世の中には二種類の
相変わらずよく見かける言い回しに「世の中には二種類の人間がいる」というものがある。
そのあとに、正と反の内容をもってくる。
たとえば「たばこを吸う人間と、たばこを吸わない人間だ」という具合。Aと非A。大変に単純でわかりやすい。
分ける規準はもう本当にいろいろで、例示したような大した意味もないものもあれば、人生の深淵に触れていそうなものもある。
なんでも条件をひとつつくってしまえば、go and no-go で“一句”詠めてしまうわけだから、これはもういくらでも出現し得る。
これ出典は誰かのハードボイルド作品じゃなかったか。おおもとは違うとしても、拡散の端緒はそこら辺のような気がする。タフでクールな探偵さんがコートの襟を立て鍔広の帽子を目深にかぶって無表情に言い放ちそうじゃないか。
若い頃は、俺もこれがけっこう好きだった。
そう、若い頃は。
この俺が若い頃にさえ、これはすでに定番の言い回しだった。
古い。相当に古い。
そして今なおしばしば見る。ものすごい定番。
もう学校の国語の授業で教えてもいいんじゃないか。修辞法として。「反語」とか「反復」「倒置」やらと並べて「二極化」。生徒たちに例文づくりをさせたら、相当おもしろいものが出てきそうだ。
この二極化の言い回し、二十代後半頃に一旦キライになり、軽蔑を経て大嫌いになったが、最近はぐるっとまわってまた好きになってきている。
キライになった理由はごく簡単。
「人間そんなに単純じゃなかろうが」
これに尽きる。
実際、結果的に人間はそう単純なものでもなく、ある限定された一件についてですらなかなか単純な二極には分かれ得ない。
結果的に、というのは、しかし実は根本的には単純だからだ。ものすごーく根本的な部分において人間は、確かに yes-no のかたちでしか判断を下せない。だが、その 1 or 0 の“スイッチ”が、ものすごーく多段に重なっているのが人間なのだ。
たかが「あー尿してえトイレ行くかー」と決めるだけのことでも、どうかすると何万段のスイッチが、生理的な信号発信手前の段階からある。だから最終的には、トイレへ行くか行かないかの決着があるにしても(てゆかだいたい行くんだが)、その過程は単純な二極では量れないものになる。そしてその過程こそが、人間そのものの姿なのだ。
「いや分かれ得る、少なくともオレは分け得る」ってやつもいるらしい。だが、そういうやつを俺さまは“人間”と認めない。ちぱっとでも例外則がない人間なんているものか。もしいるなら、それは形而下的には人間に分類されるものだとしても、形而上的に人間として不足している。未満のヒューマノイドだ。
こういう言い回しが好まれるのには――そう、この言い回しは好まれている、おそらくは俺の誕生以前から、それもずっと以前から、今に至るもずーっとある以上は、これは好まれる言い回しなのだ――、当然、理由があるはずだ。というより、ある。
俺自身が好きだった頃のことを考えれば、少なくともその理由のひとつぐらいは挙げられるんだからね。必ずしも一般的ではないにせよ、という話だが。
では、なぜ好まれるのか。
それは、「情報が多すぎる」からだ。
世界のさまざまなものは、山ほどの情報を備えて存在している。
情報という語の定義にもよるが、「そのものが備える事情」をとりあえず情報と定義したら、道端の石ころ一個にだってさまざまな情報を見出せる。
たとえば、ぱっと見た感じの情報がある。丸いのか、角張っているのか。色は。大きさは。手に持てば、重さや感触もわかってくる。分析を必要とする情報もある。鉱物学的にはどんな組成であるのか、など。“歴史的”アプローチもアリだ。ここに至るまで、この石はどのような経過を経てきたのか。
そして、なぜ今ここにあるのか。
石ころ一個ずつでさえそういう情報を備えて“ここにある”。
世の中にある、ありとあらゆるものが、それぞれにそういう情報を備えている。
そして一方、人間というものは、根本的に情報で生きている。
見る聞く触れる嗅ぐ味わう、そういう行為は、すべて情報摂取のためのものだ。なぜ情報が必要なのかといえば、それが存在(生存)にかかわる重大事だからだ。
ごく原始的なことをいえば、自分という生体の維持に必要な物質(たとえば食料)の放つ“におい”や、自分を滅ぼす敵と見做し得るなにかの“気配”。それが、情報だ。そういったものを検知するのが生体の備える感覚器の使命であり、そこから得られた情報に対して“正しい”行動を採るために=判断を下すために必要なゲージ、それもまた情報だ。
