かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

エレキングが好き

 基本的に怪獣が好きだ。
 monster や creature ではない。怪獣が好きなのだ。
 中でもエレキングは俺にとってエバーグリーン。怪獣中の怪獣。
“宇宙怪獣”エレキング。初登場は『ウルトラセブン』第3話『湖のひみつ』で、これは初オンエア(1967年10月15日)をリアルタイムで見ているから、もう半世紀以上に渡り好きであり続けていることになる。
 エレキングこそ俺の怪獣の基本形。
 ではなぜエレキングが好きなのか。
 それにはまず怪獣を考える必要がある。

 怪獣の概念をごく大雑把にいうと、それは「日常に存在しない、もしくは存在してはならない」ものになる。
 その正体は、『シン・ゴジラ』で庵野監督が提示した通り、内在的なおそるべき(畏るべき/恐るべき)形而上的someting であって(参考=『ようやく「シン・ゴジラ」を観た』2016/09/19 https://st79.hatenablog.com/entry/20160919/1474308808)、決して外部に由来するものではない。というより、外部由来であってはならない。外部由来のものは怪獣とは呼ばない。天災と呼ぶ。
 この内在する形而上的something が好きなのだ。
 それは時に自分を脅かす自分の裡の毒であったり、時にわけもわからず恐怖する対象であったり(その恐怖の理由は自分の裡にある)、また時にひとさまにはいえないような自分自身の欲望であったりもする。
 そういうところにこそ、人間の本性は顕れる。
 ということは俺は、人間が好きなのだ。
 人間が抱える、しかし表には出さない・出せないなにか。
 それが俺を惹きつける。

 これ――内在の形而上的something を表現するのは、いろいろな意味で難しい。
 その表現はそも外部へ自分の“弱み”をさらすようなものであるゆえ、まず自分自身の抵抗感や防御の本能を打ち破らなければならないし、打ち破ったとしてもどう具体化するかの問題がある。
 然り、形而上のものだから当然なのだが、本来その内在的someting にはかたちがない。
 具体性がないといってもよい。
 それにある程度の方向性を与え、形而下的な外在のものへ変換したのが、つまり、怪獣なのだ。
 怪獣とは、いわば自己表現のひとつのスタイル、器のことになる。

 この流れで考えてきた場合、宇宙怪獣という概念が大変に優れた“器”であることがわかる。
 それは「日常に存在しない、もしくは存在してはならない」もの以外のなにものでもないのだ。

 地球由来のUMA(Unidentified Mysterious Animal=未確認謎動物)としての怪獣は、所詮どーぶつなのである。せいぜいクマに毛の生えたようなものだ。あれっ。クマって最初から毛ェ生えてんな。どうしよう。
 とにかくそれはUMAに過ぎない。である以上、実存の可能性がある。つまりは身近な現実と地続きのフィールドに“存在”するなにかに過ぎない。
 ならば宇宙人はどうか。これは統計学的な要素も含みつつ科学の延長上にある“概念”で、その点では地続きといえないこともない。ただ、現実に交流をもつという点を含めると、相当に遠い。ちょっと地続きとはいい難い距離感がある。てゆうか実際に地は続いていないな。間に space があるわけだし。
 ともあれ、残念なことにそれは“人”なのだ。思考とか文明というものを備えた、“人格”のある存在。
 この点において宇宙人は、形而上的に人間と地続きになっている。
 実際のところ、創作物に登場する宇宙人は、むしろ人間の恣意的メタファーとして活用されている。つまり宇宙人、少なくとも地球人の創作に登場する宇宙人たちは、ほかならぬ地球の人間そのものなのだ。
 だが宇宙怪獣となると、宇宙人のような科学的距離感に加え、地球由来でないUMAという性格が加わり、もうなんでもアリというか得体の知れなさマキシマムというものになり得る。
 もちろん提示者の意図により、それは単に「地球由来の生物にはあり得ない能力を備えただけのUMA」になったり、ひどい時には「生まれが地球ではないだけのUMA」になり果てたりもするが、内在的something のつかみどころのなさをなんとかして具体化させようという時には、やはり宇宙怪獣という器は最もすばらしいものになり得る。なにしろ、最初っから「日常に存在しない、もしくは存在してはならない」ものだからだ。

