かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

クトゥルフ譚雑感2023

 11歳になったむすこがこのところクトゥルフTRPGに興味をもっている。
 きっかけは例によって YOU TUBE の実況系コンテンツで、どうやらゆっくり系動画を渡り歩いているうちにゆっくりキャラを用いたTRPGリプレイに辿り着いたらしい。
 以前には怪獣が大好きだったむすこだ。本編こそ未履修ながら『ウルトラマンティガ』最終シリーズにガタノゾーアが登場したことは知っているし、ガタノゾーアのソフビ人形だって持っている。となれば、どこぞでガタノゾーアがクトゥルフ神話体系からもち込まれたものという情報に触れ、親しみを感じた場面だってあっただろう。(この場合その感情を「親しみ」と表現することに些かの違和感なきにしもあらずではあるが)
 ダーレスの発想に基づく旧神対旧支配者の構図は、そのままM78星雲系戦士群と敵対宇宙人群(代表格はやはりエンペラ星人だろうなあ)(ところでエンペラ星人って皇帝のエンペラーから命名されたらしいんだが、俺の周囲にはイカの三角形のひらひらをエンペラと呼ぶひとが多いんで、どうしてもイカのひらひら星人という印象になってしまうのよね)(さらにクトゥルフといえば触手なのでエンペラ星人とクトゥルフはさらに強く繋がってしまうのだった)に写し取れるし、その点からもクトゥルフTRPGはむすこにとって受け入れやすいものだったのだろうと思う。
 さらにいえばむすこがごくごく幼い頃、怪獣ソフビ人形群を使ったゴッコ遊びで、父たる俺がTRPG風に「さてここでテレスドンは炎を噴くようだぞ。ゼロたちはどうするかな」「うん、ゼロとタロウは炎を避けられた。でもセブンには当たってしまって、体力が半分になってしまった」という具合に“物語”を進めた、その記憶もTRPGリプレイを見聞きするのに役立ったのかもしれない。もちろん俺はその辺を狙っていたわけで――つまりTRPGへの布石を置いていたわけで、内心しめしめと思っている部分もなくはない。それがまさかクトゥルフTRPGになるとは思っていなかったが。

 そういう事情があり、じゃあちょっと再履修もしておくかと、このところ十数年ぶりで全集文庫の類を読み返している。
 読み返して改めて、「それにしても大袈裟な話ばっかりだなあ」と感じているし、文章がくどいとも思っている。まあ文章のくどさはクトゥルフ系に限ったことではなく、あらかたの翻訳文学に共通する要素だけどね。この辺は言語自体の組み立てがまったく違うせいなんだろうなあ。それを極力原文を乱さないよう翻訳すると、どうしたってくどくなっちゃうんだろう。だからといって日本語としてわかりやすいように、たとえば一文をいくつかにちょんぎったりすると、それはそれで文句をいわれるんだろうしなあ。
 まあとにかく、翻訳文学たるクトゥルフ神話体系を読み直していて、今さら納得したことがある。
 それは「なにゆえ俺にはクトゥルフ関連作品群が欠片も恐ろしく感じられないのか」、その理由だ。
 いや日本人でこれらを恐がるひとって、根本的に少ないんじゃないかな。知己には笑いながら読んでるってひともいたしな。(それはそれでレアケースなんじゃね?)
 どうあれクトゥルフ譚は俺には恐くない。
 その理由が、おおまかにわかった気がするのだ。

 理由はおよそふたつ。
 ひとつは「生への執着の度合い」で、もうひとつは「自身の知識に対する認識」。
 まず前者だが、クトゥルフ譚に登場する人々は、どうも生に対して、俺から観るに尋常ではない執着をもっている。死ぬことをものすごーく恐がっている。もしくは、生きるということに盲目的な意欲をもっている。
 クトゥルフ譚においてクトゥルフ眷属(特に神格)との遭遇は即ち死との遭遇に等しいわけで、だからクトゥルフ譚が恐いのだ。
 この辺は宗教的な事情も絡むのだろう。
 日本は輪廻転生の国で、アイドルが恋の破綻のおりに「来世ではいっしょになろうね」と涙ながらに言えば素直に聞けちゃう国民が大多数だ。だから今生での死は必ずしも自分自身の終了にはならない。魂がやがて別の魄を得て再生するのが大前提。次の機会がまず必ずあるのが、日本の死生観の根幹をなす要素といえる。
 一方、たとえばキリスト教においては、魂は一回きりのもので、だから審判の日が訪れると死者たちはそれぞれに蘇り、存命中の功罪を量られることができる。複数回の生を経ていたら複数の生がごっちゃになって、当人の功罪は量られ得ないんだからね。するとなると、今の自分が死ぬことはイコール魂の終了であって、ならばさぞかし死は恐かろう。