さらに人間は、感覚器およびそこからもたらされる感覚をより広い範囲に応用し、形而上的な“価値”を生み出すことに成功した。今や人間は、形而下の部分より、形而上の部分において情報と接している。
わかりにくいかもしれないが、まあ要するに「人間とは、情報を食い、情報に脅かされて生きる生物である」と思ってくれればそれでよい。
だが、上記の通り石ころひとつにも情報は詰まりに詰まっているわけで、これが生物となると石ころを遥かに上回る速度で刻々と変化する、すなわち情報を更新してゆく。今そこにいた虫があっちの方へ移動した、それもまた情報の更新だ。
対象が虫ではなく人間、つまりそれ自体が情報の塊みたいな存在なら、なおさらだ。そういう人間に囲まれ、また囲まれていないと生きられないのが、人間という生物なのだ。
さすがにこれは情報過多。首まで埋められ給餌されるフォアグラの鴨より食い過ぎ。
だからどこかで情報を大幅に整理しなければならない。
それには単純化が最も手軽かつ強烈に有効。
そこで、二極化により分類する。
溺死するほど大量の情報も、これでスッキリとコンマリできるってわけだね。
だから若い頃には、一度好きになった。
若い頃には、本当にいろいろな情報があったからね。
いや今もあるんだけどね情報。いろいろと。
でも、若い頃の情報と今触れるそれは、質や意味が違う。
若いということは過ごしてきた時間が少ないということで、また情報の摂取には必ず時間が必要だから、当然の理として、若い頃には摂取済みの情報が少ない。一方、一度摂取した情報は記憶とか経験と呼ばれる“記録”になり、次に同様のものに遭遇した時には、その記録から目前の状況への対応その他を推断できる。
まだ記録が少ない若いうちには、多くの情報との遭遇がいちいち初めての体験であり、それへの対応もその当座にいちいち考えなければならなかった。当然、整理も理解も追いつかないし、対応が必ず満足できるものになるわけでもない。
だから若いうちは、情報への対応がえらいことになる。これがつまり「若い頃には、本当にいろいろな情報があった」という感覚になるわけだ。
まあとにかく、若い頃には、さまざまな情報のとんでもない濁流のさ中にあった。
だから、簡明な情報処理法がほしいと願った。この濁流を、葦の海に至ったモーセのごとく、スパッと切り分け道を拓き、すたすた歩いてゆく方法はないものか。
それで、二極化におおいに惹かれた、というわけだ。
そう、簡明な情報処理法がほしかった。
多くのひとが、そういうものに惹かれているのだろう。
「人間には二種類ある」に限ったことじゃない。ほかにもいろいろあるでしょ、簡単明瞭な対人的情報整理法って。
定番「十二星座占い」。いつ消えるか絶滅するかと思い続けて幾星霜、今なおしぶとく残る「血液型占い」。占星術とは似て非なる「誕生月占い」。四柱推命大殺界いわゆる占い系全般から、経済学や法学、政治学の類もある意味では情報整理のハンドブック。近年では「系」ってのもある。シブヤ系とか複雑系とか(古ッ)、意識高い系とかもそう。
ああいうものは、向かい合った人間から得られる情報群を素早く処理するための方法であって、早い話が「目の前の相手について素早く分類と対応を済ませたいから、拝借した知識でなんとかしよう」というものだ。
真っ正直にやるのなら、目前の人間という情報塊を、自分が蒐集してきたさまざまな記録と照合し、さらにたった今提示されている新たな情報群を即座に分析・分類し、既存のファイルがなければ新たなファイルを作成して……という段取りをきっちり踏むべきなんだが、そして本来はそれ以外に方法はないはずなんだが、追いつかない。到底無理。
だから、ほかの誰かがやっといてくれた分類で済ませる。
二極化は、そういうやり方のひとつだ。
特に異なる点はひとつ。それは「自分でも簡単につくれる」ということ。
誰かがやっといてくれた分類をいちいち記憶しなくとも(十二星座の基本的性格を全部憶えるのってけっこう大変だぞ)、自分で勝手に線を引ける。
もちろん誰かが言っていたことを借用する方が早いし楽でもある。二極化分類法は、ひとつずつを簡単に憶えられるから、容易に手札を増やすことが可能だ。
だから二極化分類法は、多くの人々に愛されることになるのだろう。
だが、ある程度まで自分の記録が整ってくると、二極化では物足りなくなる。
