かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

怪獣とはなにか(基礎的分類篇)

 特撮映画などに登場する怪獣というものは、およそ二種類に大別できる。
“なっちゃった怪獣”と“した怪獣”だ。
 他国のことはいざ知らず、日本で怪獣と呼ばれるものは、ほとんどが後者といえる。

 ……と無造作に「他国のことは」などと書いているが、個人的には今いわれる怪獣というものは、日本独自のものだと考えている。
 語源的には、古く中国の『山海経』(せんがいきょう/B.C.4世紀〜3世紀頃)に怪獣の語が表れるというが、そしてそれはまさしく怪しい獣のことなのだが、ゆえにこそそれは今いう怪獣とは異なるものとすべきだろう。ことばの意味は変わるのだ。だいたい「愛」だってそもそもは生理的衝動に近い度を越した欲望、といった風合いの意味を備える仏教用語なのだから。
 英語だと monster が相当するらしい。しかし monster には怪“獣”とは異なる印象がある。monster は強いていうなら怪“物”だ。creature も違う。これが怪獣に近い意味で使われた時の印象は、怪“生物”、あるいは異形か。
 実際、海外のさまざまな作品群に monster は数多登場するものの、怪獣、という呼称にふさわしいものには不勉強にしてまだ遭遇していない。
 たとえば1998年のハリウッド映画『GODZILLA』が海外の monster の代表格であって、あれが怪獣だと思う日本人はいないだろう(断定)。
 こういう差異は大きく民族性、国柄あるいは固有の文化が育む直感的な印象に左右されるもののようで、だから怪獣という概念自体が日本文化のひとつだと考える次第だ。それは能や歌舞伎と同じ括りのものといっていいと思う。
 いうまでもなく怪獣の元祖はゴジラだ。
 遡れば神話にも講談の類にも怪獣めいたものはなんぼでも出てくる(実際、東宝映画『日本誕生』[1959]に登場する八岐大蛇は怪獣以外のなにものでもない)。それでも、怪獣という名を戴き怪獣として現われ怪獣として“活躍”した元祖は、昭和29(1954)年のゴジラだと思う。
 ゴジラについては当時からさまざまなひとびとがさまざまな解釈や意見を提示し、今なおそれは続いている。その辺りもまた元祖怪獣たる存在感があればこそ、というものだ。

 そういう“もの”、日本独自の概念である怪獣には、二種類がある。
“なっちゃった怪獣”というのは、作者(たち)があるイメージモチーフを具体化した時、どうもこれは怪獣って呼ぶしかないんじゃね? というものが生じた、そういうかたちで現われるものだ。
“した怪獣”というのは逆に、怪獣が求められているので、それに相当しそうなものを怪獣というフレームに押し込めてみた、というもの。怪獣になったのではなく、怪獣にしたというわけだ。
 この違いの説明、やはりゴジラが扱いやすいのでこれでいくが、初代『ゴジラ』をつくる時、スタッフは直立二足歩行のアレを求めたわけではないと思うのだ。
 戦争や兵器、科学、恐怖や破壊、映画としてのエンターテインメント性などを組み合わせ練り合わせていったら、最終的にあのかたち――単に外見だけでなく、映画自体の構成も含めて――になった、というものなのだろう。“なっちゃった”のだ。
 一方、怪獣がウケたので、じゃあまた怪獣映画をつくろう、ということになると、これは動機からして違う。怪獣という“器”まずありき、だ。じゃあどんな怪獣にしようとか、それならこんなものを怪獣で表現してみようとか、そういうスタイルになる。当のゴジラも、二作め『ゴジラの逆襲』(1955)がすでにそうなっている。
 もちろん、この両者のどっちが偉いとかすごいとかの話ではない。初代『ゴジラ』だって、先に現代批判の気持ちがあった上で、それを怪獣に託した、という部分はなきにしもあらずだったはずで(よくいわれる『原子怪獣現わる The Beast from 20,000 Fathoms』[1953]に触発されたのだろうという説はその通りだろうと思う)、その点では“した怪獣”といえるのだろうが、しかしそれでもゴジラは手さぐりの中からあのスタイルになっていったはずだと思っている。なっちゃったものなのだ、と。

