かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

シン・ウルトラマンに望むこと

 庵野監督による『シン・ウルトラマン』のヒーローデザインとロゴが公開になった。
 これを見て、期待が俄然、高まった。

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シン・ゴジラ』はすばらしかった。
 なぜかといえば、それがまさにゴジラだったからだ。
 ゴジラとはなにか。
 科学を初めとする人間の産物に対する地球環境からの気まぐれなカウンターだ。
 昭和29年の作品では、それは水爆と、それに象徴される戦争という愚行を背負って現れた。それが当時、最も耳目を集め得る“議題”だったからだろう。
 ゴジラはそして、第二次世界大戦の戦禍からようやく立ち直った東京の街を破壊し尽くした。それはまさに三月十日東京大空襲の再現であり、あり得たかもしれない東京への原爆投下の、十年遅れでの実現だった。病院に運び込まれた負傷者たちに向けられたガイガーカウンターは、そういう意味を伴っているのだろう。
 それと同等のコンセプトを今の時代に持ち込んだらどうなるかを、『シン・ゴジラ』は丹念に見せてくれた。
シン・ゴジラ』では、今の時代の議題はさらに複合的であり、人間の営みそのものがカウンターパンチをくらうべきものかもしれないという視点が提示されていた。
 なんの冠も戴かない初代のゴジラと、今のゴジラシン・ゴジラ
 それらに必須だったのは、人類をまるごと否定するような気まぐれの脅威だった。
 アンギラスその他と格闘するのは、別のゴジラである。

 さて一方、ウルトラマンはどうだろう。
 ゴジラからはまた十年の月日が経ったあとの、テレビシリーズだ。
 この作品の本質はなんであったか。

 真相から考えれば、ウルトラマンに本質はない。
 強いていえば。
 当時、映画『ゴジラ』を起点とする怪獣と特撮の人気は、高く安定していたようだ。それをテレビで毎週放映する。これがメインコンセプトだ。
 前シリーズ『ウルトラQ』は、企画段階では怪獣にこだわらない特撮ドラマシリーズを目指していたらしい。だが途中で怪獣路線へ舵を切り直し、結果的に怪獣で高視聴率を得たという。
 そうなればメディア側が「次作も」となるのは当然で、毎週怪獣が登場するドラマを要求した。だが毎週となると、いろいろ困る要素が出てくる。予算や製作期間はもちろんのこと、一番厄介なのは、
「怪獣の怪獣らしさを損なわない」
 これに尽きただろう。

 Qの主人公は、市井のひとびとだった。
 これは重要なことではあって、あまり特殊な設定を持ち込むと、視聴者が感情移入しにくくなる。ただでさえ特撮で怪獣なのだ。さらに特殊な機関や登場人物を設定すれば、それはますますツクリモノめいてしまう。
 一方、怪獣は自然のエージェントの如き存在であり、それは時に核兵器に匹敵する存在だったし、時に天災の擬獣化であり、また地球外の未知の文明の産物でもあった。人智を遙かに超えたものなのだ。
 だからこそそれは怪獣足り得たのだし、そして恐ろしく、当然絶対の排除が必要となるものでもあった。
 そんな強烈なモノを毎週登場させる、これはまだいい。だが毎週排除しなければならないとなると、これは極めて困難だ。
 なんとなれば、人間には排除が困難だからこそ怪獣なのに、それが毎週排除される、排除可能となったら、ぜんぜん怖くなくなってしまうではないか。
 しかもそれをやるのが民間人では、ますます怪獣らしさが損なわれる。
 怪獣の魅力がなくなってしまう。

 そこでまずは、開き直って特殊な設定をつくったようだ。
 それが科学特捜隊、略称科特隊。怪獣退治の専門家集団だ。
 だがまだ弱い。人間に対する脅威たる怪獣を毎週ビートするのが人間では、たとえそれが専門家集団の仕事だったとしても、結局は怪獣を貶める。
 かくて宇宙人が手助けするというアイディアが持ち込まれた。
 当初は姿の定まらなかった(定められなかったのかもしれない)宇宙人は、やがて銀色の巨人として確立する。ウルトラマンの誕生だ。
 中心になるコンセプトが特にない、怪獣ブームからの商業的なアプローチ。
 それがウルトラマン誕生の現実、といったところだろう。

 だから今、改めてウルトラマンをつくろうという時、ゴジラにあったような中心的命題を求め、それをアップデートすることは、難しい。
 てゆか、無理。
 だって、ないんだもん。アップデートすべきものが。

