かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

創作物との対し方

「ご存じロロノア・ゾロは、三刀流! 両手に2本の刀を握り、口に1本をくわえて戦う。まことにカッコいい!(中略)しかし、素朴に疑問である。刀を口にくわえて戦うことなんて、できるのだろうか?」(『空想科学読本 正義のパンチは光の速さ!?』(角川文庫/2017 柳田理科雄 より)

 この手のアプローチを、ガキの与太話としてではなく相応の手間と時間をかけたおとなの仕事として最初に見たのは、『ウルトラマン研究序説』(株式会社中経出版)でだった。
 ウルトラマンについて、リアルタイムで放映を視聴していた世代の“学者”たちが、作品内のさまざまな疑問点について各種専門分野から(その時点での)“現実的”な考察・回答を提示するというもの。
 けっこうヒットしたと記憶している。調べてみたら1991年の刊行だった。

 その当時にはなんともいえない居心地悪さ(というかムカつき)を覚えた。
 その後に読んだ宝島社(当時はまだJICC出版局)の『映画宝島 怪獣学・入門!』(1992)の冒頭の一文で「『ウル研』は浅薄にも『怪獣』を、怪獣という生物として即物的にしかとらえていない」と一刀両断されているのを見るまで、しばらくもやもやとしたままムカつきを抱えていた。
 怪獣学入門のアプローチは、上掲の一文を初めとして「ウル研」(←怪獣学入門に倣った表記とするw)と対極にあるといっていいもので、その内容は今でもおおいにおもしろく刺激的だ。論者には赤坂憲雄や呉 知英、切通理作らをそろえ、取り上げた課題も「ゴジラは、なぜ皇居を踏めないか?」(赤坂)、「怪獣の名前には、なぜ『ラ行音』が多いか?」(呉)、「ウルトラマンにとって『正義』とは何か?」(切通)と、タイトルを見るだけでオオッときもちをそそられるようなものばかり。
「ウル研」が「未成年ホシノ君の雇用形態」とか「ハヤタはウルトラマンによる建造物破壊について刑事責任を負うか」「究極の往還機『ジェット・ビートル』の技術的ブレーク・スルー」といった題材を並べているのとはまったくアティテュードが違う。
 このふたつとの遭遇ののち、ひかわ玲子ひかわ玲子のファンタジー私説』(東京書籍株式会社/1999)を経て、俺の中での、創作についての概念が定まる。さらにそれが『攻殻機動隊』関連作品群を経て拡大され、個々が抱える現実そのものの解釈にまで至る。
 その過渡期で、わりとまだもやもやが残っているうちに書いたのが、俺の現時点での唯一の単著『ウィザードリィの秘密』(株式会社データハウス/1994)であり、だからそこには当然まだ結論が書かれていないのだが(書ける能力がなかったw)、まあそれはそれ。

 だから俺にしてみれば「ウル研」は、一連の私的思惟の起点のひとつともいえるわけで、その点において俺は感謝すべきなのだろう。また、赤星政尚らによる『(ウルトラ)99の謎』シリーズ(株式会社二見書房/1993〜)や『ウルトラマン仮面ライダー』(株式会社文藝春秋/1993)といった正統派のファン側からのアクションが活性化したのも「ウル研」の刺激があってのことだと思う。さらに赤星らによる昭和ウルトラの総決算ウルトラ『ウルトラマンメビウス』だってその延長上にあるといってよいのだろう。
 上記の作品群がどれだけ俺をたのしませてくれたかを考えたら、さらに俺は「ウル研」に感謝するべきだ。
 だが当時のムカつきは今なおさして変わることなくあり続けているわけで(さすがにもやもやした感じはすでにないがw)、あれはやはり“おもしろい本”ではなかった。
 柳田理科雄の一連の仕事にも、類似の居心地悪さを感じることがある。ムカつきに至ることはないが、それは柳田がそれだけ巧みに匙加減をとっているからだろうし、柳田自身の作品への愛情による部分もあるだろう。
『ゾロの「三刀流」やってみた』でも、微妙な違和感こそあれムカついたりはしない。柳田はわざわざ模造刀を買って咥えてみるという、からだを張った“実験”を経て力学的計算へ至るというプロットを立てているわけで、これが後者だけだったらひとこと「バーカ(嘲)」で終わってしまうが、前者のおかげで「……ばかなの?(褒)」が入り、結果的に最後まで読んでも不快にならないという仕上がりになっている。最後まで「まあこれは、ばか(褒)のやってることだから」という目で読める。偉そうにいって恐縮だが、これは実に“お上手”なのだ。
(もっとも、熱烈な『ONE PIECE』ファンはムカつくかもしれないけどね)

