かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#4 僕のこと。】-05

(承前)

「……というわけだよ。理解は及んだかね?」
 田野さんがそう結んだ時、僕はどう答えていいかわからず、呆然としていた。
 田野さんが話すうちに、タワーの特別展望台はもう閉館していた。それからもうずいぶん時間が経って、周囲に人影はなくなっている。枝葉を削いで文字にまとめれば大した量でもないけれど、実際には田野さんの話は、それだけ細かく、長かった。
 そしてその話は僕にちょっとした酩酊感をもたらし、拒否するまでには至らないもののかなり濃い不信の念を抱かせていた。僕にとってその話は唐突過ぎたし、それにまず第一に正直にいえば、僕には話の中身が理解しきれていなかった。話が込み入り過ぎていた。
 だいたい、すべての心はひとつ、なんてひどくうさん臭いじゃないか。物理的ではない空間なんて部分も、コジツケめいていてウソっぽい。それがアリなら、科学はどんな現象だって説明できてしまうはずだ。でも科学はそれをしない、しちゃいけない。それを排除して、すべてを理屈で説明できるようにしようという努力こそが、科学であるのだから。
 そして僕は、そういう方法で――科学的な方法で、僕を、僕の周囲のことを、理解したいのだ。コジツケで納得したいわけじゃない。
「ふむ。やはり抵抗があるのだろうな。それはそうだろう」
 田野さんは動じもせずに頷いた。その超然とした態度も、なんとなく怪しい。
 僕は、だから口を開いた。とにかくなにか言わなくちゃいけない、と思った。
「えーと……その、抵抗があるっていうか。まず第一に、ことばが難しくて、理解できませんでした」
 これはまあ、ウソじゃない。一気にに情報を押し込まれたせいもあるけれど、それを構築することば自体も難しかったと思う。理解を保留する言い訳としては、そんなに悪くないだろう。
 けれど田野さんは、こともなげに言い放った。
「それはあり得ないね」
「え?」
「私のことばをキミが理解できないということは、あり得ない。なぜって私は、キミの頭の中にあることばを取り出し、繋ぎ合わせて、キミの頭の中へ再送しているのだから」
「……って、どういうこと?」
「我々は、我々自身のことばで内容を組み立てる者ではないのだよ。我々の発言のすべては、キミの語彙に拠っている。我々は、普遍だ。いつ、どこで生じたのかは、我々自身、記憶してはいない。当然のこと、当時のことば――もし当時ことばを話すものであったとすればの話だが――も、記憶してはいない。我々の中には、内容だけが純粋なかたちで存在しているのだよ。それを具体化するために我々はキミの考えの中に入り、キミがもっていることばを借りている」
 そんなバカな、と思った。思った途端、田野さんが言った。
「そんなバカな」
 そして田野さんは、柔らかに笑った。
「この通りだ。我々はキミの考えの中に入り込める。そうしなければ我々は、ことばを交わせないのだ。なにしろ我々は、際立った特性だけを抽出された存在なのだからね。その余祿として我々は、キミ自身が考えていることも、わかるわけだよ」
「じゃあ……じゃあ、僕が考えてることは、全部……」
「然り。そしてさらにいえば、キミの心の動揺も直接に感じることができる。ミハルは、特にそういう傾向が強いらしい」
 話を振られて、美春が「えへへ」と笑った。照れたような、愛らしい笑みだった。
「ミハルはどうも影響を受けやすいものであるようだ。たとえばミハルがキミに見つけられてしまったのも、そういう事情に因る。新たな普遍、あるいは普遍とは異なるまったく新たな要素になり得る芽であるキミを看視するのが、ミハルの役目だった。だがミハルは、キミを看視するうち、どうもキミと深く同調してしまったらしいのだな」
 それが僕に、美春が見えた理由なのか。美春が僕に同調した、それで僕と美春の間にあったはずの世界の隔たりが縮まってしまった、ということなのか。
 美春は、美春から僕に近づいてきてくれた。それで僕には、美春が、見えた……。
「私がキミの前に姿を現すことができたのは、私から敢えてキミに近づいたからだ。与えられた役目を果たすには、その必要があった」
