好きなことを語る時、ひとは雄弁になる。難しいのは、その時となりに誰がいるかだ。もしとなりにその話を──というよりは雄弁であることを、その意味を──理解し得るひとがいれば、語るひとは充実を得られるし、生の実感を得ることすらできるだろう。一方、そうでないモノがいた場合には、正反対、即ち空虚と存在の無意味を感じさせられることになるだろう。実際に充実しているか否かは問題ではない。どう感じることができるかだ。そしてひとりのひとの自身に対する自負は、そういう状況にいともたやすく左右されてしまう。だから昔日のひとは言ったのだ、友は選べと。