かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

THT BAND/THE LAST WALTZ

 出逢いはもはや四十年前に遡る。
 ザ・バンド The Band の解散コンサートを収めた映画『THE LAST WALTZ』。
 公開は1978年。日本では7月1日に封切られたそうだ。
 コンサート自体は1976年11月25日におこなわれたという。
 監督はマーティン・スコセッシ Martin Scorsese。年譜で見るとコンサートの頃スコセッシは『ニューヨーク・ニューヨーク New York, New York』の製作に取りかかっていたはずだ。それを一旦放り出し、バンドの解散に駆けつけたらしい。
 コンサートから映画の公開まで一年半かかっている。その間に『ニューヨーク・ニューヨーク』が公開されているから、まずニューヨークを仕上げ、そのあとじっくりと編集にかかったのだろう。
 俺はこれを銀座の封切り館で観た。いや聴いた。いや観たんだが。んー。両方。
 あれはみゆき座だったろうか。とにかく銀座。多分今はもうない。

 この映画、一番最初のテロップにこう出る。
“This film should be played loud!”――このシャシンはやかましく掛けろ。
 これに従ってということか、何館かの劇場ではコンサート用のPA(Public Address)装置を使って上映された。そういう劇場を目指したら銀座だった、というのはちょっとウソ。
 たまたま友人が「おいかどい、映画のチケットもらったよ。いっしょにゆかないか」と声をかけてくれた。「なんの映画?」「わかんないんだよ。映画館のチケットで、なにが掛かっているかは知らない」「調べてみよう」ここで新聞の広告欄を引っ張りだすのが時代というやつだ。
「あっ! ラストワルツやってる!」<俺
「なにそれ」
「こないだ雑誌で見たんだけど、ザ・バンドっていうバンドがあるんだって」
「知らないなあ」
「俺も知らない。でもアメリカの伝説的なロックバンドだって書いてあった」
「へー」
「そのバンドの解散コンサートのライブフィルムなんだって」
「おもしろそうじゃない」
「観たいと思ってた。ゆこう。今ゆこうスグゆこう」
「ちょっとおい待ておい」
 ……と、そんな流れがあって、出かけたのだ。
 中学三年生の夏だから、受験勉強を放り出して、ということになる。
 うん、そんな気がする。こんなことしていていいのか、と思った記憶がある。

 その友人とは、中学に入ってから知り合った。同じクラスになったのは一年の時だけ。だが妙に仲良くなり、中学卒業後もけっこうつるんだ。今も行き来がぽそぽそとある。
 彼は幼い頃にピアノを習っていたとかで、中学ではブラスバンド部に入り、最終的には部長/指揮者になった。俺は俺で、音楽の先生にスカウトされ――その先生はどこか危なっかしい生徒を見つけると自分が面倒をみているブラスや合唱部に引きずり込んでは面倒を見るという奇特な趣味をもっていたのだ――、二年次にはコーラスに、その初夏からはブラスにも入ることになった。その辺の繋がりもあってよく遊んだ仲間だ。
 中学卒業後に彼もギターを弾き始め、高校は別になったものの19歳の頃には彼の歌とサポートギター、俺のリードギターというスタイルでフォークソングのステージをやったりもした。
 彼は俺の評価者としては最上位クラスに置きたい人物だ。曰く「なにをやり始めるかわからないから、聴いていておもしろい」。ありがたすぎるほめ言葉じゃないか。
 だからだろう、いっしょにセッションなどをすると、彼はワザと間奏部のコードを繰り返してなかなか歌い始めず、ずいぶん長いソロを俺に弾かせてくれた。
 しかもそれを言ったのが、いっしょに演奏することもすっかりなくなった二十代半ばになってからというところが渋い。やっていた当時はそんなことをカケラも言わず、でも俺は『こいつ歌わないなー弾いちゃえ、なんかにこにこしてて楽しいからもっと弾いちゃえ』とか思って調子に乗っていたわけで、すっかり操られていたという気がしなくもない。

 さて映画。
 さすがに当日は無理だったので、次の休みの日だかにのこのこ出かけ、観た。いや聴いたんだったかな。とにかくその映画館に行ってみればそこは、雑誌に“一部の劇場では……”と書かれていた、まさにその一部の劇場だったわけで、ずいぶんびっくりした。
 なにしろスクリーンの両横にずどんと立派なPAスピーカーだからね。左右一基ずつだったが、映画館でそんなのは見たことがないからね。それだけでずいぶん興奮した。
 ん。今書いててふと思ったが、あいつ実は知ってたんじゃないか『THE LAST WALTZ』のこと。知っていて俺を乗せたんじゃあないのか。そうかもしれない。あいつならそれくらいのことはやりかねない。

 そして観た映画には、ただ圧倒された。
 演奏はアメリカンバンドらしく粗削りだったし、初めて聴くバンドの音は、リーダーのロビー・ロバートソン Robbie Robertson の変態じみたリズムセンスが利いていて、それだけでトリップするほどのものだった。
 さらに、バンドの解散を知って集結したかつてのアメリカの玄人好みミュージシャンたち(てゆうかイギリスからも来ていた)が、バンドとどんどん共演する。その凄さ。
 当時はっきりわかったのは、せいぜいエリック・クラプトン Eric Claptonボブ・ディラン Bob Dylanリンゴ・スター Ringo Starr ぐらいではあったが、この映画をきっかけに辿っていってマディ・ウォーターズ Muddy Waters だのニール・ヤング Neil Young だのジョニ・ミッチェル Joni Mitchell、ザ・ステイプル・シンガーズ The Staple Singers といった面々の“仕事”にも出逢うことになる。

