ひとにはひとの、神様。
人間には神が必要だ。
もっともそれは、既存の宗教の中心にあるものとは限らない。
要するにそれは、自分より遥か上位にあって、ものごとの理(ことわり)を司り、超越的な“力”を備えていて、それを信じる者の行動に影響を与えるなにかだ。
だからそれは、父母や親族の誰かであってもかまわないし、友人であってもよいし、それ以外の具体的な存在でもかまわない。逆に具体的な像をもたず、漠然とした概念のようなものでもかまわないし、さらにまた逆に無生物、一般的には像のみで存在するものであってもかまわない。もちろん既存の宗教やその中心にあるものでもよい。
なぜひとは神を必要とするのか。
それはまず、自身の生を肯定するためだ。
誰でも一度は、自身の生に疑問を抱いたことがあるはずだ。
もしそれがないとしたら、まだ疑うだけの知性を得ていないこどもか、疑問を抱く暇もなくひたすら生をつなぐことだけに追われているかだろう。
どちらにも該当していないのに自身の生に疑問を抱いたことがないものは、ひととは呼べない。ことにこの日本に生まれ育ち、二十歳にもなってそれを考えたことがないというなら、それは本当にひとではない。
なぜか。
ひとは、というより日本人は、暇すぎるからだ。
昔から「小人閑居して不善をなす」という。
そもそも生き物であれば、自身の生なんぞに疑問を抱いている暇はない。とにかく生き、とにかく育ち、とにかく子孫を残す。それが生き物の存在意義だ。
だが人間はアタマがよい。よすぎる。
それゆえ文明なるものを生み、生きることそのものの負荷を減らした。その結果、ほかの生き物が必要とするほどには、生そのものを維持するための労力を費やさずに済むようになり、さらには“寿命”といわれるもの、その生き物が専有できる時間もおおいに伸ばした。
結果、余剰の時間が大量にできた。つまり閑居の時間を稼ぎだした。
大概の人間はそうそう立派なものでもない。つまり小人だ。それがヒマをもてあませば、ろくなことはしない。その結果、「人生とは……?」なんてことをアタマの中でひねくりまわすようになった。アタマがよくて暇なら、そうならない方がおかしい。
いい齢を得て知性もそれなりに育みながら生への疑問ひとつ抱かないようであったら、それはそもそも小人未満ということだ。
ひとは自身の生を考えるうち、たいがいは壁に突き当たる。
どんな壁かといえば、「自身の生の根拠が見つからないどころか、現時点に存在することすら実は悪いことなのじゃないか」という壁だ。
これはもうとても単純な話だ。
自分は生きている、ということに思いを巡らせれば、当然ながら他の生にも思いが及ぶ。(及ばなかったらよくよくのバカだ)
そして気づく。
従属栄養の生物であるところの人間は、ほかの生命を消費して自身の生をつなぐほかに生き続ける方法をもっていない、ということに。
すると、では、自分はほかの命より重要なものなのか、という疑問へ至る。
その判断基準はどうする。誰が判断を下せば公正になる。その判断は間違いないものなのか。いや待て。このことを考え始めるずっと以前から、ずーっとほかの命を奪い続けてきたから自分の今があるんだぞ。うわあ。なんてことだ。生きてきたこと自体が間違いだらけかもしれない。これは大変だ。
まあそれも仕方ないよね、と思い切れればよいし、そういう人は意外に多い。考えても仕方ないから考えるのをやめる、という人だ。これはこれで正しい。自然体ともいえる境地へ至ったわけで、それはそれでよしとする。
が、中にはそこまで至れず、かといって自身がほかの命を潰しながら存在し続けることへの疑念を消し去れないものもある。
そういうひとたちには、神が必要なのだ。
神は、人間が背負いきれない“罪業”を引き受けてくれる。
ある宗教では、人間は大地を治めるものになれと神に命ぜられたから、大地にあるものは神の名において人間の自由にしてよい、という解釈をもつことで、人間以外の命を消費することを肯定する。ある宗教では、ほかの命を消費しなければならない“罪”は消えないから、それを最小限に収めつつ償うことに気持ちを割き続けることで、やがて救済が得られるとする。
個人が背負うには重すぎる荷を肩代わりしてもらうために、神が必要になってくるというわけだ。
歴史のある宗教ほど、その仕組みをうまく組み立てている。
自身の生をつなぐこと、維持することの肯定のために、神が必要というわけだ。
一方、派生的にもうひとつ重要なことが生じる。
それは、自分を律する理由や動機、目的の強化だ。
もともと人間は生き物としては弱く、ゆえに単体で生を維持することが難しい。
だから群れて生活するし、その過程で分業制のようなものや技術を発展させた。つまり文明だ。
