ようやく『シン・ゴジラ』を観た
ようやく『シン・ゴジラ』を観た。
素晴らしい、というのは微妙に違う気がするが(なぜなら観たあとの気分が全然晴れやかではないからだ)、レベルをはるかに越えた傑作、名作だと思う。
原点回帰にして原点突破。
初代誕生から六十二年を経て、ようやくゴジラはゴジラになり、ゴジラを越えたのだ。
この映画は間違いなく次代に引き継がれ、仰ぎ見られるものになる。初代がそうであったように。
そしてこの映画に携わったひとびとは、たとえば故平田昭彦氏が芹沢博士となり、故志村 喬氏が山根博士であったように、中島春雄氏がゴジラそのものとなったように、矢口として、尾頭として、ゴジラとして語られることになるだろう。
それだけの価値のある作品だ。
これは、庵野秀明監督がどれだけゴジラを知っていたか(理解していたか)の結実だと思う。
ここでいう“知る”ということ、“理解する”ということは、単に映画としての『ゴジラ』に誰が出ていたとか、どういうコンセプトがあったかとか、時代背景は、予算は……といったことについての知識を得、考察を施すことではない。
庵野監督自身の中に“居る”ゴジラがなにものであるかを、監督自身がどれだけ知っていて、どれだけ考えてきたかということだ。
然り、庵野監督の中には、ゴジラが居た。
監督の生年は1960年であり、当然ながら初代の現場には立ち会っていない。しかし彼は『ゴジラ』をおそらく体感した。
そして自身の裡にゴジラをもち、ある時はそれに脅え、ある時は敬い、ある時は敵対しつつ、育み愛してきた。
監督自身がゴジラであったのだ。
それを恐ろしいまでの客観性で観察・分析し、さらにはより強烈な異物にするための培養と改造を施して、出力した。
そういうかたちでゴジラを知っ(てい)た庵野監督が生み出したゴジラは、まさしく初代直系の子孫というに相応しいものであり、同時に初代とは異なる個性を得た、正味の異形でもあった。
外部に在るゴジラではなく、内部に居るゴジラ。それでいて単なる自己表現ではなく、異物として疎まれ異形として畏怖されるゴジラ。それがゴジラだと、庵野監督は理解していたのだ。
そこからこのゴジラは“生まれた”。
作られるのではなく、補われるのでもなく、まして模倣されるのでもなく、文字通りに生まれる物として『シン・ゴジラ』のゴジラは存在した。
これは誰にもできることではないし、よほどの才ある者でもなぞることさえできないだろう。ここまでの経歴も華やかな庵野監督だが、もし他作が(エヴァさえも)忘れられたとしても、『シン・ゴジラ』は残ると思う。
そういう映画だと思う。
『ゴジラ』は必ず戦争と絡めて語られる。ゴジラ自体が戦争のメタファーだともされる。
だが庵野監督は(そして僣越だが私自身も)戦争を知らない。
これは幸福なことだが、一方で戦争を肌の感覚で扱えない不幸ともいえる。特に創作の場にある者にとっては、かなり苦しい条件となる。
それを補うために戦争の現場を訪れる者もあろうが、庵野監督の選んだ方法は違った。
自分の生活する範囲を無理に越えず、そこで起き得る最大の脅威を描くことで、ゴジラを“世界”の範囲に、招かれざる客としてであれ、収めようとした。
これはおおいに正しかったと思う。
ひとには器がある。その器を越えたことはできない。それを熟知した上で、自分のフィールドでできる限界に迫る。その方が作品は活きる。いや生きる。生命を得る。
物語は空想のものだが、その中に制作者の真実がなければおもしろくはならない。空想の核になるのは制作者自身の真実だ。それを履き違え、自身からどれだけ離れるかが飛躍だと勘違いする愚者は多い。真実を意識しながら、手軽にハンドリングできるレベルの真実でなんとかしようとする(なんとかなると思っている)僣上の徒もある。庵野監督はそのどちらでもなく、真実に真摯だった。
そこにこそ、ゴジラは生まれ得た。
『シン・ゴジラ』は、庵野監督の誠実の証でもあると思う。
この映画に、直接的な“悪”は存在しない。もちろん“善”も存在しない。
『ゴジラ』で、圧倒的な破壊力をもつ兵器や、その集積もしくは活用の場である戦争、それをもたらす人間の性(さが)が揶揄され糾弾の対象になるのに比べ、『シン・ゴジラ』では、そうしたわかりやすい焦点は示されない。
ただ、世代として近く、おそらく見聞した社会などの状況も重なる私の視点から観た時、『シン・ゴジラ』は鑑賞後、『ゴジラ』より暗澹たるものを残す。
この映画ではラストに再生への希望が提示される。
それは壊滅的な被害に遭いながらも笑顔で生を実行するこどもたちの姿であったり、こどもたちが未来を育むために必要な“場”が思いがけず短時間で取り戻し得ることであったりするが、しかし、その希望は空疎だ。ここにはリアリティがない。
映画の中で言及される解体と再構築(英語で言われていたがなんと言われていたか忘れた)自体がリアリティを帯びていないからだ。
もっとはっきりいえば、再構築の前提となる解体が、それこそゴジラが現れない限りは不可能だという諦念が根底にある。
庵野監督が提示したゴジラはまぎれもなく“生きている物”だったが、それはあくまでも創作物の中においての話だ。我々のリアルな世界においてのものではない。
だから我々のリアルに解体は生じない。
解体がないから、希望も実現され得ない。
そういう絶望にも近いものが、根底にある。
だからこどもたちの姿を見ても、希望が説得力をもたない。
『ゴジラ』には、「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」との名台詞がある。これは表層的には恐怖を感じさせるが、その背後には希望がある。
営まれている現状への愛着があるからこそ、ゴジラの登場が脅威となり、排除が至上の目的にもなる。維持し発展させるに足る現状があり、維持・発展をおこないたいという希望があるからこそ、最後の一匹とは思えないという発言が重みを帯びるのだ。
一方『シン・ゴジラ』では、ゴジラが登場しなければ解体は起こり得ず、当然ながら再構築もない。そして期待されるのは再構築であって、維持や正味の復興ではない。
そこに“現在”(現代ではなく)への虚ろな諦念がある。
その諦念が、提示される希望によって陰画としてあぶりだされる。
そこに暗澹が残る。
戦争を知らない“我々”が提示し得る最大の“恐怖”が、実は日常の存続だという逆説的な暗澹が残るのだ。
『ゴジラ』が戦争を知る世代にしか創り得なかった作品であるなら、同様に『シン・ゴジラ』は戦争を知らない世代にしか創り得ない作品といえる。
戦争を知らないという事情を、創作の上で誇れる条件に置き換えてしまった。
庵野監督の、これは企んだか否かはわからないが、絶後の力技といえるかもしれない。
心象の具体化、あるいは依代として役目を全うした俳優陣や、“特撮”の技術も、素晴らしいものだったと思う。監督の意図に迫り、それぞれの(文字通りの)役を実現した彼ら・彼女らの力があってこそ、映画は映画になる。
誰がどうということは割愛するが、おそらくは細切れでランダムな撮影進行の中で、各々のやるべきことを的確に把握し、それぞれの方法で視覚化していった全関係者は、みな誇れる仕事をした。妬ましいほど見事に(美事に)やりおおせた。
これもまたのちの世代に誇り得ることだと思う。
『シン・ゴジラ』は、越え難いアイコンである。
この作品は映画だ。まさに映画だ。
絶後の質量を備える、今の・揺らぎのない・偽りを挟まない、正味の映画なのである。