かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

倫理閑考

 ……んー。そういうもんなのかね。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/ikedahayato/20140413-00034455/

 埼玉県立高校の女性教員が、自身の長男の高校入学式への出席を優先し、勤務先高校の入学式を欠席したという。それについて埼玉の県教育長が“注意”を促したんだとか。よーするに「自分の子がそんなに大切か? 教育者なら学生を優先しろ!」ってことね。
 それに対して上掲記事では、「自分の子の優先、当然でしょう」という論を展開していて、これには俺も大いに賛成。記事全体にほぼ同意。
 でもひとつ、大きな違和感を覚えた部分がある。
 ここ。↓

>>倫理的な判断というのは、個々人が下していくものです。

 んー。そういうもんなのかね……。

 広辞苑で「倫理」を調べてみると、「人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳」とある。よくわからん。そもそも「倫」の字、訓読みでは「みち」と読む。てことは“人倫のみち”って解説は「ひとのみちのみち」ってことになる。♪みっちゃんみちみち……♪ と歌い出したくなっちゃうよ。
 そこで今度は「人倫」を調べてみる。
 するとこちらは、『孟子』の一文を引用して解説している。
「使契為司徒、教以人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」。
 それに続けて「人と人との秩序関係。君臣・父子・夫婦など、上下・長幼などの秩序。転じて、人として守るべき道。人としての道」と解説されている。

 ここで違和感の正体が見えてきた。
 上記「人倫」の項にある「秩序関係」の部分だ。
 秩序というものは「物事の条理。物事の正しい順序・筋道」(これまた広辞苑)だ。
 関係というものは「あるものが他のものと何らかのかかわりを持つこと。その間柄。二つ以上の思考の対象をなにか統一的な観点からとらえることができる場合に、それらの対象はその点で関係があるといわれる」(さらに広辞苑)だ。
 なんらかの条件によってひとつの括りにまとめられた複数のものがあり、その括りの中に設定された守るべき順番を「秩序関係」というのだな。また、その秩序が維持される関係そのものも「秩序関係」と呼べる。
 人倫とは、人間の関係性の中での序列を基本とするもので、その序列のように重んじられる“人として守るべき”原理が「倫理」。
 つまり「倫理」は、個人の持ち札じゃなく、社会という関係性の塊の中で初めて成立するものだということになる。(ここでの“社会”とは、特定の条件により個を集め関係性を与える機能的な集団、というほどの意味です為念)
 ここが違和感の源だったわけだな。

 確かに、倫理に基づく最終判断をするのは個であるわけで、ここに異存はない。
 だが倫理そのものは、ある社会でその社会の維持のために設定された行動規範のひとつであって、その運用や解釈について、個の恣意的な判断が重んじられるべきものではないわけだ。
 もちろん例外、というよりは広い視野で観た場合の当然の逸脱というものがあって、つまり個の、自分がどの集団に帰属するものであるかの認識により、しばしば重んじるべき倫理は違ってくる。
 倫理というものは、個にそれを与える(もしくは遂行を要求する)社会の性格によって変わる。そして個は、常に複数の社会に所属している。だから個が、ある場面で自分がどの社会に属していることを重んじるかにより、採用すべき倫理が違ってくるというわけだ。

 今回の件についていえば、職業倫理というものとひとの親としての倫理の拮抗があり、結果的に先生はひとの親という立場を重んじて、その倫に従ったのだろう。まあそこまで大仰な話でもないとは思うが。
 だからこれは「倫理的な判断」を「個」が「下」したものではなく、「自身がどの社会(集団)に帰属すべきかを個が判断した」もの、つまり「どの倫理に従うかについて個が判断を下した」ものなのだな。
 うん。そういう意味であるなら、違和感はない。すっきりする。
 多分、上掲記事の筆者氏の意図も、その辺だったのだろう。
 それを俺が「倫理を個が判断する」と読んでしまい、過敏に反応した。そういうことだな。

 倫理というものが秩序に結びつく原理であるなら、それは個々の判断に委ねられて然るべきものではない。でないと恣意的な判断すべてが倫理になってしまい、倫理としての用をなさなくなる。倫理にも変化はあって然るべきだが、それは関係者全員の了承によってもたらされるべきで、個が突出して判断・設定すべきものではない。
 そういう漠然とした意識が、俺の中にあったわけだ。それが違和感の始まり。

 それにね。
 倫理を個が“判断”していいものであるなら、県教育長さんとやらの発言だって個で判断した倫理であり、個がそれぞれ重んじられべきものであるなら、長男の入学式を優先した先生と県教育長だかの“倫理”に軽重の差はつけられない。当然、どちらが正当かの判断もなし得ない。原義的な意味での矛盾の状態に陥る。
 だが個々がどの倫理を選択したかという問題であれば、倫理にはそれを採る社会の規模により上下の格がつく傾向があるので(つまり友人関係における倫理と地域社会における倫理とでは地域社会の倫理の方が優先される、というような)、比較検討が可能になる。県教育長の倫理はせいぜい教育理念における倫理だが、先生の倫理は人間あるいは親子が基盤になっている。(←家庭ではないところがポイント)
 これはどうしたって先生の勝ち。
 納得。

 え。重箱の隅をそんなに突ついてどうするのかって。
 いやいや、倫理の問題は重箱の隅の話じゃないのよ。重箱自体の問題。
 少なくとも俺の中では、存在の根本にかかわってくる問題だったみたい。
 最後まで考えを組み立ててみて、そう思ったよ。