かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

いだてん現象

 NHK大河ドラマ『いだてん』がなにかと話題だ。
 少なくとも俺の周囲では。

 世間一般では違うのかもしれない。
 というのも『いだてん』、報じられるところによれば、記録的低視聴率に喘いでいるとのことで、幾度となく広報強化をおこなったものの効果はなかったとも聞く。
 ということは観ていない人の方が多いわけで、ならば一般には話題にもなるまい。
 だが俺の周囲では、今も毎日ひとつは『いだてん』の話題に遭遇する。オンエアの日に限らず『いだてん』の名に接しない日はないわけで、これはけっこうすごいことだ。
 もっとも俺自身は観ていない。それはそもそも俺にテレビを見る習慣がなく、また「よし『いだてん』は観よう」と思っても各種事情(主に家庭的な)により観られないからで、ドラマ自体には耳の端をクイクイ引っ張られるような興味をもっている。
 みすみす目前の金鉱を掘らずにいるような残念はなくもないが、いずれ縁があれば観られるだろう。『ウルトラマンネクサス』だって『恐怖劇場アンバランス』だって観られたんだ。見る“必要”があれば、きっといつか『いだてん』も観られるはずだ。

 さて、ではどんな具合に、俺周囲で『いだてん』の話題が出ているのか。
 まず称賛の声。脚本の見事さはもちろん、俳優の技量や、それを引き出す監督/演出者のセンス、小道具ひとつずつの完成度に至るまで、もう全面的にすごいらしい。歴史的傑作という声まで聞こえてくる。平成から令和へ切り替わった年に、明治から昭和への“歴史”を鮮やかに解釈・再現するタイミングの絶妙を、天の采配とまでいうひともある。
 一方、嘆きの声と励ましの声も多い。「あんなおもしろいものがなぜ視聴率を得られないんだー」「視聴率を気にせず最後までこの調子でいけー」という感じ。
 周囲といっても近年はいろいろあるわけで、まず今は、リアル周囲かバーチャル周囲かという分類がある。バーチャルはつまりSNS系だが、その内部でもツイッターだのFBだのその他SNSサービスの類から、かつてSNS的なものから始まったが今はEメール中心で、という関係もある。あるが、そのどこででも『いだてん』は高評なんだよね。
 ウェブ限定で、とかの話でもない。リアルで熱く天狗倶楽部の話を語られた時には、どう反応したらよいか本気で困った。「そういえばヨコジュンさんがテンクラの小説書いてるって? 持ってない?」と問われ、逆に「えっそんなのあるの」と問い返すザマを曝してしまったのは、今年最大の痛恨事だ。そしてまさかそこから一か月と経たないうちに当の横田順彌先生の訃報が届くとは、残念を通り越してもはや無常の感慨さえ抱いた。
 ヨコジュン先生、早すぎるじゃんよ……。

 ともあれ。
 観ているひとが少ないという嘆きの声は、とにかく多かった。今はもうそれほどでもなくなったのは、それでもドラマは路線変更せず突っ走ると決まったからで、じゃあ嘆かず安心して没入しようという意識の変化によるらしい。
 だが、そんなに話題になるドラマが、本当に低視聴率なのだろうか。
 いや、以前あちこちで低視聴率を嘆く話題が聞けた以上は、世間の評判、つまり低視聴率自体に、おそらく間違いはないのだろう。俺周囲では、少なく見積もって50%以上の視聴率を誇るお化け番組なんだが。
 これはいったいどういうことだ。
 つらつら思うに、俺の環境――人間関係というものに、特殊性があるのではないか。