だが群れて生活し、技術を用いてそれを充実させるには、どうしてもルールが必要になる。参加する個々が好き放題に振る舞っていたら、群れは成立しない。
個々の役割や行動の制限が統一された群れがつまり、社会だ。
それは一種の契約であって、社会の恩恵を受けるためには社会のルールに従わなければならない、ルールを逸脱するなら社会の恩恵はあきらめなければならないと、ざっくりいえばそういうことになっている。
人間はだから、社会への参加のために自身の行動や思考を律する。殺すな・壊すな・欺くな、というのは、およその社会に共通する制限三箇条といったところだ。
それはそもそも社会という群れに参加するためのものだが、それだけでは漠然としているゆえ、神を足すことで動機その他を強化しているわけだ。
だが、時として社会への参加に積極的な意義が見出せなくなることもある。
それぞれの言い分はあろうが、社会参加のルールを守っていても意味がない、もう好きなようにやってしまえ、という気分になる時があるということだ。
こういう時の最終的な安全弁としても、神は機能する。
社会に参加するのに、なぜ殺してはいけないのか。それは自分が殺されないためだ。
なぜ欺いてはいけないのか。自分が欺かれないためだ。壊さないのも同様。
他者の保全イコール自分の保全。それによって多数の個が互いを滅ぼし合わずに並存できる。では、自身の保全を望まなくなったり、ほかの個がとことん信じられなくなったりした時には、なにが理由になり得るか。
その“監督”の役目をになうのが、つまり神なのだ。
社会なんてのは、神に比べればチャチな仕組みに過ぎない。神が優先する。だから社会に従わなくとも、神には従おう。そういう最後の歯止めとして、神は機能する。
そういう歯止めをもたなければその個は、完全に孤立してしまう。あらゆるものから分断され、存在の肯定がままならなくなる。それは少なくとも個の滅びへの道が開くことだし、その滅びには時として道連れが引きずりこまれてしまう。
そこで神ですよ、というわけだ。
だからそれは、既存の宗教の中心にあるもの、である必要はない。
その個に“信じる”ことができればよい。ひとでも物でもかまわない。
もちろんそれがあるからといって、孤立していることには変わりない。厳密には人間はそもそも全員が孤立しているものなので、その点においては社会に参加していようがいまいが同じだ。ただ自分の中に、頼れるものをもっているかどうか――それが社会であれ神であれ――は、その個の存続におおいにかかわってくる。
さて。
ここで実は、大きな問題がある。
当地日本には、昔から八百万の神々がおわしますことになっている。あまりにも当たり前に神があるものだから、その“絶対性”は相当に低い。
だから日本人は、しょっちゅうカミサマーとか呼ばわるわりに、神に対する敬意、というよりは神の力に対する信頼度が低い。つまり神を信じようとしても、どうももうひとつそこに思いっきり頼り、自身の行動の基盤にすることがヘタなのだ。
だから日本人は、社会から“疎外”されると、いきなり自身の存在意義を見失ってしまう。
社会という集団から疎外されたとたん、多くの日本人は、自身の行動を制御する理由もなくす。
文字通りに“神をも恐れぬ所業”のすぐそばに立つことになってしまう。
これはつまり、「神のために準備されている心のスペースがブランク(空白)になっている」ということで、ふだんはそこに社会とか同調圧力とかが収まっている。それが抜けた時、多くの日本人はそのブランクを埋める手だてをもっていないということだ。
もちろん、というのもなんだが、そのブランクを誰かが操ることもできてしまう。明治維新以後、特に大正期から第二次世界大戦終了までの教育などは、まさにそれだ。戦後そこには、たとえば戦後の復興が入ったり、技術万能論的なものが入ったり、経済的背景を得た上での蕩尽が入ったりもした。
今でも、そこに妙なものを(半ば自主的に)入れ込んで、社会と対立することに“正義”を見出している人々は存在する。誰とはいわないが。
日本人に必要なのは、だから、純粋に理(ことわり)を説く神なのである。
行動と利益を即座に結びつけるようなものではなく、信じることによって自身のこころもちが安定し、結果的に他の生き物――もちろん人間も含む――との共存に充実感や満足感を得られるようにしてくれる、理の土台になるもの。
日本人にはそれが、常に必要なのだ。
ひとにはひとの、神様が要る。
そのことに気づかないと、いざという時にひとは保たない。
今の日本人のかなり多くが、そういう危機を抱えている。
中途半端にアタマがよく中途半端に豊かなひとという存在には、ひとのための神様が、必ず必要なのだ。