 俺個人はといえば、とりあえず輪廻転生は信じていないし、なんなら死後の世界だって信じちゃいない。
 意識は脳内を駆けめぐる無数の電子群の奇妙な振る舞いの所産だ。だから回路たる脳が潰れりゃ終了。死後にそれが持ち越されることはない。
 いや、あってほしくない。
 死んだあとまでこんな面倒なもんとつきあう気はねえぞ。
 そこでお終いにしてほしい。
 むしろ死は救済なのだ。
 俺はそう考えている。
 これじゃあ死は恐がれないねえ。
 それどころか、余人が知れずにいる奇怪な存在と邂逅してクタバれるのなら、その分なんとなくお得なんじゃないかと思うぐらいだからねえ。
 恐くないわけだねえ。

 そして後者、自身の知識に対する認識。
 これについてクトゥルフ譚の登場者たちは、およそ傲慢だ。
 自身の知識が絶対のものだと考えている節がある。
 たとえばクトゥルフ系の常套句「名状し難きもの」、つまりは自身のことばなど知識によって表現しきれない何か、これに対するショックが皆さんなべて大きい。
 自分の知らないものが出てきてショックを受けるというのは、裏を返せば「自分はそれだけモノを知っているのに」だよねえ? 知っている自分が知らないから名状し難きものに驚くのだし、それを恐れたりもするというわけだ。
 これ傲慢でしょ?
 俺は思ってるよ「俺まだまだ知らんこと多いなあ」って。
 だから「名状し難きもの」が登場したら、「わあすげえ、知らないもの出てきた」って歓迎する。知識が増えるんだし、それはつまり俺の狭い世界が少しでも拡がるってことだからね。まあ生理的に受けつけないモノが出てきたらイヤではあるが、名状し難い、という点に恐怖は感じないな。「うわキモッ」だな、せいぜい。
 当然それを観る(知る)ことが、俺の生命を削るとも思わない。
 名状し難き何かとの遭遇で揺らぐ生命とはつまり、「既知にのみ頼って生きている」だし、その根底には「自分の既知は絶対である」という傲慢があるわけですよ。
 これにも宗教との絡みがあると思う。
 アニミズムといえる宗教観をもつ多くの日本人にとって、世界は未知の要素で満ちている。いつの間にどんなモノが発生しているかわからんのだから。古雑巾を“供養”もせず放っておいたら妖怪になっちゃった、なんてのは日本においては「へえ、そうかー。あり得るなあ、そういえば……」というお話で、だから世界は常に更新され続けている。
 一方、これまたキリスト教、というよりその源流にあるユダヤ教的には、唯一神が精根込めてつくりあげたのがこの世界なので、神の手を経ないモノはこの世界には存在しないし、またこれから突如生まれることもない。それができるのは神のみなのだから。
 その神の範疇から外れたモノが登場したら、それは神が唯一ではないことの証になってしまうし、しかし神が唯一だからこそこの世界は成立しているのだから、名状し難きものの登場は世界の破綻に等しい。ユダヤ教的には世界は更新されないんである。

 science というものは、そもそもキリスト教的な神学の一分野だったらしい。
 神がつくりたもうたこの世界を隅々まで調べ尽くし知り尽くそうという学問。
 だから science をハミ出るものがこの世界にあってはならないし、もしあるのならそれは神がすでにもたらしていた未知のものでなければならず、当然ながら神の則に背かないものでなければならない。
 もし神の則から外れるものを知ってしまったなら、それは世界が破綻したことを認めることになる。そういう恐怖が、どうもクトゥルフ譚の根っこにはあるようだ。
 クトゥルフ譚の登場者たちにおける知に関する傲慢というものは、つまりは神への強い信仰そのものに等しいと考えられる。
 だから唯一神への信仰をもたない俺には、ぜんぜん恐くない。

 そういえばH.P.ラブクラフトクトゥルフに触手をつけたのは、当人がイカタコの類が大キライだったかららしい、と聞いたことがある。
 そしてイカタコ類は欧米で、たとえば英語では devilfish と呼ばれることがあるのだそうだ。なんとなればこれらは神がつくりたもうた魚の姿からかけ離れた姿をした生物であり、ならばこれらは devil(神に叛逆する存在)の所産であろうと推断したのだとか。
 してみるにラブクラフトはものすごく神に忠実な信徒であり、ゆえにこそ自身の背徳行為に怯えつつ陶酔してああいう物語群を生み出したのかもしれない。なにしろあらゆる背徳は蜜の味だからな。
 だが残念なことに、唯一神は信じないし生蛸の握りを喜んで食うような者には、その恐怖も背徳もわからんかったというわけだ。

 まあそれでも『インスマウスの影』はちょっと恐いんだけどね。
 それくらいなんだよな、俺には。

 どうあれむすこには今後、クトゥルフに限らず、またテーブルトークに限らず、さまざまなRPGに触れてたのしんでほしいと思うし、またゲームに限らずさまざまななにかに触れて生の幅を拡げていってほしいと思う。
 むすこの幸福以外に俺が望むことなんてないんですよ。はい。