 人間関係が特殊。
 これはかなり以前から思っていることで、職業(自称フリーエディトリアルライター)の影響もあると思うが、特にウェブを介して始まったような関係にあるひとびとは、およそ“つくる”系のひとびとだったりするのだ。
「いや営業職だって取引先との関係を“つくる”仕事じゃないか」
 然り、ごもっとも。
 だが、ことばの上だけでなく、実感として・自身の方針としてそう認識しているひとが、いったいどれくらいあるのだろう。単に売り上げを伸ばすことが営業職だと捉え、そのように実行している人の方が多いのではなかろうか。
 実際、営業職の知人だって多くはないが存在する。そしてそういうひとたちはおよそ、まさに「営業職は関係創作業」という認識で仕事している。だが彼らもまた、彼ら自身の言によれば、やや浮いた存在であるらしい。中には、数字があがる理由を問われ、その理念と秘訣が「関係創作」だと語ったら「は?」と返される、と嘆いたひともある。
 まあどういう分野で活躍されているのであれ、俺の周囲には“つくる”系の方々が多く、博識家も多くいらっしゃるし、考え方にも各々個性がおありだ。
 さらに皆さん、さまざまな事物との触れ方にも高い積極性や深い洞察力を発揮されていて、俺としてはそれぞれに尊敬させていただいている。“俺の人脈”という感覚ではなく、そういう方々におつきあいいただいているという感覚。
 要するに俺の周囲の方々は、皆さんよく「わかる」方々なのよね。俺はその末席を汚すダメ人間、ダーメダメダメダメ人間・ダメ! という感じだ。
 で、そういう方々が皆さん『いだてん』を高く評価していらっしゃる、と。
 だが一方で、とても残念なことに、そういう能力をおもちの方々の絶対数は、決して多くはないのだった。
 だから『いだてん』が、能力をおもちでない人々からの評価を得られていないものなのだ……と解釈すれば、するりと納得はできてしまう。
 その辺でくっきり評価が分かれた結果が、視聴率の苦戦なのではなかろうか。

 これは象徴的なことになっちゃってる気がして仕方がない。
 ものすごーくおもしろいもの、というのは、実はものすごーく難しい。
 アレとソレを知らないとたのしめないとか、ソレとコレを感じないとたのしめない、コレとドレが……と、ものすごーくさまざまな条件の上にちょこんと「ものすごーくおもしろい」は載っかっている。
 たとえば、真面目に世界平和の問題を論じる会議にいきなりなんにも理解していない者が割り込んできて、「そんなの、こんなカンジでバーン! で、ドーン! そんでもってウキャー! ほらカイケツ! ちょうかんたん!」なんて叫んだら、そのワケワカッテネエ具合の違和感に笑えることがあるかもしれない。失礼ながらその大いなる存在感を利用させていただくと、その会議にエガちゃん(江頭2:50氏/俺が尊敬している大人物、まあ皆さんご存知でしょうが)が定番の上半身ハダカ下半身タイツのあのいでたちで列席されていたら、発言せずともそれだけでかなりのひとが笑えると思う。
 だがこれは、「すごく」ではあり得ても「ものすごーく」おもしろいものではないと思うし、一過性であってのちになったら忘れちゃう類のおもしろさだとも思う。(※)
 一方、そういう会議の席で真面目なひとが真面目な顔で「将軍殿へのバースデイケーキにはイエローケーキでも送りますかな、質のよいものを紙箱で」なんて言ったら、その黒々とした感覚や、実現があり得ない(あってはならない)ことも含めて、ぐふふ、と笑うひとがあるだろう。でもその数は多くないはずだ。話を理解できない人は多いだろうし、理解できても笑わずに怒るひともあるだろう。でもこれは、巧拙のほどは別として、あり得ないという前提で語られる、歴としたギャグだ。そしてそれをギャグとして理解できるということは、どれほどの皮肉が込められているかを理解するということでもあって、それはつまり笑うひと自身が黒々とした感情を知っているということでもある。(怒っちゃうひとはそこんとこがどうしても真面目で優しい)
『いだてん』はそういうかたちの、“難しい”のカタマリとしての「ものすごーくおもしろい」ものなのではなかろうか。
 だから「わからない」ひとにはたのしめない。
 代わりに「わかる」ひとには強く支持される。
 それが、俺の周囲のひとびとと視聴率という数字の間にある温度差、になっているのではなかろうか。

 これはですね。
 もしその通りだとしたらね。
 実は由々しき事態だと思うんですな。
 受け取る側を“選ぶ”娯楽が、大メジャーどころで顕在化した。
 そしてそれは、敢然と“選ぶ”ことを続けている。
 そういうことなんではあるまいかな。

