かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#4 僕のこと。】-08

(承前)

 以上で、僕が中学二年生だった頃の秋に経験した、ちょっとした物語は終わりだ。
 実際にはその後、少なからずの事々が起きている。たとえば僕は、どうやって東京タワーから降りたのか。なにしろ僕には、肉体がある。エレベーターが動き出してくれないことには、降りようがない。それは結局、展望台の中で夜明かしをして、最初の下りに乗り込んだということになるのだけれど、あの時間――最初のエレベーターを待つ時間は、いや本当に長かった。
“伝の3”や美春との別れもあった。“伝の3”はとにかくとして、美春との別れは、僕にとってけっこうつらいものになった。美春にとってもそうだったらしいのが、せめてもの救いだ。その辺のことを麗々しく飾りたてて書いたら、それはそれでちょっとした物語になるのかもしれない。でもそれは、やめておく。美春とのことは、やっぱり、僕と美春だけのものにしておきたいから。
 そして、あの時から、もう二十年ほどが過ぎた。僕もすっかりいい齢だ。もっとも、伯父さん――僕が中学一年生だった時に死んだ伯父さんよりは、まだ若い。
 でも僕は、伯父さんの齢に追いつくまで生きていられるものかどうか、わからない。
 といっても僕は、明日をも知れない死病に取り憑かれているとか、餓死寸前の極貧の底にあるとか、またすぐ目前に常に死がある危険な場所にいるというわけじゃない。ちゃんとこの日本という国で、それなりに安定した暮らしを営んでいる。それでも僕は、あと十年もこの世界にいられるものなのかどうか、わからないと思っている。迎えはあるいは、今日にも突然やって来るかもしれないと思っている。
 ――それにしてもこの二十年ちょっとの間、僕にも社会にもいろんなことがあった。
 僕が高校に入学した年には、チェルノブイリ原発事故があった。日本でも放射性物質が検出されたとかで、新聞はけっこう騒いでいた。
 高校に通っているうちに国鉄はJRになり、昭和は平成になった。浪人をしている頃にテレビに映し出されたベルリンの壁の崩壊劇には、かなり驚かされた。
 若貴ブームソ連崩壊。バブルの破裂。サリン事件。阪神大震災。まだまだいろいろある。僕を取り巻く外界は、そして、どんどん変わっていった。
 僕はといえば、一浪をして私大に入り、一応はちゃんと四年で卒業した。就職の年はかなり景気が悪かったものの、僕は、アルバイトでコネクションのあったごく小さな広告屋になんとか滑り込むことができた。それから丸々十年が経って、会社はどうやらまだあるし、僕もそれなりに発言力を得て、きっちりと仕事はこなしているつもりだ。
 そして、そういう表向きのこととはまったく別に、僕の中でずっと続いていることがある。それはもちろん、アレ――誰かが亡くなるとともに無くなっていくもの――に関することだ。
 そもそものきっかけだった、あの感覚。それを感じることが、あるいは、僕自身の存在意義なのかもしれない。“伝の3”にそう言われてからというもの、僕はその感覚を自分から積極的に探すようになった。というより、余分な欲を捨てた。
 補充され続ける新しいものを探そうとか、なにが無くなったのかを知りたいとか、そもそもそれがなんのためにあるのか考えるとか、そういう欲。それを捨てて僕は、無くなる感覚だけに意識を集中させるようになった。
 効果は徐々に現れた。最初こそ、ごく親しい相手の感覚しかわからなかったけれど、コツのようなものを体得してからは、かなりの数の“無くなる感”を、毎日のように感じ取れるようになっていった。そしてそれは、次第に具体的な印象を僕に届けてくれるようになった。もちろん、無くなってしまったものの詳細は、相変わらずわからない。それでも、どの方角でそれが起きたか、無くなってしまったものはどれほどの大きさを備えていたのか、ぐらいのことはわかるようになった。
 こうなるともう、世界中の死が僕に集まって来る、という感じになる。実際それで、ノイローゼ気味になったことがあったぐらいだ。
 けれど僕は、次第にその力を制御できるようになることができた。というより、それができるようになれたからこそ、今でもこうして生きていられるわけだ。そうでなければ、毎日ひっきりなしに訪れる誰かの死、誰かの世界の消滅という事実の重みに、僕というちっぽけな世界など、あっさり潰されてしまう。
