かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

報道に真実を求めるうちはまだ青い(3)


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※過去の記事※
2014-09-19 報道に真実を求めるうちはまだ青い(1) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
2014-09-26 報道に真実を求めるうちはまだ青い(2) - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
 できればご参照くださいませ。
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 さてそんなわけで、そろそろ本題に入る。
 入る前に、ちょっと確認しておかなければならないことがある。
 それは「真実」と「事実」の定義だ。

 広辞苑で調べると、真実とは「うそいつわりでない、本当のこと。まこと。」とある。事実は「事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄。」だ。
 これだけを見ると、両者の間にさほどの違いはないように思われる。ただし、真実の方が形而上的な条件であるのに対し、事実の方はその条件が適用される現実のこと、ある意味形而下的なものともいえることのような感じだ。
 だがここでは、大胆にも敢えてその意味をはっきりと分けてしまう。ただしその分け方は、俺が勝手に決めたものだ。だから世間一般で通用するものではない。とはいえ、シンパシーを感じるひとは少なくないものと思う。

「真実」とは、あらゆることがら──形而上下を問わずあらゆることがらが含む、最も重要な“意味”のこと。
「事実」とは、実際に起きたこと。
 それだけ。

 それだけとはいったが、これけっこう難しいことなんだよ。
 この定義における「真実」は、意味だ。だがひとつの「事実」が含む意味は通常多岐に渡る。条件として最も重要なというものを付帯させているが、じゃあなにが最も重要かというと、そんなの誰にもわからない、というより、誰でも好きなように決定できるんだ。
 たとえば、殺人事件が起きたとしよう。これはひとつの「事実」だ。じゃあその事件の「真実」とはなにか。殺された当人にとっては、命を奪われたことかもしれない。だが命を奪われるということの意味はひとによって異なるはずだ。不治の病に冒されて明日をも知れず、かつひと呼吸ごとに激烈な痛みを肉体に覚えるひとだったら、死によりその懊悩と苦痛が解消されることは、救いになるかもしれない。だが同じ病に冒されていても、そう遠くない未来に必ず治療法が開発されると信じ、今の激痛や死への恐怖を克服すると決意しているひとにとっては、希望を奪われる最も残酷な仕打ちかもしれない。あるいはまた病のないひとが被害者であって、しかも若く、洋々たる前途を打ち切られた悔しさが命を奪われたことの意味かもしれない。やはり若く健康であったとしても、諸事情により生を紡ぐこと自体が激しい責め苦のようなひともあるだろう。そういうひとにとっては、殺されることは甘受し得る福音であり得る。
 以上は殺された当人にとっての「真実」の例であって、他にもさまざまな「真実」が当人にとっては存在し得る。だが殺人事件ともなれば、加害者被害者だけではなく、被害者の遺族や加害者の係累、血縁・姻戚関係になくとも深い関係をもつひとびともあろうし、その殺人事件によりさまざまな影響が周囲のさほど関係の深くないひとたちにもたらされる可能性はある。
 それらすべてが、その殺人事件の「真実」なのだ。

 事実はひとつ。ある特定の誰かが殺されたこと。
 だがその件の意味は、すなわち真実は、複数ある。
 そしてどの真実も、それを真実と感じる当人には、動かしがたい真実なのだ。

 俺の定義するところの「事実」と「真実」の差を、ご理解いただけただろうか。
 理解できん、と思う方はあるだろう。そういう方には、この先の話は無意味なので、特段読んでくださらずとも結構。いやふんぞり返って「帰れ」っつってるわけではないのよ。この定義を理解できないのであったら、先を読んでも当然理解不能なので(つまりすでに述べた「不完全なツールによるコミュニケーション」が展開するので内容の伝達という目的は間違いなく完遂されないということ)、そんな無駄な時間を設ける必要はありませんから、別の有効なことに時間をお使いください、ってことなのね。時間は限られているものなのよ。無駄と最初からわかっていることに割くこたぁない。そんな暇があったら、好きなことした方がいいよ。
 理解はできるが納得はできん、という方もあるだろう。そういう方は、できれば見て「あーそういうこと」程度には思ってくださったらよいかと思う。
 なるほどー、と思ってくださった方には、是非とも読んでいただきたい。
 で、ここでようやくタイトルへ戻るのだ。

