ウルトラマンの置きどころⅢ
※前回
ウルトラマンの置きどころⅡ - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
※前々回
ウルトラマンの置きどころ - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
※いずれも別に参照しなくてもよいです※
ウルトラマンは神もしくは兵器。
ゆえにこそ、ウルトラマンは物語の中心に置くことができない。
物語というのは、つまりは人間の思惑、懊悩の表現だ。
物語の原初の姿は神話伝承の類になるが、それらにしてもおおもとは「人間が考えた世界のなりたち」を物語にしたものであって、いずれにせよ人間の精神の枠、価値観の範囲から抜け出ることがない。
昔から「事実は小説より奇なり」といわれる。それはつまり人間の限界の話をしているわけで、神話伝承も人間のつくったものである以上はその例外とはならない。
そして神話の中心にあるもの、何らかの人智の及ばぬものに対し人間がディティールを与えた“神”という概念自体も、人間の創作である以上、“事実”様にはかなわない。
※完全に余談だが、「神」というのは基本的に人間の創作物だ。
俺は人智の及ばぬ“なにか”はあると思っている。だがそれは、いわゆる神ではない。その“なにか”の片鱗を捉えた人間が、そこに何らかの格を付与、具体化したのが神だ。
たとえそれが偶像崇拝を禁じ、はっきりした姿を備えない、ごく抽象的なものだったとしても、人間とかかわるためには、人語その他の人的ツールに頼らざるを得ない(この点で、『ウルトラマン』第二話『侵略者を撃て』でのバルタン星人が、アラシ隊員の生体を借用してイデらとコミュニケーションを試みるという展開は、おおいに“神”じみている。ウルトラマンという“神話”における反神の地位を占める存在にふさわしい態度だ)。
要するに、それは人に語られた時点で、創作物以外のものにはならないのだ。
教義とか神の階位なんてものに至っては、まさしく人間の所業でしかない。
そんなもんには、おもしろがる以外の対応をする必要はない。
おもしろがり方は個々の趣味にまかせる。※
だからもしウルトラマンを本当に異世界からのまれびととして扱うのであれば、それは物語の中心に置くことはそもそもできない。人間じゃないんだから。
だから周囲の人間たちがわたわたと動き回り、物語を紡ぐことになる。
科特隊の隊員やその友人知人、関係者。地球防衛軍とウルトラ警備隊の以下同。
『ウルトラセブン』ではさらにもうひとヒネリして、当の人外存在に人間としての姿を与えてみた。つまりセブンという神(兵器)とダンという人格をほぼ完全に分離した。
この辺り、たとえば第十四・十五話『ウルトラ警備隊西へ(前・後編)』でのペダン星人との直接のやりとりを経た「宇宙人同士」という発言や、最終回での「アマギ隊員がピンチなんだよ!」ということばと矛盾するではないかという意見もありそうだが、それについてはダンがセブンという神の寄坐(よりまし)、預言者の類だからという解釈が可能だ。もっともセブンは神としてより兵器としての性格が強く感じられるので、そんな解釈をする必要もないとは思うが。
極端な話、対ペダン星人戦でのウルトラセブン対キングジョーというシチュエーションは、ペダン星と地球の最強兵器対決といってもいいものなのだ。
やはりセブンとダンは切り離して観るのがよい。
そう、だからウルトラシリーズというのはウルトラマンの物語ではないし、ウルトラマンはヒーローでもない。
物語は常にウルトラマンの周囲のひとびとからもたらされ、ウルトラマンは単にその場の解決策として登場するだけだ。
そう、その場の解決策。
そもそもにウルトラマンは、怪獣に対抗するものとして案出された、人間側の怪獣だ。
だからそれは、もとから主“人”公ではあり得ない。
この辺り、最初から“作者”は気づいていた節がある。
知るところでは、ごく初期のプラン――『ウルトラQ』の怪獣路線の大当たりを受けて、それに続く作品を考えていたとされる頃に提出された企画には、『科学特捜隊ベムラー』というものがあったという。
ベムラーはここでは「人間のために戦う怪獣もしくは宇宙人」であって、『ウルトラマン』第一話『ウルトラ作戦第一号』で華々しく悪役デビューしたアレではない。語源には当然ながら Big Eyed Monster、ベム(1950年代に濫造されたSF映画の類に登場する“宇宙人”が悉くデカい目をしていたことから命名されたと伝え聞く)があろうし、そこへ(特に)ゴジラ以後に日本では怪獣を示す接尾辞的に用いられたラの字を当てた造語であろうと想像するのだが、まあとにかくベムラーという“神”的存在がある、と。
ある上で、しかし、主人公は科学特捜隊なのだ……と、そういうタイトルだと俺は思う。1970年代半ばであったなら、これは『科学特捜隊&ベムラー』と、一文字が加えられていたのではなかろうか。