 どのミュージシャンともまるで何十年のつきあいのように溶け合い、それでいて自らの個性を失わないバンドの存在感もすごかったし、バンドの解散コンサートだからといってバンドに媚びようともしない共演者たちの図々しさにも参った。
 音はデカかったがフィルムのせいか音の輪郭が今ひとつだったのは残念だったが、それでもそれは充分に loud な音だったし、あるいはそのボケ加減がむしろライブらしくてよかったのかもしれない。

 今さっき iTunes からその音盤に含まれる『Caravan』(ヴァン・モリソン Van Morrison)が流れだし、聴き入ってしまった。
 この曲は映画でもハイライトといえる場所にあった。
 いい加減肉体的には下り坂のヴァンだったが、太ったからだを揺さぶり、あがらない脚を蹴りあげて幾度ものリフレインを全力疾走し、最後はヘロヘロになってステージからこぼれ落ちるように去っていった、その姿にはただただ畏れ入った。
 あの時のヴァンは決してカッコよくなかった。中途半端に齢をとってしまい、衰えているくせにノリノリ。中学生から見たらマジだっせークソおやじ。でも震えた。観ていて、本当にぶる、ぶるっと震えた。なんだかわからない力があった。

 いや、ヴァンだけの話じゃない。
 バンドもそうだった。今にも脳溢血を起こしてすっ倒れそうなマディ・ウォーターズの力みっぷりがすごかった。バンドのつくった創作ゴスペル『The Wight』をポップゴスペルの本家ステイプルズが歌った、ことにメイヴィス・ステイプルス Mavis Staples の“黒い”としかいいようのない歌いっぷりがすごかった。こいつらデキてるだろ絶対と思えたのは、ニール・ヤングとジョニだ。映画でのニールは『Helpless』を歌ったが、これにジョニがカウンターのコーラスを入れる。おそらくほぼアドリブ。この場面でのジョニはシルエットでの登場で、顔は映らない。ジョニはバックステージで、ニールの歌にしっとりと絡みつくような声をかぶせている。ニールが“Baby, can you hear me now?”と歌うとすかさずジョニが“I can hear you now”とやったりする。間奏部でニールは、タイミングをわざと外してハーモニカを吹き始めるが、ジョニは完全に同じタイミングでコーラスを入れる。なにその一体感。あーんもぉやらしいったらぁ。

 この“映画”には、いや、バンドの解散には、いろいろとおとなのウワサも聞く。
 ロビーが解散したがって勝手に話を進めたとか、希代のライブ映像は実は綿密な打ち合わせの上ミュージシャンの立ち居振る舞いすべてを決めて撮られたものだったとか、音にしてもあとから加えた音が多くライブではないとか。
 まあ確かに出来過ぎのフィルムではあるし、音ではある。
 だが、そうしたオーヴァープロデュースも含めて、これがひとつの“作品”であることは確かだし、それが感動を呼ぶものであるのも確かだ。それを以て評価することに、なんのためらいがあるだろう。ドキュメンタリズムよりも作品の力。当然のことだと思う。

 あの迫力。
 中学生の頃にはわからず、ひたすらのけぞるばかりだった。
 今なら、少しはわかる。
 これは、滅びの歌たちなのだ。
 解散コンサートなのだから当然だって? うん、まあそれはそう。
 だが、それは単にひとつのバンドが、ひとかたまりのコネクションが、ある時代が滅びる記録(record)だから、という話じゃないんだよ。
 それこそ五蘊皆空のような。
 無常の流れの中で偶さか凝ったなにものかが、再びもとの空へ戻るのにも似た。
 どうしようもない流れの中でのどうしようもない邂逅とどうしようもない崩壊が、全編にある。スコセッシの腕前なのか、ロビーの思惑か、それとも参加者全員がなにかこの日に崩れゆくきもちをもっていたのか。
 ここから生まれるものは、多分、ない。
 そういう徹底した滅びの歌の記録が『THE LAST WALTZ』であり、惜別の、あるいは弔いのとてつもない質量が、この映画の、そして音の、迫力なのだ。
 ガキんちょの俺は、それと見定める(あるいは聴き定める)ことこそできなかったが、質量は感じたのだろう。

 気がついたらその時のロビーよりもスコセッシよりもずっとずーっと年上になっている。
 スコセッシはとにかくとして、ロビーはあの時一旦本当に滅びたのだろう。
 俺はどうなんだろうな。滅びた記憶はまだないが、もしかするともう滅びて久しいのかもしれない。
 ただ、『THE LAST WALTZ』の滅びの迫力には、今だから気づけるところがある。
 ということは俺は、いつの間にか、何度か、滅びを経験してきたのかもしれない。

 まだ生きて存在はしているけれどね。
 滅びはあったのかもしれない。