かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

ダイゴを越えて(長野 博の結婚に思う)

 わりと風がおさまった感じなので今さらながら。
 なお文中敬称ぜんぶ略。ご了承ください。

 名作との評価が高いウルトラマン平成三部作のスタートを切った『ウルトラマンティガ』、その主人公マドカ・ダイゴ役を演じた長野 博が結婚した。
 ニュースに接した時にまず思ったのが「え? ダイゴまだ結婚してなかったんだっけ?」。
 映画『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』でのヤナセ・レナ(演:吉本多香美/黒部 進の実娘)との結婚式のシーンや『ウルトラマンダイナ』での家庭人としての姿が妙に印象的だったからかもしれない。(※なお吉本は2010年に再婚しすでに一児の母)
 特にダイナでの、レナとの家庭シーンの似合いっぷりといったらなくて、単に夫なだけでなく父としての佇まいも堂に入っていた。
 ティガは1996〜1997年の作品だから、もう二十年前のものとなる。それなのに今なお長野=ダイゴという観方をするのは、現役の芸能人として活躍を続ける長野に失礼に思えて、少々気が引けてしまった部分がある。
 だがティガはどうしたって名作だ。それを成し遂げたという点から考えれば、ダイゴから見る長野像というのも、まあ失礼には当たらないか。そう開き直ることにした。

 なにしろティガは素晴らしい作品だからねえ。
 その素晴らしさの土台は、最初のウルトラブーム(昭和四十年代≒1960年代後半頃)をリアルタイムで経験してきた(はずの)スタッフの“ウルトラ”に対するリスペクトや意欲だったろうし、進歩した“特撮”の技術でもあったろう。
 そしてその素晴らしさは、ウルトラをリアルタイムには知らない(はずの)長野の、新鮮でありながら王道を踏まえた演技にも、おおいに因っていると思う。

 ティガの設定はティガ以前のウルトラマンとは大きく異なる。
 ウルトラマンティガはM78星雲という“異世界”から訪れた救済の超人ではなく、地球にかつて存在した強大な力、忘れ去られていた身内の力というものになる。
 ダイゴはいくつかの要因からその力を得ることになり、超人になってしまった自分に戸惑いながらも、その力を今いる人類のために使い続ける。
 かつてのウルトラメンは、いわば神だった。
 人間とは根本的に違う存在で、確かに弱いところもあるが、けれど最初から特別だった。
 一方ティガは逆で、根本的に人間であり、だから弱くて当然な部分がある。
 ダイゴというキャラクターは、それをはっきりと打ち出していた。

 初回で飛び出してきたダイゴは単に愚直な若者であり、見ていて「あーあ、またこういう主人公かよ」とうんざりしたものだが、二回めから早くもかつてのウルトラメンとは違う存在感を漂わせた。
 回数が重なるごとにダイゴは、ただの無垢な若者から憂える青年へと変貌してゆき、最終回頃にはその悩みもすべて吸収して立つ男になる。
 この成長を、長野はまさに全身で演じ、表していたと思う。
 初回のシナリオを渡された段階で、長野にどこまでのインフォメーションが与えられ、どこまでのプランを建て得たかはわからない。けれども結果としてティガはダイゴの成長譚となり、長野はそれをはっきりとかたちにした。
 わずか二十歳そこそこの青年の仕事としては、ものすごいものだと思う。
 資料をざっと見ると、V6のメンバーとしてのアイドル活動も並行しておこなっていたとのことで、なのにあれだけの成果へ至ったというのは、たやすいことではないはず。
 驚いてしまう。

