かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

マッハバロンが好きでした

 まあね、あんまり記憶してるひとはいないんじゃないかって思うけどね。
 なにしろこの俺がまだ小学生の頃の番組ですから。
スーパーロボット マッハバロン』。
 詳しいことはこちらにて。→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%B3#.E6.A6.82.E8.A6.81

 どの辺が好きだったかっていうと、まず造形。
 アクションのメインに使われた、いわゆる“着ぐるみ”は、前作レッドバロンに続いて本体がFRP(だったよな確か)製。具体的には、頭・胴体・両腕の肘から先、両脚の膝から下がFRP製。上腕部とか大腿部はゴム(だかウレタンだか)製で、アクションできる仕組み。全部FRPじゃガチガチで動けないからね。なにしろ硬質素材だからFRPは。
 そう、硬質素材。それがよかったのね。
 なにしろロボットじゃん。それも、大昔のロボットじゃん。
 基本、鉄とか超合金とか、つまり硬い素材でできてるってのが基本だよね。
 だからさ、ぐにゃぐにゃしてたらヤなわけよ。こどもは。たとえ「いや新素材でして柔軟性はシルクなみ耐久力は鋼なみ」とかいわれても、「いやそんなのウソ。硬くなきゃダメ」っていう信念をもってるわけですな。
 その点マッハバロンは、見るからに硬そうだった。まあ実際に硬いんだけどね。
 ボディはつやつやの真っ赤。思い切って指なんか動かない具合にしちゃったのがまたよかった。だってぶん殴ったりするのが基本の手だもん、別に五本指がきれいに開かなくてもいいよ。いやむしろ巨大な握り拳が頼もしい。
 当時流行りのパンタロンみたいに裾広がりの脚もカッコよかったねえ。ロボットの脚線美は、やっぱ裾広がりだよね。ガンダムだってそうなんだし。

 そして、いかにも機械然とした動き方もよかった。
 ちらちらとバトルシーンのビデオとか観ると、実際にスーツアクトしてる場面って少ないんだよね。アップ用のプロップヘッドとか、ミニチュア(っつっても多分、小学生ぐらいの大きさはあったんだろうと思うが)の操演とかがかなりの割合で入ってる。そのせいなんだろうな、マッハバロンはすっごくロボットだった。
 それ以前の、ライブアクト系ロボットっていうと、まずはジャイアントロボで、次にマグマ大使で、他はないってぐらい。
 マグマは生物的すぎて、あんまり好きじゃなかった。ジャイアントロボはかなりすごくて、特に起動シーンなんかもんのすごく機械っぽくて毎度しびれた。バンクだったけど。(あとジャイアントロボって、縮尺がメチャクチャだったんだよなこども心にも)(まあ実はマッハバロンもかなりやばいけどね)
 そしてマッハバロンは、さらに機械だった。
 なにしろ頭や腕がくるくる回ったり、人間には無理すぎるファイティングポーズ(というのかどうか、とにかく気合を入れるがごとき動作)をやらかしたりする。
 シビレましたね。
 やっぱね、ロボットですから。機械でなくっちゃ。

 一方、シナリオは意外とシリアスだったりするんだ。
 本当は四十回分ぐらい続くはずだったのが、テレビ局側の都合でいきなり半分にされちゃったらしいんだけど、そのせいかどうか最終回へ向けての敵の戦略があんまりにもすごくてね。ビビッた。
 敵は天才科学者ララーシュタイン。こいつがホント鬼畜ジジイで、自分の息子三人を全員サイボーグ化しちゃってんのな。(自分の子を機械人にするかよ普通!)
 で、それぞれを陸・海・空の三軍の長にしてる。作戦に失敗すると親子の情もへったくれもなくマジギレで罵倒したりする。それでもこどもらは父親を慕っている部分があるんだよ。単に成果を競い合う横並びの将軍たちっていうんじゃなくて、「誰が一番父親にいいとこ見せて褒めてもらうか」の争いになってんの。いじらしい。
 最終回へ向けて、この三将軍がどんどん散る。その散り際は三者三様ながら、それぞれに父への愛情、というよりは父の愛情を望む息子の気持ちを露わにしていて、泣かせるというよりはゾッとするようなものだった。
 おまけにヒロインまで最後には死んでしまうという、酷薄無惨な物語仕立て。
 でもそこがまた好きだった。根が暗いんだな俺は。まあ仕方ないか。ジョーは世界に手が届かず燃え尽き、不動明は人間に完全な失望をして悪魔人間として死ぬことを選び、番場蛮はマウンドで優勝を見ることなく果てた。そういう“ヒーロー”に育てられた世代だからねえ。(「それは血を吐きながら続ける苦しいマラソンですよ」ってのもあるしな)

 そして、多分、なにより好きだったのは音楽なんだ。
 ヘビーでメタリックなオープニング。フォークでバラッドなエンディング。それにかぶさる映像も、当時としてはめちゃくちゃスタイリッシュ。
 しかも歌詞までがいい。特にエンディングの自己否定なんか、こども心にも衝撃を受けた。正義のロボットであるはずの物が、しかし、やはり戦う機械でしかないという認識。最後にはモニュメントとして遺るしかない運命を背負って創り出された、つまり予め廃棄をはっきりと定められて創られた兵器。単純な憧れを阻む、破壊のための道具。それがスーパーロボットであり、マッハバロンだという定義。
 論理的には当然であるような、しかし矛盾しまくっているような。
 よくもまぁそんなこと断言してくれたもんだ。しかもリアルタイムで。
 シナリオ書く側は常にそういう気持ちを抱きつつ書いているだろうと思う。でもそれはしばしば、視聴率のために葬られる。でもマッハバロンは初回から堂々とそれを歌に乗せて主張していたんだな。戦いの本質っていうのかねえ。平和を目指していようが世界征服だろうが、戦いを手段に選んだ以上はその点において等質だ。
 廃棄されるために戦い続けるマッハバロン。
 廃棄を願って父や祖父の形見ともいえるマッハバロンを駆る主人公。
 そのどうしようもない相剋のようなものを、こども心にも感じていた。
 だからエンディング曲のセンチメンタルな曲調には、どうしようもなく惹かれた。

 もし打ち切りの話がなかったら、どこまで物語はヒートアップしたんだろう。
 今さらのようにそう思う。