 さてここからようやく本題。
「創作物との距離感」についてのお話。

 当面「創作物」とは、「事実として起きたものではなく、作者たちの内部でつくられた想像上の事案を、他者に伝えることを前提として具体化したもの」とする。つまり“つくりもの(つくりばなし)”だ。実は事実として起きたものごとについての情報であっても、伝達者という要素が入ることによって、他者が受け取る時には必ず“創作物”になってしまっているのだが、そういうものは今は含みませんよ、ということ。

 創作物はなにゆえ生じるのかというと、上の定義の反復になってしまうが、なにか「伝えたい」と思うものが作者(たち)の中に生じるからだ。
 その時に作者(たち)が、単にそのままのかたちで提示する場合もあれば、物語のようなかたちで提示する場合もあるし、さらに手間をかけて映像作品にすることもある。作者(たち)の適性次第では音楽になったり所作になったりもする。
 難しいのは、それら「伝えたい」のものを、なんらかの状況に仮託して伝える時で、具体的には物語やドラマ(映画)がそれになる。
 ただ「ひとごろしはよくないね!」というのではなく、殺人事件を扱った物語を通して、なぜよくないか、どこがよくないか、でも本当はよくなくないのではないか、いやいややっぱりよくないよね、という具合に送り出す。
 単に結果を報告するだけの“論”よりも、創作物に触れる受け手個々の解釈が増えやすく、そのインフルエンスは重層的・多義的なものになる。それに、考えることが苦手なひとでも、ドラマなどの映像作品なら感覚として伝わりやすくなったりもする。
 だから物語やドラマ、大きな意味での「たとえばなし」は、作者(たち)にとって利の多い(伝えられる内容や範囲が拡がる)ものになるし、受け手にも多くの利(わかりやすい、考えやすい、物語自体がたのしいetc.)がある。

 だが、ここで問題になってくるのが、いわゆるリアリティの問題。
 大事なのはリアリティつまり現実“味”であって、リアル=現実そのものではない、というところ。
 それはあくまでも“味”であり、現実ではない。なぜってそもそも、発端は作者(たち)の内部にあるわけで、既存の現実そのものじゃないんだから。
 すべての創作物は必然的に現実ではあり得ず、だからどんなに手間をかけてもそこに再現される現実は創作物内における現実以外にはなり得ない。だからそれは、あくまでも現実“味”でしかない。
 そして受け手がどこまでの“味”を以て現実に近いと感じるかは、受け手個々の能力にのみ依存する。
 つまり作者(たち)がどんなにがんばっても、受け手が「ウソくせえ」と決めたら、それはもう動かせない。そしてその「ウソくせえ」基準は、受け手が勝手に(本当に勝手に)決めてよく、その点について作者(たち)はまったく無力なのだ。

 だから作者(たち)は、ある者は本能的・感覚的に、ある者は徹底したリサーチの果てに、盛り込む現実“味”の内容やバランスを考える。
 ある意味の極北は星 新一で、このひとは逆に現実味を全部放棄してしまった。それによりテーマ(星がよく使う語でいえばアイディア)のみが屹立し、さらには普遍化する。
 これは本当に絶後の力ワザであって、ほかに使いこなせているひとを見たことがない。
 逆方面だと、たとえば架空戦記的なもの、イフ系などがあるだろう。過去の史実に“もしも”を織り込むと、その後の展開がこんなに変わる……というわけで、“もしも”以前の土台は、事実そのもののみで構築されるのが理想。さらに“もしも”も、当時の状況において妥当と考えられる現実“味”を備えたものにしなければならないし、“もしも”に対する反応も以下同文。
 それでも確定した史実がおおいに道を逸らせてしまうわけで、これはこれでおもしろい。
 いずれにせよ、そうしたかたちで“味”を加減することが、創作物の、受け手に対するインフルエンスを大きく左右する。つまり、ウケるか否かを変える。