 そんな難しさがありながらも、映画『ULTRAMAN』と、連動したテレビシリーズ『ウルトラマンネクサス』は、叩き台段階のアイディア各種までもを丹念に拾い集め、シリアスなSFドラマとしてのウルトラマンを紡ぎあげた。
 ウルトラマン企画の初期、まだウルトラマンの名前もなかった頃の叩き台には、地球人に与する宇宙人に、自星をゆきすぎた科学実験の末に失い、放浪の末地球へ辿り着いたという設定があったそうだ。これはまさにネクサスの“来訪者”ではないか。
 ヒーローとなる宇宙“人”が不定形という設定もあったらしい。これはクラゲ状の来訪者にも適用されているが、さらに発展させられ、光のような生命体が地球人と結合して実体化するという“ザ・ワン”“ザ・ネクスト”らに昇華されている。
 つまりネクサス(とULTRAMAN)は、ウルトラマンへ至る原案とウルトラマンそのものを徹底的に再構築したものだったわけで、いわばネクサスは真ウルトラマンだった。
 だが、物語のコンセプト自体はネクサスのオリジナルといえる。
“ビースト”に密かに侵蝕される地球、それを食いとめるための秘密組織、侵蝕の真の理由、それに対峙するひとびとの“絆”……そういったものはすべてネクサス当時の現在をベースにした発想で組み立てられた。原ウルトラマンのアイディア群を活かしきるため、時代に応じたコンセプトがあとから加えられた、というところだろうか。
 つまり、まずはアイディア群ありき、だ。
 その上でなおネクサスは大傑作だし「必要」な作品だったが、それだけにその方向からのアプローチは、もう充分といえる。これ以上は必要ない。
 ウルトラマンとそれへ至る設定群は、もう完全に消費されたのだ。

 では、ウルトラマンには、もはやなにも残っていないのか。
 否。ある。
 それは、科学や人間の営みに対する肯定だ。
 なにものにも揺らがない、徹底した人間讃歌だ。

ゴジラ』が人間文明への疑念や矛盾を中心にしたのに対して、『ウルトラマン』は正反対のアプローチをしている。
 科特隊は人間の叡知が生み出した絶対的な正義の具現だったし、人間社会を守ることは無条件で実行されるべき最重要事項だった。
「人類は護る価値のある存在なのか」なんてことは考えない。人間はもちろん、人間が生み出した科学は輝かしく力強く、それらを侵す怪獣は退治されて当然の存在だ。
 それが大前提だからこそ、特に実相寺作品でちらちらと見せられる懐疑や反駁が陰画として最大限に活きたわけで、本来の土台は「どピーカン」なのだ。
 1960年代である。
 急伸する科学技術はそもそも、人類の未来への期待に満ちた新しい“道具”だったし、それが実現するであろう新しい社会は、夢に満ちたものだった。
 その急すぎることへの不安はしばしばゴジラのようなかたちで表現されたが、一方で讃歌もまた少なくはなかった。
 ウルトラマンは、まちがいなくそうした讃歌のひとつだった。
 人類は愛すべきもの、護るべきもの、誇るべきもの。
 科学はすばらしい技術、人間の叡知の結晶、未来へのパスポート。
 そういう、どこまでも晴れ渡った五月の空のような世界。
 それはコンセプト云々ではなく、当時の空気を映した『ウルトラマン』の真実だった。

 これを。
『シン・ウルトラマン』では、これをアップデートしてほしい。

 たとえば『ウルトラマンダイナ』のネオフロンティアは、それに相当した。
 だが、まだまだ足りない気がする。抜けきっていないというか、振り切れていないというか。当時のテレビシリーズの限界だったのかもしれない。
『シン・ウルトラマン』には、ネオフロンティアを超越したサイエンスユートピア、あるいはその到来を疑わない社会と、そこへ迫る危機、その危機とほぼ互角に対峙しつつも今一歩足りない人間の悔しさ、それを救ってくれる異星からのヒーローを描いてほしい。
 そのヒーロー自身もまた科学の申し子のような存在であるという、なんの抑制もない天晴れな夢物語を描いてほしい。
 当時のこどもたちが『ウルトラマン』になにを見ていたかといえば、そこなのだ。
 もちろん怪獣が見たい。怪獣をやっつけるウルトラマンを見たい。だがその背景には、輝かしい科学社会、来るべきユートピアへの期待があった。そこが大前提だった。
 それを見せてほしい。
 あの時に、もしかしたら社会の全員が見ていた未来への夢と希望を、描いてほしい。
 そしてもしできれば、ヒーローのせつなさを加えてほしい。
 愛する地球人たちとはどうしても足並みを揃えられない、俯瞰し見守る立場にしか身をおけない、超越した者なればこその孤立のせつなさを。

 公開されたウルトラマンは、ぜんぜん強そうではない。
 公開されたロゴは、“あの頃”をそのまま切り取っている。
 このふたつが、テレビシリーズの時代の空気を思い出させてくれた。
 少なくとも俺があのロゴを見て感じるのは、期待するのは、重苦しい物語ではない。どこまでもどピーカンな未来への希望だ。それを助けるヒーローの活躍だ。
 円谷特撮のキモは、どピーカンな照明にあったらしい。画面の四隅が暗いと、映像全体がちまちまと狭苦しくなってしまうそうだ。だから特撮の照明は常にどピーカン、これが円谷英二監督の主張だったという。
 それと同様、物語の端々にまで光がゆきわたった、どピーカンなヒーロー譚。
シン・ゴジラ』の正反対の位置にある、とことんポジティブな人間讃歌。
『シン・ウルトラマン』では、是非ともそれを見たい、聞きたい。

 期待してますよ。