三浦しをん『光』読了
友人から『まほろ駅前多田便利軒』のドラマがおもしろいと聞き、ヒネクレてドラマを見ずに原作を読んだのがいつだったか。
その時、大興奮した。「は、ハードボイルドじゃんっ」と。
思わず天を仰ぎ「小鷹先生ッ、日本のハードボイルドの夜はまほろ駅前で明けてましたッ! いやもしかしたらもっと以前にこの作家氏の中で鮮やかに明けてましておめでとうございますッ!」とか心の中で叫んでいたよ。
先日少々の事情があり文庫本を買わねばならないことになって、そしたらということで三浦しをんの棚の前へ。で、ざっくり手にとって「ん、これ!」と思ったのが『光』だった。
読み始めてずっしりきて、いろいろ事情も重なって、なかなか最後まで進めずにいたが、今日ようやくタイミングを捕まえて一気に後半三分の二を読み切った。
感慨深い。実に感慨深い。
やはりハードボイルドだった。
ハードボイルドとはなんぞや。
いろいろな意見はあるが、俺はそれを自覚的なセンチメンタリズムと諦観に裏打ちされた“美学の追求”だと思っている。
美学なんてことばを使ったが、それは必ずしも美しいものではない。単に、信じたことをとことんやりきる、という捉え方で構わない。そして、信じる内容は必ずしも雄々しいものではないし、やりきるといってもそこに達成感があるとは限らない。それしかできないからやり続けるのも、やりきるうち。
そして、ここ大事なんだが、やってる当人がそれを自覚している。
これなんにもならねえな、とわかっている。わかっているが、やめるわけにゆかない。楽しいから? 違う。それしかやり方を知らなかったり、それ以外のやり方はなおさらダメだったりするから、結局それでやるしかない。やめればいいじゃん? そうもゆかない。やめたら死ぬより始末が悪い。でも死ねないから、やるしかない。
そういうどうしようもない袋小路に迷い込んだ存在意義の捉え方がハードボイルド。
そしてそれは、虚無とは違う。
もちろん虚無とセットで扱われる場合もあるが、それはハードボイルド+虚無というかたちであって、ハードボイルドが虚無を含んでいるわけじゃない。希望を含んだハードボイルドだってある。
三浦しをん作品には、そういうハードボイルドのスピリットがある。
多かれ少なかれそういう面は万人が備えているが、自覚的であるとは限らない。自覚しないとハードボイルドにはならない。なったからといっていいことがあるわけじゃないが。
そういうハードボイルドに裏打ちされた“暴力”は、常に激痛を伴う。だがその激痛は、激痛であるのに生を感じさせない。痛みはたいがい反作用で生を感じさせるものであって、痛みゆえに生へのベクトルがいや増すのが正しいかたちだ。三浦しをんの“暴力”は、でも、生へのベクトルを発生させない。屹立した痛みだけがある。だからなおさら、やりきれない。そのやりきれなさもまた、ハードボイルドだ。
なんかね、信じられない……といったら失礼なのだろうけれど、そういうパサパサの黄身を描けるのが女性だってのがね。やっぱり信じられない。
翻って男ときたら、半熟だよねえ。なんかまだ黄身が湿気を保ってるよ。屹立する痛みどころか、殴打の場面があっても口の中に血の味、鉄の味が湧いてこないし、殴った拳の痛みすら感じられなかったりする。棒でひとを殴ったって手が痺れるんだよ。その痺れを感じさせない暴力描写なんて、意味ないよ。半熟だよ。
なぜ彼女がそれを描けるのかはわからないけれど、ひとついえるのは、おそらく彼女は見てしまったんだろうなあということ。見て、負けなかったんだろうなあということ。
見て負けたらハードボイルドになれないし、見なかったらなおさらだ。
そこから編まれた物語は、ずっしりと重い。
え。
『光』のこと全然書いてないって。
ん、でもこれが俺の感想です。『光』の感想なんです。
強いて加えるなら、すべてが陰画で描かれていて、作品全体に最も足りないのが「光」だということかしらん。だからこの作品に光を加えれば像は初めて立体化する。
その光は、作中人物たちが決して自力では得ることができないもの。なのになぜか知っているもの。ゆえにこそ最も足りないもの。
だから作品は終わらない。終わらないからこそ『光』というタイトルを冠するにふさわしい。そういう作品だと思います。はい。