かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

怪獣の流用

 もともと円谷特撮は、赤字だらけだったらしい。
 特にテレビという媒体と組むようになってからは、毎週放映という条件も重なり、かなり厳しい状態になったと聞く。
 そんな状況から当然のように出てきたのが、改造怪獣というアイディアだ。
 皆さんご存知の通り、円谷系怪獣は『ゴジラ』以来着ぐるみによる撮影がメインだ。いや、もはや伝統といってもいい。
 この着ぐるみをどうやってつくるかというと、当たり前だが一頭ずつを手作りする。
 たとえばかつては、演者に厚手の服を着せ、その上に針金を巻きつけて脱がせ、これを基本の骨格として表面にウレタンスポンジを貼りつけ、およその体格ができたらそこへラテックスを塗り……なんてやり方をしたものだとか。
 最終的にはウロコの一枚一枚、角やトゲの一本一本を植えつけ貼りつけ、塗装も施して完成となる。
 頭部には口が開閉するギミックを内蔵させたり、目玉の奥には電球(今はLEDだろうねえ)を仕込んだりもするわけで、これはもう大変な作業となるし、金も時間もかかる。
 そこで改造怪獣となるわけだ。
 一度つくった怪獣を“素体”として、塗り替えたり、頭部だけすげかえたり、ヒレなどを付け加えたりして、別の怪獣とする。
 頭部にしても同様の作業を加えれば、ギミックはそのまま流用できる。
 必然といえば必然だが、いいアイディアだと思う。

 有名なところでは、『ウルトラQ』第一話のゴメスからして、ゴジラの改造だそうだ。
 この時は、東宝の所有物だったゴジラの着ぐるみを借りてきてからだにサラシを巻き、その上に植毛したりウロコを貼ったりして造形を進めたらしい。
 かのバルタン星人も、大前提が「Qに登場した宇宙セミ人間(ガラモンを操ってたやつ)の改造」だったと聞いたことがある。まずはセミ人間ありきで、それを改造した宇宙人をつくれ、という指示。だから最初のバルタン星人(『ウルトラマン』第二話『侵略者を撃て』)は顔がまるっきりセミ人間、というかセミだ。
 同様に、Qに登場したピーター(第二十六話『燃えろ栄光』)が初代マンのゲスラ(第六話『沿岸警備命令』)になったりもしている。
 ものによっては、改造も一度では済まされない。
 映画『フランケンシュタイン対地底怪獣』客演の地底怪獣バラゴンは、『ウルトラQ』でパゴスに改造され、『ウルトラマン』でネロンガになり、マグラーを経てガボラと化し、最終的には映画『怪獣総進撃』出演のためバラゴンへ戻されて東宝へ返却、となったそうだ。地味なスター、あるいは名脇役といったところか。大村千吉みたいなもんかな。
 他にも、アボラス(『ウルトラマン』)がレッドキング(『ウルトラマン』)のアタマすげ替えだとか、『帰ってきたウルトラマン』のデットンは、実は『ウルトラマン』のテレスドンそのもので、アトラク出演を重ねた末ボロボロに傷んでいた着ぐるみを塗り替えたり、歪んでしまった顔を思い切って“そういうもの”にしてしまったりして、別怪獣という扱いにした、という情報もある。(怪獣図鑑の類では、テレスドンが兄でデットンが弟の兄弟怪獣ということになっている)
 主人公だって流用する。
 たとえばウルトラの母は当初、ゾフィーの改造だったらしい。
ウルトラマンタロウ』の初回に母の着ぐるみがスケジュール的に間に合わず、デザイン画をもとに大急ぎでゾフィーに切り貼りを施してつくったのが、第一話にシルエットで登場したウルトラの母だったというのだ。
 その後新造の着ぐるみがあがってきて、やや垂れ目気味の(個人的には一番好きな顔の)ウルトラの母が登場したという。
 いやもっと前、『ウルトラマン』の最終回だって、ゾフィーウルトラマンの改造でつくられていたはずだ。土台になるスーツの劣化から途中で全身を新造し、残っていたお古のスーツが、カラータイマーを破壊されて横たわるウルトラマンになった……と思しい。
 なお、この時すでに“カラータイマーが壊れたウルトラマンはしぼんでいる”。
 その後タロウでドロボンが登場した時(第五十二話『ウルトラの命を盗め! 』)、カラータイマーを剥ぎ取られたジャック(帰マン)がしぼんだと大騒ぎになったが、おそらくそれは初代最終回へのオマージュのはずだ。
 思うにこれは、初代の中のひとが日本人離れした長身と手足の長さで、スーツを着て横たわることができるスーツアクター(でなくともよいのだが)がいなかったからなのではあるまいか。古谷氏ホント背が高くて手足が細長いんだもん。だからスーツに詰め物をして横たわらせた、が、くたばったウルトラマンがぱんぱんに膨れていてはおかしいから適当に中身を抜いた、そしたらしぼんだウルトラマンになった……という“なりゆき”の展開だったのではないかと、これは個人的に邪推している。
 怪獣をつくるのも大変なんだねえ……しみじみと。

