かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『シン・仮面ライダー』で見たいもの

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 いやぁ待たされたもんだよ『シン・ウルトラマン』。
 当初は2021年夏の公開予定だったらしいが、疫病禍もあってまる一年延期に。
 そしてようやく観られた作品は、隅から隅まで“好き”で溢れ返った一大娯楽巨編だった。この“好き”は製作スタッフがウルトラマンを好きだということであり、ウルトラマンが人間を好きだということであり、映画に登場する人間たちもそれぞれに好きを抱え、あまつさえ外星人(昔でいうところの宇宙人)まで好きを臆面もなく曝け出していて、もう暑苦しいほどに好きだらけだった。
 そうだよ、これだよ。こういうのを観たかったんだよう。うううああー。
 余は大いに満足なのである。

 思えば『シン・ゴジラ』は「怖い映画」だった。
 8歳ほどで観た息子(劇場ではなくTV画面で観たそうで、だから当然タイムラグがある)は、あまりの怖さに途中で視聴を放棄したという。わが子ながら正しい反応でヨシ。
 いきなりだが中島みゆきに『吹雪』という歌があり(アルバム『グッバイガール』所収/1988)、その歌詞にはこんなくだりがある。

  恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい
  そこに描けないものが 君たちを殺すだろう

シン・ゴジラ』のゴジラは、まさにこれだった。
 ふつうのひとなら描けないそれを、庵野秀明という巨大な才は、スクリーンに描きつけて見せてくれた。それは必ずしも観客全員にとっての恐怖の対象ではなかっただろうが、庵野自身にとってそれは描けないレベルで「恐ろしいもの」だったと思う。それを表現することが『シン・ゴジラ』の真ん中に据えられていたと思う。
 一方『シン・ウルトラマン』は、前述の通り“好き”をさまざまなかたちで表した。
 ゴジラが自分の中の嫌悪し恐怖するなにかの具体化であるなら、ウルトラマンは逆に気恥ずかしくて表せないほど温かく好もしいなにかの具体化だったのだろう。
 両極端ともいえるこれらを作品として紡ぎあげた無理やりな力量には、ただただ畏れ入るしかない。

 ……が。
 物語はまだまだ終わらない。
 次には『シン・仮面ライダー』が控えているのだ。
 来年公開予定だという。
 なんというエネルギーのもち主か。
 実制作はシントラとほぼ同時進行で進んでいたとも聞く。マジですか。いったいどこからそんなものすごい力が。うう。
 これもまた“好き”のなせるワザなのか?
 で、先日。
 その予告編映像が公開されたわけだが。
 これを見てまず思ったのは「そうかTV版がベースなのか」ということ。
 仮面からの後ろ髪バレは、1971年のTVシリーズで藤岡 弘(現・藤岡 弘、)が演じた時のそれだ。当時はあれくらいの長髪がカッコイイ男のマストアイテムだった。
 一方で石(ノ)森章太郎によるマンガ作品の仮面ライダー本郷 猛は、刈り上げではないが後ろ髪はスッキリしていて、仮面の端から髪がハミ出たりはしない。
 敢えて、という感じで後ろ髪を見せているのは、つまりそういうことだと思う。
 これはマンガ原作の映画化ではない。あくまでもTV作品のリブートなのだ。

 ここで改めて『仮面ライダー』という作品について確認しておきたいことがある。
 それは、「仮面ライダーはメディアミックス作品だった」ということだ。
 企画自体はTV局主導であり、そのプランニングに石(ノ)森が招かれた。そこからいろいろを経て、先行プロモーションも兼ねた石(ノ)森のマンガが週刊少年マンガ誌に連載され、その数か月あとにTVが始まった。TVの制作にかかる時間を考えれば、原作ありきの作品ではないことが明白だ。
 つまり『仮面ライダー』は、同じモチーフに基づきTVとマンガがそれぞれにつくりあげたものであり、だから石(ノ)森作品はTV版の原作ではないし、TV版は石(ノ)森のアイディアを土台に備えていても、その解釈や発展はオリジナルといっていい。
 だからマンガの設定やシチュエーションを土台にもつ仮面ライダー、たとえば2005年の映画『仮面ライダー THE FIRST』(続編の『仮面ライダー THE NEXT』2007 ともども俺が大好きな映画のひとつだ)は、ヒーローデザインにTV版の風合いが強くとも、TV版のリメイク/リブートではない。考えようによっては、マンガ版が“原作”だったら……というイフの作品ともいえる。
 それぞれが別作品である以上、『シン』は、必ずしも石(ノ)森作品の影響を受ける必要はない。いやあるいは、石(ノ)森色をまったく排したものなのかもしれない。
 予告映像の後ろ髪バレは、その宣言のように俺には見えた。
「オレはTVの仮面ライダーが好きなんだよ。TVで仮面ライダーを知ったんだ。だからオレは、そっちのライダーをやる」
 そんな風に俺は、予告映像を観たんである。