 そうだ。田野さんが姿を現した時、黒い澱みはサッと消えた。それは田野さんが、自分から同調してきたからということか。美春の時のように、自然に、次第に近づいたわけではなかったから、ということか。
「キミに同調し過ぎたミハルは、もうひとつ困った現象に遭遇したようだよ。一昨日になるか、キミが再び、世界の一部の喪失感を感じた時だね」
 ああ、あの時。図書室の彼女が失われた時だ。あの時美春は、びっくりするほど暗い表情をしていた。それはつまり、僕自身の暗い気持ちに美春が同調して……。
「そう。あたしあの時、マサフミからすごく強い感情を受け取ってた。それはとっても暗くて、恐くて、どきどきするものだった。それがそのまま、出ちゃってたの。そのすぐ後に消えたのは、偶然じゃないわ。マサフミをずっと見張ってて、やっと訪れた機会――マサフミが“アレ”を感じた、っていうことを、報告しなくちゃいけなかったの。それがあたしの受けていた、命令」
 なんてことだ。美春は僕の鏡みたいなものだったのか。美春の行動のほとんどは、僕の心をそのまま映し出したものだったわけか。
 けれど確かに、そう思えば納得できる。なぜ美春は、僕好みの姿をしているのか。なぜ僕は、美春に好意を覚えたのか。
 日常の違和感のなさも、不思議はない。なぜって美春は、僕に見えた時点で、ほとんど僕自身みたいなものだったのだ。客観のフィルターさえかかっていない、剥き出しの自分だ。危険や嫌悪を感じなくても、当然じゃないか。
 美春のほとんどは僕自身――でも、完全な僕自身じゃない。美春には、美春だけの要素がある。それがなにかといえば、普遍としての美春の本質。そしてその美春が与えられた命令……
「え?」
 僕は思わず声を出していた。
「美春、さっきなんて言った? 美春の受けた命令がなんだって?」
 美春は僕をまっすぐに見て、答えた。
「マサフミを、見張ること」
「じゃあ……まさか美春は……その……」
「ミハルは、見張るだよ。最初からそう言ってるじゃない」
 ということは美春は、――たとえば“喜ぶ”や“哀しむ”のような、またあるいは“痛い”や“甘い”のような、そしておそらくは“考える”や“思う”のような、普遍としての“見張る”だったのか!?
 僕はクラクラしながら、蚊の鳴くような声で尋ねた。
「すると、田野さんは……」
「普遍としての私は、ものごとを伝えることを担っている。ただし、伝えることには幾つもの種類がある。私は便宜上、伝えるものの三番目として存在している」
「伝……の、3……」
「然り」
 なんだそれ……いったい、どうして……僕は……。
「は」
 喉から声がこぼれた。
「はは、は……。は、は……」
 それは僕にも奇異な声として聞こえていた。いったいこの音はなんだろう、と僕自身が訝しく思ったほどだ。
「はははは……ははは、ははははは」
 それが笑い声だとわかった時、僕は本当に驚いた。僕は笑うのか。こういう場面で、僕は笑うのか。
「それもまた、普遍のもたらすことだよ」
 田野さん、いや“伝の3”が言った。
「“笑”の普遍――これもまたいくつもの分類があって、その数は十や二十ではきかないのだが――、それがマサフミの心の中に組み込まれている。そのうちのひとつが、マサフミの中で今、初めて発動したのだ」
「ははははは! はははは、ははははは!」
「マサフミに限ったことではない。そうして自分自身でも初めて出会う自分の感情に、ひとはしばしば驚く。それは、心の一部として、心の総和からもたらされているものなのだ。そうしてひとびとは、知らない間に感情を共有している。心は強く繋がりあっている。というより、そうして共有されるものを、心と呼ぶ」
「あはは、あははは……はは……もう、もういいや、わかってもわからなくても。うふ、うふふ……。僕、なんだかおかしいよ。すごくおかしい。あーっはっはっはっは!」
 僕はもう堪えることもなく、ひたすらに笑っていた。笑い続けた。笑いながら思っていた。もう理屈は無意味だ。だって、こんなに鮮やかな現象が、僕の身の上に起こっているじゃないか。どんな理屈があっても、この現象にはかなわない。

(続く)