自分オリジナルの細かく精密な分析・分類法が出てくるし、なにより自分の中に二極化できないものが山ほど出てきてしまい――いやそれは若い頃からなんだが、そしてだからこそ「よくわからない自分」をどうにかしたくて短気を起こし二極化に逃げ込んだりするわけだが――、二極化の圧倒的な“足りなさ”に苛立ってくる。
それでキライになり、さらに「なんだよまだそんなものに頼っているのか」と軽蔑が生じ、さらにそんな貧弱なやり方で量り量られることが腹立たしくて、大嫌いになった。
それが俺の経てきた流れ。
だが、そういう時期からだいぶ経った今になってみると。
「これはこれでおもしろい」
そう思えるようになってきた。
ふたつに分けるための条件なんて、冒頭でも書いた通り、それこそ無限にある。
対象が人間であれば、(ごく物理的な意味で)「男か女か」がある。自分を真ん中にすれば「年上か年下か」「背が高いか低いか」、「ヒゲが濃いか薄いか」なんてのがあってもいい。体重もアリだな。指の長さに足のサイズ、虫歯の本数、持病の有無……これ以上並べても意味がないからもうやめるが、とにかく“基準線”なんか何本でも引ける。
だが、“お。これはおもしろい”と思える基準線は、それほど多くはない。
「世の中には二種類の人間がいる、オレより視力がいい人間とオレ以下の人間だ」とかいわれたって、ぜんぜんおもしろくないでしょう。だから、そういうのを敢えて言う人は少ない(絶無ではないが)(そして時おりそういうのがおもしろいこともあるが)。
なんらかの含蓄っぽいものを備えているように思えるものが、おもしろい。
要するに、「おー、そこに基準をもってきたかー」というのが、おもしろいのだ。
それはおよそ、その基準を提示した誰かの価値判断基準の顕現になっている。
たとえば「日々の努力ができる人間か、できない人間か」なんてのが出てくるということは、それを提示した当人がそれなりに“日々の努力”に対する関心をもっているということだ。それが肯定的な意味を含んだものであるなら、つまり日々の努力を評価するという価値判断基準がある、ということになる。
こういう価値判断基準が、二極化格言にはつきものになっているのよね。
ではその基準は、どこから出てきたものなのだろう。
いったいどういう経験や思惟があって、この発言に至ったのだろう。発言者は、この発言にどれだけの“荷”を載せたいのだろう。この発言は、自身を肯定の側へ置いたものなのか、それとも自身の現状を否定するためのものなのか。発言者は、これを発言することでどんな、どれだけのペイバックが得られるかきちんと計算したんだろうか etc.
いろーんなことを妄想できる。
おもしろいじゃあないか。
さらには、そこを含んだ上で、形骸化した二極化を遊ぶ、という手練も出てくる。
冒頭のたばこの例も、そのひとつと解釈できないこともない。
「つまり、世間の趨勢に合わせてたばこを吸わない者、それでも敢えて吸う者という分類ができるわけだよ。これは集団における個の確立において……」
とか出まかせ至極の話を散らかす、そのきっかけにするわけだ。
また、
「世の中には二種類の人間がいる。トイレへ行く人間と、行かない人間だ」
なんてのを投げ出し、「おいおいおい行かないヤツはどーなっちまうんだ」というダイレクトな笑いを引っ張り出すという手もある。
「いやこれがけっこう悪くないんだ、服がじわっとあったかくなって、そのあと急激に冷えてきて重くなって」
「おまえなんの話を始めた」
「てゆかいつそんなこと試した」
これもこれでなかなかおもしろい。
それが、ぐるっとまわってまた好きになった理由。
もちろん、というのもなんだが、ごくふつうの二極化の発言内容そのものには、なーんの意義も重みも感じない。はいはいそーですか、ふーん……という程度。
だいたいが、背景もろくにわからない相手の発言内容になんか、本来は吟味の価値もないんだよ。その手の発言ばかり何千も重ねているなら、それは点描画のように発言者の全体像を浮かび上がらせてもくるけどね。散発的に十や二十が並ぶだけではね。
なにより、そんな単純に切り分けられる程度の世界しか知らないようではね。
語るにも足りない。
だが、その発言にまとわりつく人間性、うしろに控えているだろう人間そのものの姿を妄想するよすがにはなる。そういう話。
真面目に情報の処理法を求める若者と、屈折の末そこに勝手な妄想をタカらせる老人。
双方にそれなりの満足を与えてくれるから、二極化の発言はこれからも延々と生み出され続けるんだろうなあ。
つまり、世の中には二種類の人間がいるんだよ。
情報に倦む人間と、情報を弄ぶ人間だ。