人間とは(薄切りロースハムわしゃ食いからの考察)
たとえばの話。
ロースハム薄切り五枚入りパック、というものを買ってくるわけだよ。
まあだいたいにおいて五枚はぴったり重ねられ、凝ったメーカーでもせいぜい一センチずつずらしてあるぐらいで、ふつうはこれを一枚ずつ剥がして食う(使う)。
これを剥がしたりせず、重なったまま、全部イッキにわしゃわしゃっと食ってしまう。
この行為に贅沢を感じない人とは、さまざまな話が通じないだろう。
時おりは「ステーキ用の厚切りハムを買ってきて食べればいいじゃない」なんて言い出す人もあるが、そういう人とは話以前に言語がもはや通じない気がする。イルカやゾウと同じくらいの距離を感じる。
そもそも薄切りにしてあるのには、理由がある。
また、ブロックで売られているよりも手間がかかっているわけで、その分高価にもなっているはずだ。
それらを完全に無視するところに、贅沢がある。
別に厚切りが食いたいわけではないのだ。薄切りを無駄にしたいのだ。
無駄を食いたいのである。
然り、贅沢とは無駄をおこなうことだ。
ものごとを実用性で量らない。趣味や気分といった、ごく個人的な事情でおこなう。
それが贅沢というものだ。
食道楽というのはそもそもそういうものだ。
だいたい食うなんて行為は生体として活動するためのエネルギーや生体そのものの維持のためにおこなう“作業”であって、だから必要な栄養素を必要分だけ摂れればよい。
なのに、味だの香りだの見た目だのインスタ映えだのの条件を勝手に付け加え、栄養以外の部分にこそ価値を見出す。
ここんとこが贅沢の芯なのだ。
映画を観るだの音楽を聴くだのゲームをやるだのといったことどもは、すべて実用性を備えない。要は、なくたって死なない。なのにやる。そこがつまり、贅沢なのだ。
そして贅沢は、それゆえに金もかかる。
金という概念が気に入らないというのなら、そこへ費やされる労力を無駄にする、でもよい。
それが、贅沢の幅を広げるのだ。
薄切りロースハムを剥がさずわしゃわしゃ食うなんてのは、金という点からみたら、ごくささやかな贅沢ではある。
だが薄切りという行為に関しては、それ自体を否定する無法だ。それを準備した人間の配慮、技術、手間といったものを、丸ごと否定しているのである。
ゆえにそれは、そこはかとない背徳の気配もまた伴う。
その背徳を感じ取り、敢えて味わうことが、薄切りロースハムわしゃ食いの本質なのだといっても過言ではない。
そこんとこを理解していれば、薄切りロースハムわしゃ食い自体を考えないひとでも、「んー、オレは別にそういうことしたくはないけど、それに贅沢を感じるっていうのはわかる気がする。厚切りではダメだってのもわかる気がする」って反応になるはずなんだよ。
これを説明しなければわからない人、説明してもわからない人は、そも贅沢とはなんぞやという定義があやふやだったり、ひどい時には定義をもっていなかったりする。
そして俺は、そういう贅沢を求めることこそが人間の人間たる所以である、と考えている。
一方的な価値づけ。それに対する聖性の設定。さらにそれを足蹴にする快感。そんな面倒くさいことを常習的にやらかし愉しむもの、むしろそれが存在理由になっているようなものが、人間以外にあるか。
そんなくッだらないことを悦ぶものが、人間以外にあるか。
なので、薄切りロースハムわしゃ食いを理解しない(できない)ものとは、通じ合えないと思うのだ。
だって俺は、人間なんだもの。
人間という、くッだらないいきものなんだもの。
人間でないものとは、お話できませーん。
【追記】
ただし、だ。
無駄に贅沢があるっていっても、薄切りロースハム買ってきていきなり棄てる、とかの無駄はダメよ。それは贅沢じゃない。ただの傲慢だ。あくまでも食う。そこ大事。