かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#4 僕のこと。】-07

(承前)

「さあ、外を見に来たまえ」
“伝の3”が僕を振り返り、言った。
 僕は、まだはっきりとしない頭を少し振って、立ち上がった。
 あの後、僕たちは笑いに笑って、いい加減に疲れ果てた頃には、すっかりぐったりしてしまった。そして僕はどうやら、そのまま眠り込んでしまったらしい。
 ただ、その間も僕は、ずっと美春の手を握りしめていた。目が醒める時、その手を引き上げられるような感じがした。それはたとえば、水の中にたゆたった後、ボートに上がろうと差し出した手を、クルーが引っ張ってくれた――そんな感じだった。
 目を醒ますと隣には相変わらず美春がいて、僕に寄り添っていてくれた。“伝の3”は窓際に立って、外を見ていた。
 そして僕は、声をかけられたのだ。
「これを見せようと思ってね。ここまでやってきてもらったのだよ」
“伝の3”は、そう言って再び窓の外を向いた。僕はふらふらと歩き、彼に近づいた。美春がそばで、気づかってくれている。
「見たまえ、マサフミ」
 言われて僕は、窓の外の景色を見た。
 見て、「あっ」と呟いたきり、ただ唖然としてしまった。
 東京の夜景。
 それも、地上高250メートルの位置から見下ろす夜景。
 それが、こんなにも圧倒的なものだとは、考えてみたこともなかった――
 最初僕は、天地がひっくり返っているのかと思った。
 足元の一面にばら撒かれた、数えきれない光の粒。ずっとずっと遠くまで、まさに見渡す限り、それは続いている。
 一方で空は暗く、そこに星があるのかどうかさえ怪しいほど黒かった。それは無表情な闇に見えた。
 ずっと昔、山奥の道で、空いっぱいに星が広がる風景を見たことがある。あれは、千葉だったろうか。夏だった。家族で車に乗り、海へ泳ぎに行った。ところが帰り道、ひどい渋滞に出くわした。父さんは「山を横断してみよう」と言った。確かに距離としては、海沿いを走るよりも近いはずだった。でも慣れない道で、しかも日は次第に暮れ、僕たちは迷った。
 迷いながら走るうち、僕はどうしても用が足したくなった。それで父さんに車を停めてもらい、降りた。
 その時に見上げた夜空。
 それはすごい光景だった。
 周囲は山に囲まれていて、ただ黒い。その山の端から突然に、空が白っぽく始まっていた。白っぽい空――それは、星で埋め尽くされた空だった。あまりの星の多さに、空全体が白っぽく光っていたのだ。
 それを天地、ひっくり返したような感じ。
 いや、今見える東京の夜景は、もっとすごい。ひとつひとつの明かりは星よりずっと大きいし、ずっと眩い。力強く主張し輝いて、大地を覆っている。
 見渡す限りずっと、明かりの海。
「どうだね、マサフミ」
“伝の3”が問いかけてくる。
「……すごいです。ものすごいです」
「うむ、そうだろう」
「きれいで、鮮やかで……こんな光景、僕は他に知りません」
「マサフミ、考えてくれ。今キミの目には、無数の光の粒が映っている。では、その光の粒の実体は、いったいなんだと思うね?」
「……それは、電気の明かりでしょう?」
「マサフミらしい答えだ。然り、確かにその通り。では、その明かりはどのように灯されているものか、考えてみたまえ」
「……え?」
「つまり、明かりは誰が灯しているか、ということだよ」
 僕は、ああそうか、と思った。
 明かりは、ひとのいる場所にしか灯されない。それが窓から漏れる明かりなのであれば、その明かりの下には、必ずひとがいる。
 どんなひとが、そこにはいるのだろう。
 それはたとえば、会社の事務所の窓から漏れる明かりなのかもしれない。その事務所には、この時間、早く帰りたいのを我慢して、愚痴のひとつやふたつもこぼしながら残業しているひとがいるかもしれない。別の事務所には、いい成果をあげたくて、帰ることなんか考えず必死で働いているひともあるかもしれない。
 それはまたたとえば、マンションの一室の窓なのかもしれない。その部屋にはテレビを見ている子供がいて、夕食の後かたづけをしている母親がいて、父親は新聞を読んでいるのかもしれない。仕事に出かけてまだ帰らない夫を、半ばイライラしながら、半ば恋しく思いながら待つ新妻が灯している明かりもあるに違いない。
 その夫が寄り道している酒場の明かりもあるだろう。僕のような学生が勉強している部屋の窓の明かりだってあるだろうし、旅の途中で東京に立ち寄ったひとが、宿で灯している明かりもあるだろう。
 街灯だって、ひとの存在を大前提に灯されるのものだ。この東京という街では、ひとが存在しない場所に明かりはあり得ない。
 光のひと粒ひと粒が、みんな必ず、ひとを含んでいる。明かりというかたちになって、ひとがそこにいることを主張している……。
「その通りだよ、マサフミ。あれはすべて、ひとの姿なのだ。この明かりの数だけ、いやそれ以上の数、ひとがいると思っていい。そしてこれは物理的な問いだが、あの明かりはどのような手段により灯されているのだね? マサフミ流に答えてくれたまえ」
「ええ。ほとんどが電気の明かりです、そしてそれは電線で繋がってる」
 そうだ。ひとつの家庭で灯されている明かりは、街を縦横に走る電線に繋がっている。電線は集まり高圧線になって、変電所へ。変電所からは発電所へ。それらはひとつずつ散らばっていながら、結びついている。他の街では違うこともあるだろうけれど、この東京の明かりはそういうかたちで、遍く繋がりひとつの体系を保っている。