「創作物との距離感」はつまり、そういう仕組みを経た上で、受け手側がその創作物とどういう接し方をするか、その基準になるものだ。
 これは理詰めではなかなか動かない。
 受け手がそれまでに経たさまざまなものにより、個々の感覚の域で成立している。(だから距離“感”なんだが)
 もちろんその仕組みを理解した上で、意図的にある程度の操作をおこなうことはできる。だがそれはあくまでも受け手個々がするかしないか決めるものだし、そして理詰めの操作をしても、感覚的に得た印象自体をいじることは難しい(というより無理)。
 この距離を激しく遠いものと感じたら、それが「ウソくせえ」になる。
 だが作者(たち)側としては、それがどんなに突飛な起点をもつものであっても、少なくとも作者(たち)の中に“生じた”という点において、すべて「ウソではない」。
 受け手側は、理想的には、それを理解の上で――作者(たち)の中においてそれは“真実”なのだという認識の上で――創作物に触れるのがいい。それが共利の道w 作者(たち)も受け手も、作品を介して得るものがある。

 たとえば「ウル研」のようなアプローチは、その距離“感”を埋めきれなかった時、あるいは埋める気がそもそもない時に出てくるものなのだろう。
ウルトラマン』の作品世界がウソくせえと思う。思っちゃったから、もう『ウルトラマン』をそのままにはたのしめない。じゃあオレたちがたのしいと思うことをやっちゃえ。オレたちの「マジ!?」ラインまでウルトラマンを引っ張り込むぞ。そんな仕組み。
 受け手側のラインを動かすのではなく、創作物側の事情を変えてしまおうという試みだ。おそらく俺には、それがどうにもムカついたのだろう。平たくいえば、作品に対する失礼だ。
 柳田アプローチはそれとは違っていて、柳田個人(←ここ大事、柳田本人もそれをおそらく熟知)のウソくせえラインにひっかかったものに対し、そのひっかかり具合を柳田流に解釈・発展させることで“作品”にしている。然り。「ウル研」と柳田の相似たり同じからずの同じからぬ部分は、柳田はちゃんとそれを自分の創作物という位置づけで発表している点にこそある。だから「あーまたやってるよw」と思っても、ムカつきはしないわけだ。即ち柳田巧者説。

 創作物と受け手の距離感、ウソくせえラインというものは、本当はさらにメタな視点から見下ろして、対する創作物の側へ寄せるのがよいのよね。
 そう、別に距離の感覚そのものは変えなくてよいから、その感覚もあると自身が認識した上でウソくせえという判定をずらしてゆくことが、「創作物に対する時の本来の作法」だと思うわけよ。
 まあ実際、認識の有無にかかわらず、受け手はたいがいそれをやってはいる。
 てきとーな作品レビューで「最初はちょっと『えー?』って感じだったけど、見るうちにグイグイ作品に引き込まれました!」なんてのがあるよね。これはつまり「自分の中のウソくせえラインが創作物のパワーで揺るがされました」ってことなんだな。
 それをさらに一歩進めて、“揺るがし”を創作物のパワーに依存せず、自分の意図的な力でおこなうこと。それが創作物との距離感の、理想的な扱い方なのだ。
 それができる受け手は、多くの作品から多くの収穫を得られる。
 せっかく限定された期間の“人生”の中で、つまり接することができる対象の数も質も限られている状態で、わざわざなにかに接するわけですからさ。
「ウソくせえ」で切って棄てるより、わざと引き込まれる気合いを入れて接した方が、ずっとお得だし、それが創作物に触れる意義だと思うんだよねえ。
 逆に、常に自分のスタンスは変えず、固定の位置からしか対象へ手を伸ばさないでいたら、その手の届く範囲だけが“世界”になっちゃうわけで、だったら別にほかのものに触れる必要はないじゃん、ということになる。
 それではつまらないだろう?

 難しいんだけどな。


ダ・ヴィンチニュース「『ONE PIECE』のゾロは三刀流。1本は口にくわえているけど、実際にできるかやってみた!」https://ddnavi.com/news/382403/a/ からの連想
※文中敬称略