これは製作者、というか具体的に金城哲夫氏個人なのだが、彼が「怪獣と互角に戦えるのは怪獣だけだろう」「怪獣そのものにドラマなんか投影できないよ」と理解していたからのことなのではないかと思える。
その後イメージはいろいろと変わり、最終的に銀色の巨人が登場することになるわけだが、それにしても内包するものは同じ。パッケージが変わったに過ぎない。
物語の中心には元からなれない、人外のもの。
ウルトラマンはそういうものだという認識の方が、正しいはずだ。
だがその視点は、すでに『帰ってきたウルトラマン』の時点から揺らいでいる。
帰ってきたウルトラマン=ウルトラマンジャックは、人間・郷 秀樹の感情に常に揺さぶられ続ける。極みはいうまでもなく第三十七話『ウルトラマン夕陽に死す』だが、そこに限らずともジャック自身がかなり人間っぽい。
怪獣が強くなったという前提(設定)ゆえ、ジャックは常に苦戦し続けた。そこが人間的な要素をより多く含み得た主因ではあろうが、第十八話『ウルトラセブン参上!』で「太陽! この私をもっと強くしてくれ!」と懇願するなど、神頼み以外のなにものでもない。それはまさしく人間の所業で、神もしくは兵器のものではない。(ところであの時、太陽の引力につかまって落下するジャックを支え、ふたり分の“重量”をやすやすと引力圏外へ運び出したセブンってものすごいんじゃね? 怪獣が強くなった以前に、やっぱジャックって根本的に弱いんじゃね?)(あ、セブンが強すぎるのか)
俗に「ニュージェネレーション」とひと括りにされる近年のウルトラメンでは、もはやウルトラマンは神でも兵器でもない。ついにはブティックのにいちゃんである。ブティックのにいちゃんが悪いとはぜんぜん思わないが、そこに「怪獣と同等以上の力」が宿るというのは、いろいろ無理があるだろう。
問題は、だ。
それが「こどもをメインターゲットにした番組としてつくられなければならなかった」、ここに尽きるのだろう。
つまりウルトラマンという概念は、いささかならず込み入り過ぎているのだ。
他のヒーローたちと比べてみれば、それが歴然とする。
たとえば『仮面ライダー』は当初、悪の秘密結社ショッカーからの脱走者と組織の戦いだった。主人公はあくまでも脱走者という個人であり、その個人が交通事故的に組織と戦い得る能力を組織そのものから与えられたという設定。主人公はまず人間だし、人間である以上それは物語になり得る。
それがたとえば『シルバー仮面』であっても、『光速エスパー』でも同じ。人間が、という点は変わらない。
『マジンガーZ』は最初から最後までロボットであって、つまり道具、兵器だ。使い方次第でどうにでもなるモノに過ぎない。兜 十蔵じいさんだってそう言っている。
ロボット系はそのコンセプトが、それこそ『鉄人28号』の頃からはっきりしていて(お約束の操縦機の争奪戦な)、これは横山光輝氏の功績が大きいのだろう。『ジャイアントロボ』も横山氏で、これがBF団からの盗品(w)であるという設定は、『仮面ライダー』にも少なからず影響を与えたのではないかと思う。
そういったロボット系のひとつの極みは『スーパーロボット マッハバロン』だと思っているのだが(その制作の中心にあったのがウルトラシリーズでデビューした上原正三氏だというのはおおいに興味深い)、それらはどれも「いずれ廃棄されるべき“手段”」というポジションを明確にしている。
だが困ったことにウルトラメンは、神に・兵器に等しい存在であっても、宇宙“人”なのだ。いずれ廃棄を、というわけにはゆかないし、かといっていつまでもどこまでも超然と(文字通りだw)していたら、魅力なんかまるっきりない。
その辺りのネジレが、ウルトラメンには誕生以前からあった、というわけだ。
人間ではない、むしろ神に近い存在。
能力も、核兵器や天災に等しい。
だが“人”なので廃棄はできず、何らかの“格”も備えている。
こんな難しいものを、物語のどこへどう配置すればよいのか。
それに対する具体的な解を提示したのが、実は『ウルトラマンネクサス』なのだが(だからこそ俺はネクサス大好きおっさんなのだ)、それが視聴率的には低迷したというのは象徴的ではある。
今、ウルトラメンはひとつの文化を備えた単なる宇宙人という扱いが定着しつつあるように思えるが、そこには致命的な問題がある。
それはなにかというと、つまり「地球人の感覚をあまりにもストレートに投影し過ぎると、極端な戦闘能力がむしろ浮く」という事態。要するに“兵器”としての側面がどうにもこうにも余る、という問題だ。しかもそれが種族として存在するなら、その星自体が宇宙の脅威、災いの元凶以外のなにものでもない。(まあ実際マンガの『ウルトラマンSTORY 0』ってそういう話だが)
正直、もはや地球人を絡ませる物語展開って、無理なんじゃなかろうか。
もしやるとしたら、それこそクトゥルー神話と並べるしかないし、そうしたら地球なんかあっという間に木っ端微塵という気がしなくもない。
(たぶんこの項これで終わり/だってもうどうしようもないもん)