 ……という具合になってくると。
 では、『シン・仮面ライダー』は、なにを核とした作品になるのだろう。
 いや、俺はどんな『シン・仮面ライダー』を見たいのだろう。
 そんな疑問が湧いた。
 ゴジラは恐怖だった。ウルトラマンは人間讃歌、好きのカタマリだった。
 ならば仮面ライダーで描かれるのは、描いてほしいのは、なんだろう。

 これ、かなり考え込んじゃったのよ俺。
 俺は石(ノ)森作品推しで、なんとなれば当時マンガ作品の掲載誌を講読していてそのシリアスな空気に惚れ、その雰囲気が希薄なTVシリーズには肩透かしをくらった記憶があるからね。
 TV版は嫌いというわけでもなかったが、すごく好きというわけでもなかった。
 たださすがにバイクアクションはカッコイイと思ったよ。
 俺にとってのTV版の核は、オートバイだったといってもいいかもしれない。
 だが、それを真ん中にして映画ってわけにはいかんよね。
 ならTV版で真ん中にもってくるべきは……。

 あ、と思ったのは、音楽を聴いていた時だ。
『ロンリー仮面ライダー』。♪荒野をわたる風 ひょうひょうと、のアレだ。
 そうだ、これだ。これは核になる。

 思えば石(ノ)森版の本郷は、いうほど孤独な存在ではなかった。
 忠義者の執事・立花藤兵衛が、無私の奉仕をしてくれた。本郷を坊ちゃんと呼び、家族以上に親身になって尽くし、ついには本郷家代々の財産を独断で運用して本郷に“あるべき姿”を取り戻させようとしてくれた。
 後半の本郷はショッカーの戦闘員だった一文字隼人と二心同体の仲となり、これはもう別れようにも別れられない関係を取り結ぶことになる。
 一方TV版はどうだったかといえば、立花藤兵衛は行きつけのスナックの“おやじさん”であり、しばしばショッカーの雑兵どもとの格闘まで演じる協力ぶりは見せてくれるが、どこか遠い。家族の雰囲気は備えていないし、本郷本人に対して無私の態度は採らない。一文字は完全に“もうひとりの仮面ライダー”であり、時おり共闘もするが、基本的にはそれぞれ独立している。
 TV版の本郷の方が、ずっと孤独なのだ。

 仮面ライダーはもともと、悪の秘密結社ショッカーからの逃亡者だ。
 だがすでに肉体は改造され、ふつうの人間ではなくなっている。
 逃亡したとてもはや馴染める先はなく、といって今さら戻ることもできない。人間社会にも、ショッカー組織にも属さない、属せない。
 世界でたったひとり、打ち解けられる同族をもたず、また家族もなく、家族をつくることもおそらくはできず、宙ぶらりんになった存在。
 それがTV版の仮面ライダー本郷 猛だった。
 ここだ。ここに俺も見たいと思える核がある。

 当然ながらヒロインでありつつ本郷を父の仇と狙う緑川ルリ子とのやりとりは大きくなるだろう。ルリ子については、TVでもマンガでもはっきりとした決着をもたずいつの間にか和解していたという消化不良がある。まずこれに納得するかたちがほしい。
 ショッカーとの明確な決着も見たい。本郷による組織の解体が見たい。
 そして、決着したがゆえにむしろ孤独となる本郷の姿、その懊悩があってほしい。
 ショッカーを殲滅したとしても本郷にはもう行き場がない。ルリ子と和解し、あるいはそれ以上の関係へ進んだとしても、このふたりはすでに異種族だ。ふつうに至ることのできるハッピーエンドはあり得ない。和解はむしろ孤独を強める。
 そんな本郷に、どんな救済があり得るのか。
 バイクアクション、見たい。“怪人”との格闘、見たい。
 だがもっと見たいのは、戦えば戦うほど独りになってしまう本郷の、こころの救済だ。
 そうだ。俺は本郷が救われるところを見たい。
 孤独に苛まれ孤独を消し得ない本郷が、それでも救われるところを見たいのだ。
 それが俺の思う、TV版仮面ライダーの最終着地点だ。

 公開は来年になるらしい。
 なんとか生き延びて、観ねば。
 たとえまったく違う話が展開されようと、庵野という巨大な才が仮面ライダーというものに見いだしたなにかは、俺が見たいと思うものになんらかの指針を与えてくれるに違いない。ゴジラウルトラマン、ふたつの「シン」を観たあとだから信じられる、期待できる。きっと『シン・仮面ライダー』は、俺の中で宙ぶらりんになっている本郷を、どこかへ着地させる作品になってくれるに違いない。
 生きねば。