「象徴的だとは思わないかね。ひどく無粋な象徴ではあるが、しかし、こうして光景として見る時、それはやはり……」
「すごいです。ものすごいです。もう……なにも言えないぐらいに」
“伝の3”が大きく頷いた。
 動く光の粒がある。あれは自動車のヘッドライトだろうか。瞬く光の粒がある。空気の揺らぎか、遠くのネオンサインか。輝いている。すべてが輝いている。
 そして、僕が視線を足元の方へ向けた時、ごく近くのビルの窓の明かりが、ふと消えた。
「ああ、そうか」
 僕は声に出して言った。
「これが僕の能力だ。僕の心が携えているものだ」
 多くのひとは、自分が灯している明かりのこと、目に見える明かりのことしか、普段は考えない。それが電線で繋がっていることも、総体としてこれだけの明かりになっていることも、考えない。だってそれは、特に考える必要のないことなのだから。
 そして、もしこうやってそれを一望する機会があったとしても、これだけある光の粒の中で、どの光が誰で、なんてことはわからないだろう。いつ、どの明かりが点いて、どれが消えて……なんてことは、なおさらだ。
 でも僕は、とりあえず、消えた明かりを知ることができる。それだけだけれど、僕にはとにかく、その能力がある――らしい。
“伝の3”が言う。
「その能力が役に立つものなのかどうか、それはまだわからない。それがわかるまで、まだ時間が必要になるだろう。マサフミ自身が、その能力をより確かにする必要もあるかもしれないし、その能力の使い途を考える必要もあるかもしれない。ただ、その能力は、特別なものではあるのだ」
「僕は、嬉しい――と思います。僕に、そういう能力があるということ自体が」
 そうだ。僕は嬉しい。光が消えること、それ自体は嬉しいことじゃない。けれど、消えることを知ることで、逆説的に僕は、そこに明かりが灯っていたことを知ることができるんだ。そこにひとがいた、ということを知ることができる。それが嬉しい。
 え? 今僕は、なにを思った?
「ひとがいた、ということを知ることができるのが嬉しいって思ったんだよ」
 美春が言った。
 僕は美春を見た。
 穏やかな、満ち足りた笑顔をしている。そうか。これが僕の今の心のかたちか。
 ひとがいた、ということを知ることができるのが嬉しい。それは、ひとがいること、そのものへの喜びだ。誰かがそこにいる。そのことへの喜びだ。
 じゃあ、誰かがそこにいることが、なぜ僕には嬉しいんだろう――。
 いや。
 それはまだ、早い。それこそまだ、早過ぎる。僕はまだ、それを結論づけられるほど、立派なものにはなっていない。
 いいじゃないか。ひとがいることが嬉しい、そう思えるというだけで。今は。
「それでいいのだよ」
“伝の3”が言った。
「意味はまだ必要ない。それはこれから探せばいい。どうあれキミは、それを感じられるのだ。あるいはそれが、キミの存在意義そのものなのかもしれない。そこからどんなものが導き出されるかは、まさに未定だ」
 僕は尋ねた。
「あの……僕は、“伝の3”さんや美春みたいな普遍に、なるんでしょうか。なることができるんでしょうか」
“伝の3”が腕組みをしてうなる。
「それは私には判断できない。ただ、そうなる可能性はあるだろう。ミハルがキミについた時点で、その可能性はすでに認められている。ただ、さっきも言った通り、キミの能力はいささか普遍の定義からは外れている。それが見極められるのには、まだまだ時間がかかるはずだ。それに……」
 言い澱んだ“伝の3”のことばを、ミハルが引き継いだ。
「あたしたち、自分自身の役割の他には、憶えてることってないのよ」
「え? どういうこと?」
「忘れちゃう……っていうよりは、なくなっちゃうみたい。あたしは“見張る”。それ以外のことは、本当にもってない。なにひとつ」
「私もそうだ。私の役目は“伝える”だからね。私が今日説明したことは、私自身の要素ではない。“知る”の普遍――これもまた大変な数があるのだが――から、いわば借り出してきたものに過ぎない」
「だからねマサフミ。もしもマサフミが、あたしたちのようになって、あたしたちの“世界”へ移動してきたとしても……」
「僕は美春のこと、憶えちゃいられないだろうってことか。そしてその時には、美春も僕のことを憶えてはいない……」
 美春がこっくり頷いた。
「でも……だけど」
 僕は、言った。
「それでも、この能力を……なにかのかたちで、活かしてみたい気がする」
 なんのために、誰のために。そういうことはもう、問題じゃない。もしそれがわかったとしても、きっとそれは今の僕の手に負えない。
 そして僕は、もう一度、東京の夜景に目を移した。
 そこには変わらず輝き続ける幾万、いや億にも届くかもしれない明かりがきらめいている。すべてがそこにひとの存在を、その心を――ひとつずつの世界の存在を示しながら。それ同士が繋がっていることを示しながら。
 その景色が、僕には、愛しかった。
 この愛しい景色を僕は、ずっと眺め続けたい……僕はその時、心からそう思っていた。
(もしかしたら)
 僕は思った。
 はるか昔、初めて“心”を見つけた誰かも、同じことを思ったのかもしれない。それで、心を絶やさないように、それがより美しく輝けるように、美春たち普遍を集め始めたのかもしれない。
 それならわかる。僕にもわかる。
 だってそれは、本当にすごい、素晴らしいものなんだから。
 僕たち三にんは、そして、ずっとその夜景を見つめ続けていた。

(続く)