かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

ウルトラ怪獣たちの悲劇

ウルトラマンギンガ』以降の怪獣たちには、“した怪獣”のメタ解釈を感じている。(参照→『怪獣とはなにか(基礎的分類篇)』http://d.hatena.ne.jp/st79/20170718/1500367247
 スパークドールズという概念で過去の怪獣たちを“道具”として扱うシチュエーションのことだ。
 これは革命的(革新的ではなく)だった。
 それまで怪獣というものには、どこかにわずかでもアンコントローラブルなものがあって、だからそれらは怪獣足り得た。
 そのアンコントローラビリティ、ただでさえ希薄になる一方の怪獣らしさを、きれいさっぱり払拭したのが、スパークドールズという設定だと思っている。
 いってみれば、怪獣というものを、完全に、飼い馴らした。
 しかしそれは、申し訳ないが、もはや怪獣ではないだろう。
 どでかい亜UMAである。
 なぜ亜をつけるのかといえば、少なくとも物語世界では完全な unidentified ではないからだ。それなりに性質などが認められている以上、identified のうちに入ってしまう。だが出自なりには謎も多いから、完全に identified の括りにもいれられない。従って、亜UMA
 ああめんどくせえ。(俺というコダワリが)

 とにかく“怪獣”をそういうものにして、物語中で自在に扱うという設定は、怪獣から怪を取り除いてしまった。
 が、そもそもにウルトラ系怪獣譚を客観的に眺めれば、それは当然のことではあった。
 ウルトラヒーローという主役を活躍させるためにお膳立てされた“課題”が、ほとんどのウルトラ怪獣といえるからだ。
 だから視聴者は、敢えてことばにせずとも、ウルトラ怪獣がコントローラブルな“道具”だと認識してきた。イデではないが「ウルトラマンが今に来るさ……!」という気持ちでウルトラマンを待ち、それが実現されるための条件として怪獣を見てきた。
 ただそれは、あくまでも、暗黙の了解としてのものだった。
 それを積極的に物語内に取り込んでしまったのが、スパークドールズという設定だ。
 怪獣はお膳立てされるものにすぎない、という認識。
 そういう意味、それまでは物語外世界の製作者・鑑賞者による視点にあったものを物語内に基本設定として取り込んだという意味で、ギンガ以降の怪獣たちはメタ解釈の産物だと考えている次第。

 だが、先に書いた通り、もともとウルトラ怪獣というものは、ウルトラマン登場前のものを除きウルトラマンのダシであることに変わりはない。それが物語に採用されるか否かという差。「物語に採用される」というのはもちろん、雷堂ヒカルがそう捉えているという意味ではない。その物語世界における怪獣の位置づけとして、という意味だ。
 ただ、ウルトラヒーローの成立過程を考えると、ギンガ以降的な展開は必然だったといえなくもない。
 たびたび書いた気がするが、ウルトラヒーローの誕生は、怪獣に誘導されているという。
ウルトラQ』で怪獣譚が好評だったため、次作には毎回怪獣が登場する連続番組をつくることになった。
 だが、毎回怪獣が登場しても毎回人間に斃されているようでは迫力がないし、かといって出たら出っ放しでは文字通りお話にならない。
 じゃあどうする。
 初期案には、それこそ『大怪獣バトル』シリーズのゴモラよろしく、人間に味方する怪獣をレギュラー化しようというものもあったらしい。(このアイディアは『ウルトラセブン』でカプセル怪獣として実現するが、これをオリジナルデザインとしたのは最終的な判断で、当初は「ウルトラマンで人気のあった怪獣を出す」というプランだったようだ)
 紆余曲折がありつつ、最終的にはウルトラマンというまったく新しいヒーローをヒネり出すことによって、シリーズは誕生することになる。この辺りの流れについては、『ウルトラマンメビウス』のシリーズ構成を担った赤星政尚を中心とする書き手らが紡いだ『ウルトラ×× 99の謎』シリーズ(手元にあるのは二見文庫版/1993〜1994 ××の部分は巻ごとに違う語が入ってタイトルをなしている為念)に詳しい。
 つまり「怪獣を毎週見せるため」の方便として「怪獣に匹敵するヒーロー」が案出されたわけで、本来シリーズの主役は怪獣だったわけだ。
 ところがいざ登場してみると、われらのウルトラマンはあまりにも魅力的で、ゆえに怪獣は脇役へ押しやられることになった。多くのこどもたちは、怪獣よりウルトラマンの活躍を見たがった。
 これによりウルトラヒーローという概念が立ち上がる。
 すると今度は、ウルトラヒーローを活躍させるために、怪獣がお膳立てされることになる。本来は毎週怪獣を暴れさせるためのお膳立てだったウルトラマンが、一転、シリーズの中心になった。つまり主役の交代だ。
 この時点で、ギンガ以降の「怪獣は道具」という概念自体は成立している。
 だが、物語内ではその“事実”はとことんスルーされてきた。そこに開き直りを見せたのが、ギンガ以降ということになる。

