かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

報道に真実を求めるうちはまだ青い(2)

 えーと前回分はもうサイクリックで埋もれてんのか? まあいいやどっちでも。とにかく間が開いちゃったからざっとおさらい。
 人間は「ことば」を必要とする生き物だ。なぜなら人間は、自身のもつ、広い意味での情報を他者に伝える方法を、「ことば」以外にもたないからだ。
 人間は他個体と情報を共有することで“知”を育み、文明を築いてきた。そして“知”とともにあることが、とりもなおさずホモ・サピエンスという生物が“人間”となることの条件であり(ホモ・サピエンスとは“知恵あるヒト”という意味だ)、そして“知”を成立させるための唯一といっていいツールが、「ことば」なのだ。
 ──と、後半は本編よりわかりやすくなっちゃった気がするが、まあそんなことをつらつら書いたってわけだね。
 そして、こうも書いた。
「『ことば』によるコミュニケーションは、必ず完遂されない」

 それがなぜか、ということについてもざっと書いた。
 人間は「ことば」を介してしか他者と情報のやりとりができない。これ、「ことば」そのものについても同様だ。だから、ある「ことば」を説明するのには、他の「ことば」を使わなければならない。だが、他の「ことば」もほとんどは同様にして修得されてきたものであり、そして個々の理解の具合は「ことば」によってしか確かめられない。
 平たくいえば、不完全なツールで不完全な学習をする以外に方法がないもんだから、不完全はものすごい勢いで増えてしまうってことね。
 なにしろ人間は、どんな感動があっても、どんな怒りがあっても、どんな悲しさ楽しさがあっても、それをダイレクトに感動として、怒り、悲しさ、楽しさとして、他者に伝えることができない。一旦、自分の中の不完全な「ことば」に置き換えるしかない。でもってその「ことば」を聞く(読む見るその他とにかく受け取るということ)側は、聞く者の中の不完全な「ことば」でそれを再構築するしかない。
 これでは伝わりっこありませんなあ。
 具体例として挙げたのが、“青”という概念。
 単に“青”といったところで、あなたが考えている“青”の色味やそれに付随する印象あれこれは、他の誰かにそのまま伝わることはありませんよ、ってこと。
“青”と聞いて黒っぽい青を想像するひともあれば、明るい青を想像するひともあり、中には黄色がまざって緑に近い青を想像するひともあるんだよ、と。

 そういう不完全なツールだから、「ことば」は必然的に変わり続ける。
 より正確に、かつ効率的に情報を伝え合うために、「ことば」は磨かれ続ける。
 だから気がついたら、もともとその「ことば」が設定された時とはまるっきり違う内容を備えたものになってしまった「ことば」、なんてものもざらにある。
 これが「ことば」の組み合わせで成立する文章の類になったら、なおさらだ。
 しかし、「ことば」がその機能を果たすためには、厳守されなければならないルールが、ひとつ、ある。
 それはその「ことば」の示す内容を、複数の個を含む共同体が、大雑把にでも共有していなければならない、ということだ。それは陰画的に観れば、共同体が使用する「ことば」に対して、その共同体に所属する個は従わなければならない、ということでもある。

 これが前回に「取り決め」と表現したことだ。
 青といったら「波長435.8nm前後の光波が(人間の)眼によって捉えられた時に脳が感知する刺激」の意味にしよう、という取り決め。勝手に波長700nmの光波を青と表現してもダメよ、それ通じないのことよ……というお約束だ。
 これは奇跡的にも、「ことば」についてきちんと考えを巡らせた経験のない者たちの間でもほぼ堅守されている。というより、「ことば」について考えたごくわずかなひとびとほど、むしろ逸脱しがちだったりする。考えたひとたちは、相応に「ことば」に対して能動的であり、また考えるうちに(それを客観的に通用するかたちにまとめるか否かにかかわらず)「ことば」のルールを感得している。だから根本的にはそのルールに対しての理解が深く、多くの場合従順だ。従順だからこそ逸脱を楽しめるのでもある。
 しかし、ゆえに問題が生じることもある。
 要するに多くのひとびとは、「ことば」を考えずに「ことば」を使っている。だから自分たちが「ことば」で受け取っている情報が、その「ことば」を使用する共同体に属する個すべてに対し、完全に同じように捉えられていると思いがちなのだ。
 そんなこたぁない、というのは、ここまで読んでくればわかるよねえ。
「ことば」で伝えられることはむしろ少ない。といっても、それ以外に情報をやりとりするツールがないんだから仕方ない。ああ、もちろん今まで述べてきた「ことば」というのは、身振り手振りの類も含むからね。アイコンタクトだって立派な「ことば」だ。正確に意味が伝わるとは限らないという点も含めて。

