かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

歌って難しい

 歌というのも難儀なもので、簡単に歌えるものには気持ちが込めにくいらしい。
 俺は歌はあんまり得意じゃなくて、だから簡単な歌の方がコントロールしやすい分だけ自分の感情やらなにやらも込めやすいという気がするんだが、かつていっしょにやらかしたバンド仲間のボーカリストたちは一様に難しいものを歌いたがった。
 といってもメロディラインに凝るとか、いきなり音が一オクターブ半跳ね上がるとか、そういう難しさはあまりなかった。単純にいえば、自分の声域ギリギリの高さで歌いたがるのだ。余裕のある音域で歌うとテンションがさがるんだそうだ。

 声というのは肉体という物理的な存在、“楽器”から出るものなので、当然ながら個々の肉体の物理的な事情によって質が変わる。
 声帯のサイズとか肺活量とか周辺の筋肉の鍛え具合で、それぞれの歌が決まるわけだ。
 そして楽器が大きいものほど音量が豊かで低い音域をカバーする傾向を備えるように、歌もまた体格によってずいぶんと変わる。鍛練次第である程度の強化はできるが、それでも基本的におのおのの肉体の限界を越えた“音”は出ない。
 という条件がある上で、ボーカリストたちは“緊張感のある歌にするために”自身の声域ギリギリを渡るような歌を選び、つくり、歌うわけだ。

 確かに、いわゆる“張りのある声”“パンチの効いたボーカル”に、低域でぼそぼそやらかすものはない気がする。ボブ・ゲルドフはぼそぼそ系だが、彼だって高い音を出す時は出す。その出す間合いが絶妙なので、歌全体がそこへ至るための緊張感を保っている部分がある。
 そしてなるほど、そういう歌の方が、聴いていても引き込まれる。魅力的だ。
 あんまりギリギリで渡っていると、最高音はかすれるとか上がりきらないとか不安定で記譜困難とかの状態に陥るが、それすら感動を呼ぶことがある。
 彼らボーカリストのいうところのテンションあがる現象も含めて、歌っていうものはそういうものなんだろう。

 ところが。
 本来だったらそういう仕組みで、必要とされる音程まであがりきらないものの緊張感があって引き込まれるはずの歌唱であるにもかかわらず引き込まれない、どころか「えぇいなぜ出ない調で歌うかなーイライラ」という気分になってしまう歌い手というのもあるから面倒くさい。
 いきなり名指しで失礼するが、クリエイ(ー)ション時代のアイ高野がもろにそう。もちろんそれは俺にとっての話であって、むしろアイ高野のあがりきらなさにセクシーを感じるひとも多かろうと思う。でもほらこういうのって好みの問題だから堪忍。
 クリエイション+アイ高野といえば、テレビドラマ『プロハンター』の主題歌、『ロンリー・ハート』のヒットを知っているひともあるかもしれない。もう三十年以上前の作品だが、草刈正雄柴田恭兵というイケメン(なんてことばは当時はなかったが)を看板に、藤竜也宍戸錠(開のおとーさんね)、小林稔侍らダンディが束になってかかってくるという、プロハンターというタイトルに恥じない固ゆで系。そのドラマのヒットとともに、イメージぴったりの主題歌だったロンリー・ハートはウケた、売れた。それがそのまま世間のアイ高野に対する評価だと思う。
 でも俺はダメなのね。

 松田優作という伝説的名優がいて、このひとはやはり1980年前後に歌を歌った。最初は演歌だかなんだかわからん歌を歌わされていたが、山西道広(俳優。名バイプレイヤー。ドラマ『探偵物語』のまつもっちゃん。個人的には『俺たちの勲章』の上野原が好き)の勧めでブルースへ向かう。そしてクリエイションのサポートで何枚かのアルバムを出した。
 そのせいか、松田優作のレパートリーには何曲かクリエイションの曲がかぶっている。つまりアイ高野松田優作が同じ歌を別のスタイルで歌っているわけだ。
 松田優作は歌手ではない。だから歌は専門外で、下手といっていい部分もある。一方アイ高野は歌手で、だからやはり巧い。
 なのに、同じ「音があがりきらない」「音程が不確かになってしまう」ような部分で、松田優作の方が魅力的に感じられてしまう。
 確かに俺は松田優作ファンだから贔屓耳ってのもあるかもしれない。そもそも俳優の余技的な歌と比べるのが間違いなのかもしれない。でも松田優作の歌の方に俺は、歌の本質を感じちゃうのだ。“響いてくる”のである。

 なぜなんだろう、と思っていた。
 同じ「出ない音」に、なぜ片方は魅力を感じ、片方には感じないのか。
 ずっと悩んでいたのだが、最近なんとなく理解したことがある。
 それは、歌に期待するものの違いであるらしい。

 クリエイションはすごいバンドだ。リーダーの竹田和夫のギターは圧倒的だ。そして彼を支えるバックの面々もえらいテクニシャンだ。ミスタッチじゃないかと思える音すら説得力をもって迫ってくる。だから俺はクリエイションの演奏は畏まって聴く。気分的にうおーという感じになっていても、それはやはり畏まったうおーだったりするのだ。それぐらいクリエイションの演奏力は高い。カリスマ性もある。
 そこに求めるのはパーフェクト。当然、歌もパーフェクトであってほしいのだ。
 あがりきらないのにしても、ただ声域を外れるからあがりきらないのではなく、ここはあがりきらないのがいいという判断のもとに“敢えてあげない”ようなあがりきらなさがあってほしい。
 ところがアイ高野のあがりきらなさには、物理的な限界を感じてしまう。
 それはバンドのコンセプトと違うんじゃない? と思ってしまう。

 もちろんそのコンセプトだって、俺が勝手に設定したものなのだろうが。
 そういうズレがあると、やっぱ乗り切らないのよ。気分が。

 松田優作はその点、実は巧みだったんだと思う。
 自分の技術的な問題、欠点といえる部分を理解した上で、その活用法を工夫し、活かした。だから不確かな部分は情感になって迫ってきた。
 アイ高野は歌い手としては手練だったが、手練ゆえに真っ直ぐに勝負し、結果的に活用法という工夫に至らなかった。バンドの面々も全開状態で演奏しているせいもあって、情感になるべき部分が粗になってしまった。
 どうもそういうことらしい。

 いやホント歌って難しい。
 聴くのも。