 上記はおよそ予算とスケジュールの問題だったようで、つまり選択の余地なき方策ということになる。シナリオは次々と新しい怪獣を出してくるから、どうにかして違う怪獣にしようという努力が必要になるわけだ。
 だが、これをむしろ積極的に活かしてみようという方向性が出てくる。
 意外にもそれは、平成三部作になってからのことだ。
ウルトラマンティガ』でのガゾート/ガゾートⅡ(第六話『セカンド・コンタクト』/第十五話『幻の疾走』)のように、話そのものを“続編”としてつくってしまえば、同じ、あるいはよく似た怪獣が出てきてもおかしくない。
 また、ガギ/ガギⅡ(第十話『閉ざされた遊園地』/第二十六話『虹の怪獣魔境』)のように、以前ウルトラマンを苦しめた怪獣をやられ役で配置し、新登場の怪獣を強烈に印象づけるという方法も採られた。類似のアイディアは初代の第三十三話『禁じられた言葉』にもあったが、残念なことに初代のエピソードでは再出演怪獣(というか宇宙人)の格闘シーンはない。

 初代マンのエピソード以外にも昭和シリーズには同じ怪獣の再登場があった。しかしそれらでは、その都度着ぐるみが新造されたようだ。
ウルトラマン』最終回のゼットンと『帰ってきたウルトラマン』最終回のゼットンが同じものとは思えない。というか、内臓脂肪てんこ盛りの再登場ゼットンが最初のゼットンと同じものとは思いたくない。『ウルトラマンタロウ』に出たエレキング(第二十八話『怪獣エレキング 満月に吼える!』だって同じものとは思えない、といってもオリジナルエレキングは首も尾も切られた上に火薬で吹き飛ばされているんだから流用もなにもあったもんじゃないが。
 なによりそれらは、物語より怪獣に焦点が合わされていて、再登場を活用しているとはいえない。ある種のファンサービス、人気怪獣の復活という線であって、そもそもにシリーズをまたいじゃってるからお話の関連もへったくれもないのだ。
 同一シリーズ内で同じ怪獣を登場させ話も繋げるという発想そのものは初代の頃からあったにしても、それをしっかりとおこなえる足場はなかったのだろう。
 足場というのはつまり、設定の確かさや、シリーズ全体を統括するひとつの意志、制作現場の連携といった環境のことだ。
ウルトラQ』以降の昭和シリーズいっぱい、制作は常に尻に火がついた状態だったらしい。予算は自転車操業で、期待していた海外セールスはさほどにもならず、作り続けないと倒れてしまいかねない。毎週のノルマが切れることはなく、プリプロも含め制作現場はいつも追い詰められ疲れ果てていたのではあるまいか。
 そういう状況では、シリーズを見通した構築なんてものの実行は無理だ。誰がいたって無理だ。
 だが平成シリーズは、かかるまでの土台づくりも全体を通してのコンセプトも、制作開始前にがっつり煮詰められていたと思しい。
 それがあったからこそ平成シリーズには続編シナリオが成立し、怪獣の“正当な”流用・再登場ができたのだろうと考えている。

 そして、平成三部作の最終作ともなると、活かしようがもう全然違う。
 というより、怪獣の再登場がそもそも前提だったと思える節がある。
ウルトラマンガイア』のことだ。
 そのテーマやトータルとしての物語を考えると、怪獣が再登場しない方がおかしい。
 予算的には平成三部作もかなり厳しかったらしいので、あるいはそれを踏まえてガイアのコンセプト自体が練られたのかもしれない……というのは深読みのしすぎか。
 どうあれ結果的にガイアは、おおいに重厚になったと思う。
 たとえばティグリスなんてのは、合わせて四話にも登場している(第三十八話『大地裂く牙』/第四十五話『命すむ星』/第五十話『地球の叫び』/第五十一話『地球はウルトラマンの星』)。
 特に三十八話と四十五話の組み立ては、同じ怪獣の登場でものすごく話の密度が高まった例だと思う。
 三十八話で、地球から排除されるべき対象として登場したティグリスが、四十五話で地球を護るものとして姿を現す。もちろん同種の別個体だが、同種がそこに現れることで、人間の行為の意義や“ガイア”の意志が、よりはっきりと問われることになったと思う。
 その流れがあるから、最終シリーズにティグリスが三度めの登場を果たすのは必然だったと思うし、そこで三たびやられ役の悲哀を舐めさせられることになっても、そのおかげで話は深みを得た。本当に出てくるたびに酷い目に遭うんだよなあティグリスは。無念の表情が似合うというかハマるというか。ティガのガーディーと同じくらい好きな怪獣なんだよな。
 シャザック(第三十三話『伝説との闘い』第五十話、第五十一話)なんてやつは再登場時には殖えちゃったりしてて、「ああ、こいつらも生きているんだなあ」なんて感じさせてくれたなあ。
 つまり、当初から怪獣の再登場を織り込んだ構築になっている、と思うのだ。

ゴジラ』の時、怪獣は偶然に生み出された異形だった。
 だがそのゴジラからしてこどもが登場することになり、種として存在するらしいという話になった。怪獣だって繁殖する生物なのだという、ある意味あたりまえの話。
 それを初めて活用できたのが、ウルトラシリーズ開始から三十年もあとだったというのは、微妙に腑に落ちない部分はある。もっと早くどうにかならなかったのか、と。
 まあでも最終的に活用はできたんだからよしとする。(偉そう)

 でも最近のウルトラの根拠も意義も薄弱な怪獣再登場は、実はあんまりうれしくないんだよな……。
 見るからにアトラク共用だね、という質感の軽さも含めて、なんかこう……ね。
 ま、それが時代の流れってもんなんですかね。