 そう、本当にきちんと情報をやりとりしようと思ったら、まず「ことば」自体のより正確な定義から始めなければならない。だが通常はそんなことはしない。なぜなら、そういう手間を省くためにこそ「ことば」は用いられているからだ。
 たかが“青”ひとことのために、いちいち光波の周波数のことなんぞ言っていられないでしょ。だから“青”という。「からだの重心を主に前方へ移動させつつ倒れないよう均衡を保ちながら素早く脚を前後させることにより通常より早い速度で前進する」とか言うの馬鹿馬鹿しいから“走る”という「ことば」が準備される。だいたいが、上のカギカッコ内だって三歳児には多分意味不明だぞ。「じゅうしんってなあに?」「おもに、ってどういうこと?」「ぜんぽう?」もう大変。
 そもそも不完全な「ことば」を重ねて「ことば」を編もうってんだから、そりゃあどんどん意味不明にもなる。
 だ・が、きちんとやりとりすべき情報については、やはりそこで使われることばのしっかりした定義も必要になるんだねえ。
 右派左派いうが、じゃあどういう考え方・行動様式をもつ者が右派で左派なんだ、とかね。なんとなーくの雰囲気右派と、ゴリゴリに理論武装したガチ右派と、さらにはさまざまな条件を消化吸収吟味再構築した上で採った行動が右派とみなされた結果論右派とでは、みんなそれこそ違う生物だといってもいいぐらい違うしな。
 だが、繰り返しになるが、普段はそんなことは考えない。
 だからしばしば情報は、誤ったかたちで伝達される。中には意図的に誤解を誘導するような伝え方もある。
 それらを憂う時、その憂いを語ろうという時、まず最初にしなければならないのは、情報収集でも物証確保でもない。
「ことば」の厳密な定義だ。
 少なくとも自分自身が考える時点で、自分の考えをより的確に表せる「ことば」を探し、適合するものがない場合は既存の「ことば」に厳密な定義を加えて、思考や論の揺らぎ、不鮮明を排除する。そしてよりくっきりとした内容を組み立てる。
 それをしなければ、くっきりとした考えなんか金輪際できない。

 よくあるバカな問いに「男と女の間に友情は成立するか」なんてのがある。
 この問いかけに対しては、まず「男」を定義する必要があり、「女」を定義する必要があり、「友情」を、「成立」の条件を、また「間」とはどれほどの距離のことをいうのか、全部ぜーんぶ定義しなくちゃならない。そうしなければこの問いかけは、そもそも問いかけとして成立しないのよ。今までこの問題にひっかかってたひと、つまりはそーいう問題です。その点から考え直すといいよ。

 だが、ここでひとつの、そして圧倒的な矛盾が生じる。
 ついさっき書いた。「ことば」は、その示す内容が、複数の個を含む共同体に、大雑把にでも共有されるものでなければならないと。
 しかし個が個としての思惟を深めるために「ことば」を再定義したら、それは共同体に通用するものではなくなってしまうのではないか。
 そうなったらそれは「ことば」ではないのではないか。

 然り。それは「ことば」ではなくなってしまう。

 共同体の中で、異なる個と個の間の情報のやりとりのために生み出され、育まれてきたのが「ことば」だ。だからそれは、異なる個と個の間に共有されるものでなければならない。だが、ひとつの個がその裡での思惟を深めるために、その個の都合がよいように「ことば」を再定義したら、それは共有されるものではなくなってしまう。それは「ことば」と呼ぶことのできないもの、別のなにかになってしまうわけだ。
 もちろん、ひとつの個の中に設定された異なる立場、テーゼに対するアンチテーゼとして設定されるようなもの、それぞれを独立した個と見做し、それらを含む個すなわち思惟を押し進める個をひとつの共同体を考えることはできる。だがそれはあくまでも見做しに過ぎないわけで、物理的にも異なる個の集合から始まる共同体そのものではない。である以上は、ひとつの個が再定義した「ことば」は、一般的な意味での「ことば」と考えるべきではない。
 もしそういう再定義を「ことば」に通用させたいのなら、その時には、先立っての再定義の表明と解説が必要になる。

 それは、たとえばひとつの文章、一冊の本、ある限定された時間内のみに通用するという限定つきでもかまわない。演者が講演に先立ち、「これから一時間半ほど私の話におつきあいいただくわけですが、まず最初に申しあげておきたいことがあります。それは、私が“青”と言った時には、みなさんには波長が700nmの光波を想起していただきたいということです」っていいだしたら、まあこれはこの場限りのこととして受け容れざるを得ないんだな。納得のゆかない者は、席を立ってよい。ただこの演者、もしかするとものすごくおもしろいことを話し始めるのかもしれないぞ。それをふいにしてもかまわないなら席を立っていいよ、ってことね。興味のあるひとは残るのがいい。俺は残るぞ、こんなとんでもないことを言い出すひとがどんなことをしゃべるのか、すげえ気になるから。

 まあそこまで極端ではなくとも、あるまとまった思惟を表明する時、それをできる限り正確に伝えたければ、頻繁に用いられる語については定義をしておいた方がよい。
 だいたい辞書の類を見ても、意味がひとつしかない語ってのはむしろ少ない。使われる状況によって正反対の意味を含む語や、慣用的に逆の表現を使う言い回しもある。
 そういう語が誤解を生まないように、その場のみの限定つきで、語の意を定義することは、特に観念的な話題を展開する時には重要なことといえる。余談だが、哲学方面でわかりにくい論が多いのは、こういう定義がやたら多いからだ。そういう定義抜きでは成立しない厳密で奥深い話題を扱うからこそ、哲学としての体をなすともいえる。

 さてそこで、ここからがやっと本題なんだ。
 でも疲れたから、それはまたそのうちということで。
(でもって実は、その本題ってのは、すっげえ簡単なことだったりはするのよね)


追記;
 後日に続きを書いてます。
 置き場所は以下の通り。

報道に真実を求めるうちはまだ青い(3) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
報道に真実を求めるうちはまだ青い(4/了) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

 前編はこちら。

報道に真実を求めるうちはまだ青い(1) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』