 全体的に、“した怪獣”より“なっちゃった怪獣”の方が、作品そのものはおもしろくなる傾向があると思う。
 まあそれは当然といえば当然で、作者当人もなんだか把握していないようなものには、逆に作者当人が最も色濃く顕れる。意図して“する”時には作為が介在し、それはよくも悪しくも韜晦的であって、つまりは作者の制御が充分に利いている。作者が出したいと思ったものだけが出ているといってもいい。
 だが、なっちゃったものに関しては、これはもう相当に作者の制御から逸脱していて、だから作者自身も気づいていないような作者の奇妙な一面があちこちに露呈している。
 創作物に触れることのたのしみの大きなひとつに作者という個人の“真実”に触れることがあるとするなら、“した怪獣”より“なっちゃった怪獣”の方が、それが実現する機会が多いのだ。
 だいたいにしてそれは“怪”な“獣”であって――あやしいけものではなくカイナケダモノ――、コントローラブルだったら全然怪じゃない。
 その点において、どうしても「ヒーローに倒されるために登場する」怪獣は、怪獣としては弱いといわざるを得ない。
 ただ、ヒーローに倒されるために登場“させられる”怪獣であっても、そいつがとことん意味不明なものだったら、ものすごーく怪だ。
 初代『ウルトラマン』第17話に登場する四次元怪獣ブルトンなんて、その方面の巨大なアイコンといえる。敬愛する太田愛によるものは『ウルトラマンティガ』第21話『出番だデバン!』に登場した魔神エノメナからして、その意図がまったくわからないという点で(作中、GUTS隊長イルマによって「侵略者」と定義されるものの)やはり怪獣だ。

 もっとも、この括り――“なっちゃった怪獣”と“した怪獣”の別は、そう厳密なものではない。こりゃ明らかに“した怪獣”だね、という怪獣はあるが、“なっちゃった怪獣”の方はだいたいグラデーションがかかっている。
 ここまでは“した”風なんだが、どうもこの辺からは“なっちゃった”感が強いな、というものとか、まだらに「あ、この辺が“なっちゃった”だ」なんてのがぽちぽちぷつぷつと出ていたりする場合もある。そのバランスが“なっちゃった”>“した”の場合、これを“なっちゃった怪獣”とする、という感じか。(もっとも中には、明らかに“した”怪獣で“なっちゃった”は一点のみなのに、その一点があまりにもインパクティブなので“なっちゃった”にすべき、というものもある)
 そして、“した怪獣”も、強い主張をもつ作者の、主張のためのもちゴマとして巧みに活用されていれば、作品内で強烈な個性、存在感を放つ。上原正三作品はさながらそのタイプの博覧会のようだ。当然、作品自体もおもしろい。これは上原正三という“人間”が作品の隅々にまで行き渡っている、つまり怪獣どうのに関わらず作者に触れるというおもしろみが実現されているからだ。上原正三は常に剥き出し丸出しの、希有の書き手だと思う。

 そういう視点から見た時、特に欧米の作品に怪獣が見当たらない理由もわかってくる。
 彼らの作品群は基本的に人間至上の観点からつくられており、しばしば人間の背後には(未だに)“神”がいる。人間以外で、かつ神の影響下にないものは、およそただの悪役としてしか登場せず、当然そこには道具としての価値しかない。道具はすべからくしてコントローラブルだし、理解可能だ。
 そこに怪獣が備える根本的なもの、異質あるいはまったくの異存在としての“魅力”はない。

“なっちゃった怪獣”は、だから、もっと日本の独自文化として評価されてよいのではないかと思っている。そして、それを描ける(登場させられる)作家もまた、評価されるべきひとたちだと思う。