 かつては、たとえば「世界ナンバーワンヒット!」とか「全米が泣いた」とかが、揺らがない価値だったわけだよ。それが作品の“質”の確かさの指標であり、目指すべき“場所”でもあったわけだよ。
 だが、他国は知らず当地日本では、長い長ぁい経済停滞を初め、さまざまな事情から市場は分断され続けてきた。「大衆」というマーケットは消え「分衆」の時代になる……といわれたのは、もう三十年ばかりも前のことだったと記憶する。俺の足場の感覚からすれば、二十万部の雑誌が成立しなくなり、一万五千部×二十媒体で超優秀になるという話。
『いだてん』の支持/不支持で顕在化したのは、「市場にははっきりと『わかる』層と『わからない』層がいて、その実数には多大な差がある」ということ。
 そして、「わかる」層は作品を重んじ確かな“顧客”になる、ということ。
 逆に「わからない」層には、“高品質が商品のアピールとして機能しない”。
 日用品なら用が足りればそれでよいから、たとえ一か月で壊れてしまうものでも、安価ならそれでよい。五十年もつものである必要はむしろない。
 だが娯楽物は違う。
 娯楽物は高品質でなければ早晩消える運命にある。
 そして、特に現在の経済状況にあっては、早晩消えるレベルの娯楽物に、コストをかけることはできない。ここに「だから早晩消えるレベルにしかできない」という悪夢のスパイラルが発生する。
 結果、繰り返し愛される娯楽物とそうでない娯楽物は二極化し、ユーザーもまた二極化する。そして前者から後者へのユーザー移動は往復とも問題なくできるが、後者は前者に触れてもたのしめず、結果的に前者から疎外されることになる。
 棲み分け? いや違う。これは完全な格差の成立だ。
 それを顕在化させてしまったのが『いだてん』なのではあるまいか。

 娯楽物は、手間のかかる商品だ。
 それらは、ひとの手を介さないと生産され得ない。一度金型をつくっちゃえば数十万個イケます、というものじゃないのだ。
 ひとつずつがひとの手作りであり、そして当然ながらそこには経験や知識に支えられた技術があり、また一代芸のように継承不能な個性もある。
 つまり量産ができず仕上げるのにも時間がかかる、当然単価も高くなる、ならざるを得ない。それが娯楽物。
 となると、ですね。
 経費回収のためには、市場として成立し得る対象を選ばなければならず、資本は当然そこへ集中する。“才能”だってそこへ集中する。かくて「わかる」層には充実の内容が確保され、「わからない」層には「キミらこれで充分だから」というレベルのものしか供給されなくなる。
 そういう格差が今後、発生し得る――いや、『いだてん』ですでに発生しているんじゃないか、という話なわけね。
「いや、そんな格差は以前からあるだろう。歌舞伎とかはそういうものじゃないのか」
 然り。
 だがそれが、歌舞伎座から飛び出して、NHKの全国網で実現されたってのがね。
 けっこうデカいアイコンになるんじゃないか、ってことなのよ。

 当の歌舞伎や、また、客がどうしても選ばれる傾向にある江戸落語は、それゆえ一時は相当な辛酸を舐めた。だがそれは、消費スタイルが大衆型へ奔走する過程のことで、分衆が成立し始めると、あるいは細々と、あるいは大々的に顧客との接し方を変え、今なお命脈を保っている。
 一方、そういう時――大衆型の時期に好評を博して今に残る娯楽物が、どれだけある?
 結局残らなかったそれらは、消費されるだけの娯楽物だったわけだ。
 そして現在では、残ってきたものの残り方、戦略という情報もある。繰り返し愛される娯楽物は回収の優等生だ。だから相応以上の投資がおこなわれ得るし、それにより内容が充実した作品もいろいろに生まれるだろう。
 それらは、根本的に「わかる」層相手のものであって、「わからない」層には文字通りに「わからない」。「わかる」層が、手間ひまかかった娯楽物で最高にたのしんでいる横を、「わからない」層は、「なにやってんの?」と思いながら通りすぎるしかない。
 そういう時代への切り替わりが、実は『いだてん』で実現されちゃったのではないか。

 娯楽物の二極化――高コスト高品質の「わかる」群と、低コスト低品質の「わからない」群への明確な分化。
 これは単に娯楽物だけでなく、さまざまなことに波及するだろう。
 なぜなら人間は根本的に「たのしく生きる」ことを求めているからだ。つまり娯楽物は大きな目標。それが二極化し、特に「わからない」層から「わかる」層への移動に文化的困難が伴うなら、これは格差と呼ぶにふさわしい。
 今後それがどんどん進行する、『いだてん』はその先触れなのではあるまいか。
 というわけで今後俺は、こういう二極化を「いだてん現象」と呼ぶことにした。
「今アレがすっげえウケてるっぽいんだけど」
「ああアレ。アレも『いだてん現象』の産物だな」
 という具合に使う所存。

 さて、俺はどっちに棲めるのかな?


(※)――まさかそんなこと思う人がいるとは思わないが、それは決してエガちゃんのせいではない念のため。え? なぜエガちゃんのでいではないかがわからない?……それは困ったなあ……。