かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

ダイオリウスが憎めない

ウルトラマンダイナ 第41話『ぼくたちの地球が見たい』】
“この日、輸送客船ガゼル号には、木星衛星上のステーションで生まれた第一世代のこどもたち六名が乗船していた。彼らは、遥か六億キロの航海を経て、人類の故郷・初めて見る地球へ、ようやく近づこうとしていた。”

 わー宇宙時代だー、ネオフロンティアだー……とノッケから胸躍るナレーションだ。
 太田 愛の脚本によるダイナ41話『ぼくたちの地球が見たい』(監督/特技監督:川崎郷太)のオープニングである。
 タイトル見たとたん日渡早紀を思い出してしまうのは世代の宿命。

 さてここにどんな物語が展開するのかというと、このガゼル号に宇宙の巨大昆虫ダイオリウス(♀)が目をつけ、産卵してしまうのだ。
 船内でさっそく孵化したみっつの卵は、乗員を食いつつ地球へ降り立ち成長しようとする、というか、そうあれと母ダイオリウスが目論んでいて、当然ここはスーパーGUTS(ダイナの戦闘隊)の出番となる。
 難しいのはダイオリウスの幼虫の体液。こいつは猛毒を含んでいて、かつ地球の気圧下では爆発的な勢いで気化するという。そのガスは、数百万人単位の犠牲者を生むだろうと予測できるのだ。
 じゃあガゼル号を放棄し乗員(こどもたちと船員三名、うち船員ひとりはさっそく幼虫の餌食となってしまっている)を脱出させ、ガゼル号を破壊すればよいではないか――ところがダイオリウス産卵の時の衝撃で船体は損傷、航行装置すらまともには機能しなくなっていて、このままでは地球へ“無事”着陸してしまう。
 そこでスーパーGUTSは命懸けの救出作戦を展開し、ガゼル号が空になったら対侵略者用の防御衛星ユニコーンに搭載された火砲で破壊しようとする……。

 当然ながら計画通りにコトは運ばず、そこにドラマが展開する。
 逃げ場のない密閉空間で迫りくる怪物、地上のひとびとの懊悩、こどもたちの心の繋がりやそれを護ろうと文字通りに命を懸けるおとなたちと、三十分によくこれだけ詰め込んだと思うほどのエピソード連打。それに加えて、四十話を重ねてすっかり個性を確立したレギュラーキャラクターたちがそれぞれの持ち味を存分に発揮する。
 ダイナでベストスリーエピソードを選べと言われたら、俺はこれと第25・26話の前後編『移動要塞浮上せず』、第20話『少年宇宙人』を挙げる。
 もっともダイナは噛みしめれば味の出る作品ばかりで、第48話の『ンダモシテX』とか、サービス心の塊のような第35・36話前後編『滅びの微笑』とか、是非とも全編を若いひとと観たいと思うシリーズではある。自分で勝手にいいだしておいてなんだが、三本に絞ってなんか意味あんのかよ、と思わなくもない。

 このシナリオ、ウルトラにおける太田 愛作品においては珍しく、計算から生まれたのかな、という感触がある。
 たとえば怪盗ヒマラが「あーこれ夕焼け見てるうちに“この眺めを抽斗にしまっておきたいなあ”なんて思った、そこが起点なんじゃないか」という感じだったり、クラウドスが「雲が風にあおられてかたちを変えてゆくうち一瞬怪獣になった、“あれが本当に怪獣だったらどうなるだろう”ってとこから始まってないか」という感じだったりするのに比べると、設定からして理屈っぽい。
 自然発生的な動機ではなく、宇宙を舞台にしたサスペンスものをやってみよう、というごく意識的な動機から生まれた作品のように感じられる。
 それがいいの悪いのという話では、もちろん、ないよ。むしろ、ああ太田 愛というひとはこういうつくり方もできるんだなあ、と感心する。のちに刑事ドラマのシナリオを担当されたそうで、申し訳なくもそちらは未見なのだけれど、それは“ぼく地球”のようなつくり方ができればこそのものなのだろうなと思う。
 どうあれ“ぼく地球”は、“こうなったら、こう”“こうきたら、こう”という、実に理路整然とした組み立て――たとえば、体液ガス化で大量の犠牲者が出るなら、ガゼル号を乗員もろとも地球の引力圏外で破壊すれば最小の被害で済む、といったような――が骨格になっている。その流れが整然としているからこそ、無理を押して救出へ向かおうとするスーパーGUTS隊員(というよりそれを実行するため上司を罵倒すれすれの態度で説得したヒビキ隊長。超! 男前!!)が引き立つ。
 各所に配置された伏線もすべて見事に活用・回収され、それらがひとつずつ全部がビシッビシッと決まってゆく流れは、本当に匠の業というレベル。
 そして、その上で印象的なのが、ダイオリウスの母性と、人類の対比だ。

