
 ただ、ひとついいたいことは、
「てめえの小せえアタマで考えるな」
 ってことだ。
 そーいう人々はよく「使うひとの身になって設計しました」とか「よりよい環境を考えました」とかいうようだけれども、それは結局のところ設計者個人、せいぜい周辺の関係者のアタマの中だけの話だよね。
 だが、さまざまな施設には、その人らのアタマじゃ思いつかない要素がいっぱいある。実際の利用者に話を聞いても足りない。それは限られた対象が選択的に提示したものに過ぎないからだ。しかも、話した当人が気づいていない、けれど当人が実際にやっている/求めていることが、実はいっぱいある。
 それを解消するには、現場へ行って、繰り返し行って、ぼーっと眺めることぐらいしか手はないと考えている。

 実際のところ人間の目というものはものすごく選択的で、自分が見たいものしか見えていない。耳だってそうだ。連れと雑踏を歩いていて連れのことばが聞き取れるのは、その声にきもちが集中していて、無意識のうちに周囲の雑音を遮断しているからだ。同じ環境で無指向性マイクを使って録音してみればわかる。隣のやつの声なんざ聞き取れない。いや、静かな部屋で“対談”していたって、録音した音源からは半分も話が聞き取れない。でも対話している当座には全部聞こえている。そういうフィルターを人間は備えている。
 だから、何らかの目的をもって対象を眺めていると――今日の話なら「公園を造るぞ」という意識で公園を観察していると、自分が見たい情報しか見えてこない。
「あー山を造って遊んでいるな」とか「あーしゃがみ込んで人形を埋めてるな」とか。
 で「それだったらこれだけの広さがあれば足りるだろう」となる。
 つまり結局は、自分の意志ばかりで設計を進める結果となる。
 せいぜい「自分がこどもの頃はこんな風に砂場で遊んだなー」という視点をもつくらいが、人間の、意図した観察力の限界だ。

 だが、人間は個々に異なるわけで、特に「おとな」には「こども」の行動はわからない。なぜかといえば、「こども」の無指向性の興味をあちこち刈り込んだ存在――ある興味は納得の末に片づけ、ある興味は不満なまま切り捨てた存在を「おとな」と呼ぶからで、つまり「こども」たる要素をもっていない、そういう点ではこどもに遥かに劣る存在だから「おとな」なのだ。
 わからない対象をわかったつもりで考えるから、ますます意識の向きはアッチの方角へいってしまう。そこから出てくるのは、いいところ「おとな」の自己満足、たいがいは設計者個人の自己満足に過ぎないってことだ。

 自分自身が子育てをしながら、こどもたちの、おとなの視点からすれば奇妙な行動をいろいろと見た。
 やつらは本当にこっちの考えのナナメ上のことをする、してよろこぶ。そういう時の笑顔ほど眩しい。いっしょに遊んでいると、おとなの俺が「おー、そんなこともするかー」と思うことを、彼らはどんどんやらかす。それを言うと、ますますやらかす。
 それが“よい子”だ。
 時にはこっちの想像通りのこともするが、それはたまたまの話であって、別にこっちの意識を忖度しての話ではない。そこに忖度がはたらくようになったら、もう半分くらいはおとなの域に入っている(そしてそれは、実は就学前から始まっている)。
 そういう“こども行動”を、こどもたち自身が実現するためには、四畳半の砂場は圧倒的に足りない。
 もちろん公園全体の規模から、どうしても……という事情もあるが、今回の地元公園の広さを考えると、これは当てはまらない。
 要は、広さの使い方を間違えている。もう断言。大間違い。

 財政的な事情があるなら、まずおとなの分から削れ。
 なぜならおとなには「自分で稼ぐ」という手段がある。
 こどもには、それがない。あてがわれたものでやるしかない。
 だからおとなが、さまざまな可能性を必要以上に考えて準備する必要がある。
 リクツではこれでいいはずだがリクツを超えたものはおおいにあり得る――そういう認識で、“余分”を準備しなきゃいけない。(それでもしばしば足りないけどね)
 それが「おとなの存在意義」ってもんだと思うんだ。

 というわけで、その公園が完成しても、こどもを連れてゆくことはないだろう。
 というより、こども自身がゆきたがらなくなるだろう。
 こういうのを公費の無駄遣いという。金かけて閑古鳥を飛ばすんだからな。
 やんぬるかな。