30分
先日、大学入試に成功した姪のお祝いを焼肉屋で催した。
亡母が開拓し一族で常連になった店。母の逝去後、数年も無沙汰していた。
だが姪から直々の希望があったとかで、そこで会食することに決定。きっと姪には、大好きだったおばあちゃん由縁の場で……って意識があったんだろう。
それで予約を入れようと電話をしたら、店のひとがしっかり憶えていてくれて、歓待を受けた。おまけに帰りには、売り物のキムチをふたつかみビニール袋へ投入、おみやげに持たせてくれた。遺徳だね。
さてこのキムチ、日々につまむのもよいが、少し変わったこともよいよね……と画策。豚肉とともに炒めタマゴとクリームで和えてパスタソースにしてみようと目論んだ。
それでさっき、材料を調達に出かけた。
家を出て少し歩いた先、住宅街の交差点。
特に車線の別もない、ほんとうにどうということもない交差点に、ワンボックスカーがするりと近づいてくる。
俺もその交差点を渡るつもりだったが、車の方が圧倒的に近く、そして両者のゆく方向は交差する。ここは車に先へ行ってもらうのが得策だろうと思い、少し手前で立ち止まって、運転席を見た。
すると運転していたおっちゃんが、手振りで「渡っちゃってください」。
こういう時は運転者の都合に合わせる方が安全だ。
頷き、一礼して、小走りで渡った。
ちょっと気の毒だったのは、向かいから来ていたベビーカーのおかあさん。
俺が走ったもんだから、これは急がないとかな、と思った模様。ベビーカーを押して、これまた小走りになってしまった。うむ。俺の修行が足りなかった。むしろ悠然と渡っておかあさんを安心させ、然るのちに車のおっちゃんに改めて礼をするべきだったか。
次からはもう少し周囲の事情に気を配ることにしよう。
さらにもう少し歩いたら、自転車のおばちゃんが会釈してくる。
ああ、オザワさんちのおばちゃんだ。
先日おばちゃんがウチのとなりの神社を覗き込んでいる時、たまさか俺が玄関から出て、カチアイ状態になった。それでふた言み言会話した。
実は娘さんが中学の後輩で、当時は相応の近所づきあいもあったんだが、以後何十年もやりとりがなかった。途中で俺が一旦家を出たりしていたしね。
ともあれそれで久々に互いを認識し直したばかり。
縁だね。
すれ違いざまに、深めに会釈し返した。
スーパーに着き、買い物。
豚肉と、切れかかっているオリーブオイル、切らしちゃったバター、今日使ってみようと思っているクリームを選び、レジの列へ。
すると、前に並んでいたおばちゃんが俺に気づき、どうぞ先へというアクション。
「あ、いえいえ。大丈夫ですよ」
「あら、そう? おにいさん(と言われるような若者ではないんだがw)買い物少ないから、あたし多いから、先にしちゃった方がいいかしらと思って」
「いやあ、ほんの二、三分のことですもん。尻に火がついているわけでもありませんから、大丈夫。お気遣い、どうもありがとうございます」
ありがたいねえ、本当に。
店を出る時、二歳くらいの男の子が、満面の笑顔で出入口へ突進してきた。
ママとおつかいで上機嫌……ってとこだな。
ちょっと身をずらし、道を開ける。
男の子は真っ直ぐに店内へ駆け込んでいった。
あとからついてきていたおかあさんが、「すみません」と軽く頭を下げる。
特にことばはいいか。はっきりわかるように笑顔になり、こっくり頷いて応えた。
妙にね、ことばを重ねなくてもね。好意を伝えられれば、それでね。
それにしても、元気なこどもはいいねえ。
でも店内で転ぶなよー。塩ビ張りの床、数ミリ下はコンクリだからな。けっこう痛いぞ。
帰り道。
午後深く、太陽はすっかり西へ。そして帰路は西向き。眩しくって、真っ直ぐには前を見られない。
と、前方でパサッと音がした。
顔をあげると、なにかタオルのようなものが落ちている。なんだろう。そのそばを、おばあさんが歩いているが。
そこへ向かいから、つまり太陽に背を向けて、三十代ほどの男性が自転車でやってきた。
そしてそのタオルのようなものを拾い上げると、すでに少し先へ行っていたおばあさんに自転車で追いつき、それを手渡す。
おや。あれは帽子だったのか。するとおばあさん、小わきに挟むかポケットにでも押し込んでいて落とした、ってところだな。
おばあさんが腰を折り礼を言っている模様。男性、軽く手を振って、さーっと走り去る。
あぁ、いいもん見ちゃったなあ。
でも俺は不注意でよろしくなかったぞ。眩しかったとはいえ、もっときちんと前を見て歩くことにしよう。そうすれば、彼に手間をかけさせることもなかった。
いろいろ不備だね、俺も。まだまだ足りないなあ。
戻ると、家を出てからちょうど30分が経っていた。
うん。今日もいい日だな。
今日もな。
とりたてて難しいことはしなくても、日々はこれでけっこうたのしい。