かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

富士山と天皇制と幸福の実現と

 俺の妹は富士山が好きだ。
 出先で富士山が見えると大はしゃぎ。もうこどもがふたりとも大学生って齢なんだけどね。特に富士山目的ではないが遠出したら偶さか見えた、なんて時にも、「富士山! 富士山! わー!!」って、手をぱたぱたさせて喜ぶ。
 でも、だからといって富士講に参加しようなんてことは考えない。多分、きちんと登ったことはない。
 なんかふわふわと、富士山というイメージを愛しているっぽい。
 ぶっちゃけ、この先の生涯で一度も富士山が見られないぞと宣告されても、そう嘆かないと思う。「そっかー、それは悲しいなー」とは言うものの、落胆のあまりげっそりしたり、日々に張りがなくなり幽霊のようになったりということはないだろう。
 それでも見えると「わー!!」と叫び、満面の笑顔となって、手をぱたぱたさせる。

 一方、今回の皇位継承での日本のひとびとの姿を見ていて思ったんだが。
 正直、いきなり天皇制が廃止されたとして、「もう生きる気力はなくなった」となるひとは少ないだろうと思う。でも、今回のようなことがあればうれしくなるし、気持ちが盛り上がったりもするわけだ。
 当の俺自身、日本の天皇家は好きで――特に昭和天皇の戦後の過ごされ方から現上皇今上天皇の佇まいなどはすべて好きで、それぞれひとりの“人間”としても尊敬している。だから今回のような、ご本人が天皇という立場もご自身の人間としての在り方も熟考された上で、周囲も力を添えた譲位の実現は、天皇制そのものや今後についての課題はさておき、感情的な部分で「よかったなあ」と思っている。
 おそらく多くの日本のひとびともそういう印象なのではあるまいか。
 そして俺の場合は、もし今後、現代的な社会の再構築などの過程で、やむを得ず天皇制が廃止されたとしても、強固に反対したり、“先生”のように殉じたりはしない。(もっとも“先生”だってそれは同様で、単にK絡みの人生に決着をつける言い訳に使っただけなのだろうけれども)
 多くの日本のひとびとも、そうなのではあるまいか。

 ……なんか似てね?
 妹の富士山愛好と、俺やその他のひとびとの天皇への敬意。

 もしかすると日本のひとびとは、昔からそういうのが得意なのかもしれない。
 はっきりとして強烈な動機に基づく、明らかな指向性をもつ意志ではなく、曖昧模糊としてさほどの強さをもたない、漠然とした意識。
 進駐軍が半ば苦し紛れの置き土産にしていった“象徴天皇”というスタイルを、彼らにもよくわからなかっただろうその実現の方法を、やんわりと受け入れ、自らのものにした……という印象が、突如として湧きあがったわけよ。
 そういう“漠然とした意識”、扱い方を間違えるとヤバいのは、昨今のいわゆる同調圧力と呼ばれるような外力に関するあれこれを見ていても歴然としているが、一方で「全員がそれなりの充実感を味わえるごく平和的な方向性」という部分も備えているようだ。
 ひとつの明確な目標を設定し、全員でうわーっとばかりに飛び掛かる「幸福の実現」とは対極にありそうな、なんとなーくの気分で、全員がそれとなーく納得できる「幸福の実現」。
 これってもしかして、ものすごーく高度な幸福なんじゃね?

 幸福に度の高低なんかがあるのか、といわれれば、「もちろん」と返す。
 ぶっちゃけ自分の充実だけを誇るような幸福が“よいもの”かといえば、まったく違うわけで、というより幸福には範囲というか順序のようなものがあるのね。幸福を認識するのは個で、個はほかの個とは連結できないものだから、畢竟、幸福だって個の満足に過ぎない。だがその個が、「食う寝る暮らすに不自由しない」を第一の幸福とした時、それが満たされたら必ず「周囲の近しい者の、同様の状態」を望むもんなのよ。自分の幸福実現の条件に、他者を繰り込むようになる。これの繰り返しで、幸福は実現するたびに新たな幸福を求め、それは必ず他者に波及する。「おまえの不幸が俺の幸福だ」なんてのは、現状不幸な者の一時的な感情に過ぎない。昔からいうでしょ、金持ちケンカせずって。金持ち(今の場合は「幸福が実現した状態」という意味)になったら、誰かの不幸を自分の幸福に盛り込むなんてことはしなくなる。もし、どこまでいっても他人の不幸がないと自分が幸福になれないというのだったら、それはその個のいきものとしての根本的な構築が破綻しているの。犬とねこだって生存が確実に遂行できる状態にあったらケンカしないんだからね。いきものはそういうもんです。まして、思考を積極的におこなえる人間においてをや。要するに個の内部の幸福は、満たされるに従い周囲を巻き込んでゆく。周囲の幸福を求めるようになってゆく。個の幸福の追求は、必ず周囲の幸福へ至る。周囲に至らないうちは、幸福としちゃ度が低いのよ。哲学的な話じゃなく、ごく身近で単純な話として。幸福にはそういう性質がある。

 ただ、そういう幸福を多くの個が実現してゆくためには、「単一目標うわー」では、どうしても難しくなる部分があるわけだ。
 その単一目標が無限に実現可能であるならともかく、たいがいは先着何名さままで、ってものだったりするわけでね。全員で分けたらこれっぽっちでした、とかね。
 周囲も巻き込みながらの幸福の実現には、「なんとなく、それとなく」が適しているんだな。さまざまな“価値”が物理的な規準に追随せざるを得ないのが事実である以上、物理的な限界はおのずと生じる。そこを埋めてゆくのが「なんとなく、それとなく」の判断と、それをおこない得る価値観や能力。然り、能力。
 その能力において、日本のひとびとは、わりと秀でているんじゃなかろうか。

 さきにも書いた通り、それが悪い方へ転べば、同調圧力として個の自由を極端に阻害する。だが、そこを認識して活用できれば、ある意味で無敵。
 宗教の類は、どうしても単一目標それーっのパターンに陥りやすい。そういう設定をした方が、多くのひとには理解しやすくなるからだ。その点、なんとなくそれとなく、を実現し得る“体質”をもっている者は、有利といえる。(あるいは神道ヤオヨロズという規模って、そもそもにそういう性質を備えているのかもしれない)
 妹の富士山愛好と、日本のひとびとの象徴天皇との接し方は、そういう体質のあらわれなんではあるまいか。日本のひとびとは、そうして幸福になる道に、相当近いところにいるんじゃなかろうか。本来は。

 まあでも、それが実現されるには、物理的な側面からもいろいろ解決されなきゃならないことが山ほどあるわけだけどね。
 それがもし解決されたら、その時に訪れ得る曖昧な幸福、それに対する満足度のようなものを育む決め手は、やはり「なんとなーく、それとなーく」であるような気がする。
 あくまでも現時点では思いつきの次元、なんとなーくそれとなーくの感覚に過ぎないんだけどねw
 以上、ちょっとした備忘録。