 ただ、前段でちろっと書いたが、それを喜んだのは「多くのこどもたち」ではあって、全員ではなかった。
 たとえばマンガ家の栗本和博氏、このひとはいわゆる“DQ4C”、ドラゴンクエスト4コママンガシリーズの始祖といえるひとで、その作品の基本はドラクエモンスターを中心に据えたものだった。これについて氏は、氏が昔から怪獣びいきで、毎回斃されてしまう怪獣たちが不憫でならず、それゆえドラクエでも潰されまくるモンスターたちを主役にしたものを描きたかった旨を述懐している。
 こういう“子”たちは、けっこういたのだ。多数派ではなかったが。
 いわば『Q』の流れにある、怪獣になにかを求める子たち。
 こういう子たちは、ウルトラがヒーローシリーズになって怪獣が付帯条件の地位へ落とされたあとも、なぜか常に一定数は存在するようだ。
 もちろん俺自身も怪獣派である。
 怪獣派が嵩じてあちこちの怪物譚を求め、ドラゴンからヴクブ・カキシュからヨグソトースからなにから探したり読んだり妄想したりするという、因業な野郎。そんで結局「人間の裡の名状し難き衝動が」とかホザいているわけで、あんまりおもしろい奴ではない。
 ともあれ怪獣にこそ魅力があり、ウルトラヒーローにももちろん憧れはあるし、その活躍も大好きだが、でもやっぱり怪獣だよねーという一派はいるのだ。
 そういう一派のひとりである俺にとって、ギンガ以降の怪獣解釈は、やはりもうひとつノリ切れないものではある。全然怪じゃねーよとぶつぶつ文句を垂れることになる。
 もちろん各シリーズ(Xやオーブやジードやルーブや)がキライというわけではないし、物語の全体像(ことにジードの全体像は好きだ)の必然性からして、場合によってはウルトラヒーローという設定すら道具に過ぎない部分があり、ストーリーテリングを優先させればそうせざるを得ないことも承知している。
 でも、でも、怪獣が不憫なのよね。

 既存の設定では表現しきれないなにかの結果論的な表現として誕生したはずの怪獣たちは、その他さまざまな条件ゆえ、道具の地位に甘んじざるを得なくなった。
 これは悲劇だと思う。
 しつこくくどくいえばそれは、人間が自分自身を制御可能な存在と見做すことにも通じるし、そしてその程度の人間はまず大したことのない人間だ。
 そうではない、わけのわからんものを秘めているから、人間はおもしろいのだ。
 制御可能域にのみ存在し、そういう要素しかもたないとしたら、人間はつまり可能性から見捨てられた存在ということにもなり得る。
 それではいかんのではないですか。え。人間それではダメなんと違いますか。
 奇妙で鬱陶しい不定形のものを秘めているのが、人間のいいとこなんじゃないですか。
 それを無理やり排出したのが、怪獣ってものなんじゃないですか。
 どうですか。

 この悲劇――怪獣が道具としてしか扱われない悲劇は、どうにかすべきものだと思う。
 だから、怪獣に復権してほしい。
 アンコントローラブルで正体不明、最終的に駆逐されるのは仕方ないが、意図もなにもわからない単なる脅威としての怪獣。思えば『ウルトラマン』での怪獣は、ほとんどがそうだった。
 そういう、本当に怪な獣を、期待したい。
 そしてできれば、道具として生み出されてしまった千を越えるウルトラ怪獣たちにも、「やっぱこいつらこわい」という認識が与えられてほしい。
 このところ、それを切に願っている。

 てゆか。
「なんとかなる」「なんとかできる」を否定してほしいんだよな。
 どうにもならないことがある。その象徴としての、怪獣。
 それは救いのない話かもしれないが、局所的には事実だし、そしてだからこそ、なんとかできることはなんとかしなければならない、という動機にもなる。
 怪獣には、それを感じさせる力があるはずだと思っている。