 衛星砲が照準を定め起動した時、近くにいたダイオリウスはそれを察知しちょっぱやで戻ってくる。そしてこれ以上自分の“こどもたち”に危害を加えさせまいと、ガゼル号を“護衛”しようとする。
 そこへダイナが現われて決戦となるわけだが、その時のダイオリウスの姿は、文字通りに死に物狂いだ。これを母性と呼ばずしてなんと呼ぶ。
 この姿を見ると、それまでダイオリウス憎しで盛り上がっていた気分が、きゅうっと締めつけられるのを覚える。
 確かに、初めての地球を、地球人のこどもたちに見せたい。その土を踏ませたい。その意識は消えていない。だが、ダイオリウスにしてみれば、ガゼル号内の幼虫たちが、まさにこどもたちなのだ。ダイオリウスがしていることと、我々がしていることの間に、どれほどの差があるというのか。根本を見た時、そこに違いが見出せるか。
 悔しいが俺には、見出せない。
 たまさか俺は地球人であって、だから地球人のこどもたちに肩入れする。地球人のこどもたちを護ろうとするおとなたち、幼虫のガスから何百万の人命を護ろうとするTPC(地球平和連合)のひとびとに肩入れする。
 だが、それは地球人だからの話で、もしダイオリウスの“社会”があり、ダイオリウス世論が「なんと地球人たちの野蛮なことか!」と言っているとしたら、それへ反論する術を俺はもたない。もちようがない。
 それなのに、やはり、こどもたちがついにひとりも欠けることなく地球へ降り立つ姿を見た時には、うれしくてうれしくて泣いてしまう。あっ。これネタバレですか。ダメでしたか。まあでも誰もダイナでこどもが死ぬような話があるとは思うまい。堪忍。
 結局、俺はそんなもんですか……と、自分がみすぼらしく思えたりもする。

 これねえ、企んだかどうかわからないけれども、たとえば『帰ってきたウルトラマン』屈指のエピソード、第33話『怪獣使いと少年』とか、『ウルトラマン』第23話『故郷は地球』とか、あの辺りと並べて遜色のないインパクトがあるのよ。
 もっとも、怪獣使いもジャミラも、直球ではあった。誰が見てもわかるテーマ性とでもいうのか、ごく理解しやすい提示の仕方だった。
 だが“ぼく地球”は、おそらくうっかりしていればスルーされてしまうような巧妙なやり方で、それを織り込んでいる。いや、むしろスルーさせようとしている気がする。
 そこにむしろ、どうにもならない――結論の出せない重みがあると思う。
 メイツ星人の件は、努力というか、なんらかの方法で結果へ至れるはず、という気がする。いや、至ってくれ、という脚本家(上原正三!)の祈りにも近い気持ちを感じる。だからこそ『ウルトラマンメビウス』第32話『怪獣使いの遺産』もあり得たのだ。(余談ではあるが“遺産”、客演の吉田智則氏がもんのすげえぇぇよい。吉田氏を確かめるためだけでも見る価値があるというくらいよい!)
 ジャミラはある意味解決済みで、そういう悲劇はすでに過去のもの、というところから始まっている。もちろん将来に同じようなことが繰り返される可能性はあるし、あるいは(物語内での)“今”も、どこかでひっそり同じことが進行中かもしれないという懸念はある。だがそれでも、ジャミラの件は過去のこと、という展開だ。そしてこれもまた、人類がより賢くなれれば、きっと解消できるはず……という希望がある。
 だが。
 ダイオリウスと地球人の“対立”は、解消しようがない。
 ライオンにガゼルを食うなといえるか。いってどうなるか。
 そういう次元で、どうしようもない対立はあるのだ。
 必死の母ダイオリウスの姿と、こどもを抱きしめるガゼル号船長・朝倉の姿。
 同じだ。まるっきり。
 同じものにランクづけは無理だろう。無意味だろう。

 そんなずっしりとしたものを備えながら、それでも“泣かせる”物語には違いない。
 ウルトラシリーズでは、どちらかというとしっとりとした感触のある仕事を紡いできた太田 愛が見せた、甘くない巧者ぶり。
“ぼく地球”には、それがある。

――――
 余談ながら。
 これは“映像作品”なのであって、だから脚本家だけでなく、てっぺんには監督があり、小道具を準備するひとたちも、キャスティングをするひとたちもあり、そして演じる俳優の方々があってこそ、成立している。
 そのどのピースもビシッと決まっているからこそ、この作品が生まれている。
 太田 愛だけでなく、子役を含めた全参加者たちの成果が、間違いなくこの作品にはめいっぱいに詰まっている。Lazyが歌ったエンディング曲も含め、すべてが合致した傑作だと思う。
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 余談II。
 書き終えてふと、ガゼルにかみつくライオンのドキュメント映像などを見ながら「これが人間とほかのなにかだったどうなるのかなあ」という動機でシナリオが書かれたという可能性を思いついた。
 だとしたらそれは、すごすぎる……。