 そして今、僕は、ほんのちょっと気持ちの向きを変えるだけで、誰かの世界の消滅を知ることができるようになっている。ちょっと危なっかしいヤツのようだけれど、大丈夫、ナカニシを除いては結局誰にもこの話をしなかったから、僕のこんな能力を知っているひとはこの世にいない。それに、僕のいる世界――これは僕個人の世界の方ではなく、接している外界の方だ――では、誰かが亡くなったことだけを知ることができても、なんの役にも立ちはしないのだ。能力のことも、誰かの世界の消滅も、強いて誰かに知らせる必要はない。
 ともあれ、僕は思う。もし僕の能力が普遍になったら、世界はどうなるのだろう、と。
 あの時“伝の3”は言っていた。もしかすると僕の能力は、普遍のひとつとして認められるかもしれない、と。そもそも美春は、その能力の看視のために寄越されたのだ、と。だから、僕が普遍になる可能性は、それなり以上にあるはずだ。
 誰かが亡くなることを、誰もが感じ続ける世界。それは、今の世界から考えると、かなり重苦しい世界であるように思える。でもそれは、悪い世界じゃないんじゃないか、と思う。そういう世界では、少なくとも、誰もが今より死を具象的に捉えることができるようになるはずで、それはきっと、心の――つまりは命の維持に、それぞれをより前向きにしてくれるはずだ。自分のものに対しても、誰かのものに対しても。
 一方で僕は、懐疑的にもなる。個々の心が携えるものは、同時に存在するすべての心に共有される、と“伝の3”は言っていた。でも僕の周囲に、僕と同じ能力を備えているひとはいない。世界中を探せばどこかにはいるのかもしれないけれど、でもとりあえず僕の周囲にはいないのだ。
 あるいはそれは、僕同様、うっかり口に出したら変人扱いされそうだから秘密にしているだけなのかもしれないけれど、本当に他の誰も感じていないのかもしれない。共有はしていても、それが発動していない状態なのかもしれない。
 もし後者だったとしたら、僕が普遍になったとしても、世界は変わらないことになる。僕が普遍になることに、あまり意味はないということになる。
 それでも最近、僕は感じている。
 どうやら僕の、この世界――僕の内側の世界ではなく、僕を取り囲む外界の方だ――での役目は、片づきつつあるらしいと。
 それは別に、根拠のある感覚ではない。そして、後ろ向きなものでもない。
 後ろ向きなもの――それはたとえば、仕事に行き詰まりを感じた上での逃避とか、生きること自体への飽きとかのたぐい。そんなものとつきあっていくよりは自分自身をとっとと片づけてしまえ、という考え方のことだ。少なくとも僕は、そういう感じ方をしているわけではない。ただ、ここ数か月の間、なにか予感めいたものを覚えて仕方がないのだ。
 迎えが来るのかもしれない。それは美春たちの同族で、名前は多分“迎える”とか“呼ぶ”とかになるのだろう。そういう事象を担当する普遍が、黒い澱みをまとって僕の視界に現れる。そして僕は、彼らに手を引かれて、そちらの世界へと移動する……。
 美春は言っていた。移動すると、以前の記憶はすべて忘れてしまうものだと。
 でも僕は、そちらの世界へ行けたらいい、と思っている。
 別に、僕自身が普遍になってみたいから、というわけじゃない。僕はただ、感じるものであり続けたいだけだ。
 誰かがいた。誰かの世界があった。残念なことに僕がそれを感じることができるのは、それが失われた時だけだ。けれども、それでも僕は、“在った”ことを感じることができる。誰が知らなくても、僕は感じることができるのだ。誰かがいたことを。誰かの世界があったことを。
 たとえば君が死ぬ時、僕はそれを感じたい。君というひとがいた、ということを。
 それは確かに、手遅れの話ではあるんだろう。どうせなら生きているうちに、というのが僕自身の本音でもある。けれどそれでも、君がいたということを、僕は感じたい。感じ続けたい。君たちの存在の証に、僕はなりたいんだ。
 僕が普遍になれれば、それがきっと、実現できるはずだ。
 そして僕はきっと思うだろう。そうして無くなっていくすべての世界、それを構築していたすべてのひとびとに、それだけの意味と価値があったのだと。僕は、それを感じるために――記録するためにいるのだ、と。
 きっと迎えは来る。来てくれる。
 僕は今、その時を――視界に黒い澱みが映る日を、心待ちにしている。

(了)