『報道に真実を求めるうちはまだ青い』

 ねえ。
 もう結論は出ているでしょう。

 報道の使命とはなにか。
 広辞苑的に語を解釈するなら、それはきっと「真実を伝えること」なのだろう。「うそいつわりでない本当のことを、受け取る者に伝えること」だと思う。
 だが、それが嘘や偽りでないと決めるのは誰なのだ。
 理想的にはそれは、情報の最終的な受け手なのではなかろうか。
 新聞や雑誌なら読者。テレビ番組や映画なら視聴者。ウェブの場合は……なに者なんだろうね。閲覧者ってことになるのかなあ。
 とにかく、その情報に触れその情報に何らかの感慨をいだく者。
 そういう者たちが、情報の意味(真実)を決めるのが、望ましいことなのではなかろうか。

 念のため「報道」の広辞苑的解釈を紹介しておこうか。
 それは「社会の出来事などを広く告げ知らせること。ニュース。」となる。
 これについては再定義の必要はない。充分だ。
 強いてこだわるなら「社会の規模や範囲」「出来事の条件」「広く、という語の客観的な規模」「知らせる内容の量」などを定義してもいいんだが、今はねえ、さすがにそこまでガチガチに固めてもねえ。面倒になるだけだ。

 報道は、出来事を知らせることであって、その出来事の意味や価値を論じることではない。いわゆる5W2H、when・where・who・why・what・how・how much の情報だけを提供すればいい。上のような殺人事件についてであれば、「某月某日、某県某市在住の某A氏が自宅にて、某B氏により刃物で刺され死亡しました。現在までの当局の調べによると某B氏は某A氏に多額の借金があり、その返済が難しくなったため某A氏を殺害することにより事態を終結させようと図ったものとのことです」以上で終了だ。某A氏や某B氏の“評判”だの“人柄”に言及する必要はないし、また借金の実際の有無や額については報じてもよいかもしれないが、それを多額とするか少額とするかの判断をする必要はない。それは情報の受け手が考えればいいことだ。
 然るに、現在の報道というものは──というより、メディアに利益をもたらすための素材としての報道というものは、常にそこへ言及することによりむしろ存在意義を得ている。つまり付加価値により儲けを出そうとしてるってことだ。
 そりゃそうかもしれないよなあ。ただ「あったことを伝える」だけだったら、報道機関はひとつでいい。新聞が何紙もある必要はない。そこに報道各社(者)ならではの情報の“解釈”や“紹介法”があるからこそ、媒体は複数発生するのだし、それを求める贔屓の面々も登場してくるわけだし、対立する者(媒体)も現れて、経済活動やロビイングが活性化するんである。

 だが、敢えていう。
 報道が出来事を知らせることであるなら、そこに「真実」がある必要はない。「事実」がありさえすればよいのだ。というより、「真実」を混ぜ込んだら、それはもう報道ではない。創作である。

 もちろん創作には創作の価値があって、それは人生を何倍も楽しくしてくれるものだ。人間ひとりが直接に知り得る(≒体験し得る)情報は限られている。人間の能力はまた限られているから、以下同文。それらを増幅してくれるのが、創作というものだ。ひとりの限られた人生を何人分にもしてくれる、時には人間以外のものとしての経験のようなものまで与えてくれる。それが創作のおもしろみであり、価値だ。いや「真実」といってもよい。
 だが、報道がすべきは、そういう娯楽をつくりだすことではない。
 世に起きた「事実」。それをストイックに、できるだけ余分の枝葉を取り除いて伝えることだ。でなければ、世になにが起きたのかを多くのひとは知ることができない。そのひとが実際に行動し得る範囲のことしか知ることができなくなる。それでは“世界”が狭くなる。上記とは別の意味で、人生の“量”が少なくなってしまう。

 ……と、ここまで書いたら今日の気力は尽きました。
 もうほとんど結論まで出てるんだけど、あと一回ぐらいこの件については書く。
 じゃあ、また。