 ティガという作品には、過去のウルトラメンのシチュエーションをアップデートしようという意欲もあったように思う。
 新たにつくるからには、過去のどのウルトラメンよりも素晴らしい作品にしなければ意味がない。また、過去に描ききれなかった部分は、より明確にしてゆこう。そんな意欲。
 たとえば『ウルトラセブン』終盤にクローズアップされる、モロボシ・ダンと友里アンヌのラブストーリー。これは当時の状況では金色夜叉ばりの振り切りで決着させるしかなかったようだが、ティガの当時なら違う。
 ティガでは、ダイゴとレナの関係は通奏低音のように物語へ織り込まれ続け、最終エピソードから続編である映画やダイナにまで影響してゆく。
 やはりセブン最終回での、ウルトラ警備隊+クラタ隊長とセブンの関係性――それまで謎の超人だったセブンは“仲間”のダンだったと知ることで、以後警備隊の面々はセブンをセブンとは呼ばず、ダンと呼びかけることになる――もまた、ティガではより濃密に描かれる。
 ずっと根本的な疑問としてあった「なぜ地球ばかりが」という問題について、クトゥルー神話(の発想)を持ち込むことである程度の必然性をもたせたのもティガの功績のひとつだろう。
 それらは、特にプリプロダクション担当者たちの意欲であり成果だと思うが、やはり長野の力演によって初めて地に足をつけたところがあると思う。
 長野ダイゴというキャラクターと、GUTS隊員たちの交流があればこそ、特に終盤のたたみこむ展開が活きてくる。
 あの、初期には頼りないが妙に懐が深く、終期には優しさをより膨らませたまま責任を全うする長野ダイゴの姿があってこそ、あのかたちでのエンディングが説得力を備え得たのだろう。

 そして、そのエンディング。
 GUTSを頂点とする“おとな”たちは、邪神ガタノゾーアの脅威により力を失ったティガを蘇らせようと挑み続ける。しかし、おとなゆえの論理性によって敗北を受け入れようともする。その時にもたらされる、まったく異なる“光”。
 その“光”の正体を知り、その光へ手を伸ばし、受け止め、光をもたらしたものたちの依代として再起するティガは、すでにウルトラマンではなかったと思う。
 あれは、マドカ・ダイゴという個人だ。
 そしてそのダイゴは、長野だ。
 長野ならではのダイゴが、あの“光”の奔流を宿す依代となった。

 考えてみればダイゴは、ウルトラマンティガという“力”の依代だった。
 最終回でティガという力は“光”の依代となり、邪神を退けた。
 その土台にあるものはといえば、ダイゴの依代となった長野だ。
 長野があってダイゴが存在し、ダイゴが存在してティガがあり、ティガがあって初めて“光”が集まる。
 なんとまあものすごい重責を、長野は負わされていたことか。
 けれどそれが達成されていたからこそ、長野の結婚を祝福するティガファンがいるのだと思う。それが失敗していたら、誰も祝福の思いなど抱きはしない。
ウルトラマンティガ』という作品を象徴するに足るものを、長野はその身に宿したのだ。

 あのエンディングで“光”を、というよりは“光”の源を全身で抱き留めたダイゴは、輝く存在となった。決然と“光”へ手を伸ばすダイゴは、ひとりの人間であり、だからこそ力強くなれる存在だった。初回の、ただ優しいだけの若者が、あれほどに力強い顔を見せてくれた。優しさや希望は力になり得る。それを体現してくれた。
 今そのダイゴを生み出した長野に思うのは、その再現と、それを越えること。
 あの“光”が、どうか再び長野に訪れますように。
 それを長野が受け止め、慈しみ、また育んでくれますように。
 それが実現したら、長野は確実にダイゴを越えるだろう。
 そういう充実が、彼に訪れてくれますように。
 その充実が、周囲に再び“光”となって心を励ましてくれますように。
 お節介であり勝手至極な思いであることはわかっているけれど、ついそう望んでしまう。
 ティガは、ダイゴは、長野 博は、新たな時代を興したヒーローだから。

 そして当然ながら長野本人が、それをひとりのひととして充分に慈しめますように。
 もし叶わなかったとしても、長野は、長野の家族は、幸せであることができますように。
 彼らの幸せは、きっとティガを愛するひとびとの幸せでもあると思う。