 ただ、いざそれを具体化しようとすると、いろいろと困ることになる。
 人間の創出し得る“イメージ”というものは、どうしても既知の範囲から出られない。
 これについて故・中島梓女史は、人間の考えられる怪物はキメラかスライムしかないという明快な結論をエッセイに書かれていた(『にんげん動物園』/『ぬえ』の項)。
 女史によれば人間は、既知の生物の組み合わせか、不定形のドロドロしか思いつくことができないというのだ。これには俺、諸手をあげて大賛成である。
 だから、内在的something の具現としての宇宙怪獣にも、具体化の範囲にどうしても制限が生じる。
 だがそれでも、巧みな手法――既知を逆手にとったやり方で、よほど得体の知れない怪獣を案出することはできる。
 それが実は、エレキングの造形なのだ。

 エレキングの造形。
 その全体のフォルムは、いわゆる王道の二足歩行型で、尾も長い。頭頂から尾までと、そこから尾端までがほぼ等しいぐらいに長い。
 これはゴジラと同じスタイルだ。怪獣としては大変に馴染み深い。
 ここがまず大きな“罠”になっている。
 つまり、パッと見た感じは、見慣れた怪獣なのだ。
 ところが、ディティールにはいろいろと変なところがある。

 まず、角が回る。
 しかも一方向へ向けてずっとぐるぐる回り続けている。
 地球上の生物に、これはない。なぜかというと、一方向へぐるぐる回り続けるには、本体との連結が完全に切れていなければならないからだ。切れていないまま一方向へ回転させ続けると、いずれは捩じ切れる。
 ということは、あの角はエレキングの“肉体の一部”ではあり得ない。
 しかしそれは紛れもなく、エレキングの“肉体の一部”なのだ。
 これは直感的にもかなりの違和感として認識される。物体の構造について詳しくなくても、真似ようとして手をぐるぐる回そうとしてみれば「あ、できねえ」と気づく。

 その角は、見れば金属光沢を放っている。よく観察すれば、錆めいた色合いまで浮かんでいる。
 これも基本的にはあり得ない。
 原始的な生物においては、近年になって発見された深海の生物(確か名前はまだない)のように、実際に金属原子をからだの構成物の一部としてめいっぱい活用しているやつもいる。当然その部分は金属光沢を放っている。だが、エレキングのようにかなり高度の発達を遂げたと思われる、しかも基本的には柔らかな皮膚組織をもつ生物が、からだに金属の光沢を備えていることは希有といえる。
 そして、目がない。目のあるべきところに角がある。
 口もない。口であるはずの場所には、なぜかハニカム構造の格子があり、しかもそこが光っている。(そこからエネルギーを吐き出したりもする)
 だがちょっと下がって見ると、それはやはり口だし、鼻らしきものもある。
 そして角・鼻・口のバランスは、ああなんということだ、見慣れた犬にそっくりじゃないか。
 そう、見慣れた犬のような顔つきなのに、すべてのパーツがなんかおかしい。ちょっとずつズレている。
 これがつまり、既知を逆手にとった得体の知れないオブジェの造形術なのだ。

 こうして見てくると、全体のフォルムが“王道”な理由もおのずとわかろうというものだ。
 一見して見慣れた体でありながら、見ているうちにクラクラしてくるような違和感の種が細かく配置されている。それは、最初から「なにこれヘン」と思う造形物より、よほど背筋にゾッとくるものを伝えてくる。
 エレキングの手指がミトンのように癒着していることも、本来なら爪が飛び出しているはずの指先に逆に穴が開いているところも、すべてそうした“ちょっとズレ”や“あり得ないのに存在する”という違和感の細かな具現化だ。
 体表の質感もすごい。淡色の部分は浮き上がり、濃色の部分は凹んでいる。しかもそれは、まるで皮膚一枚を剥ぎ取ったような凹み方で、これは生体にあってはかなりのダメージがあって然るべき状態だ。でもエレキングは平気。外骨格生物にはそういう体表をもつものも多いが、エレキングはどう見たって内骨格だ。いったいこれはなにごとやあらん。
 模様にも見える濃色の部分は、整然と回り続ける角と比べてあまりにもランダムだったりもする。つまり全身の統一感がない。ないのにこれは、ひとつの生物らしい。ひええ。

 実は俺、この濃色部分が、ケロイドの逆転だと思っている。
 ゴジラの初期案には、全身ケロイドというものがあったそうだ。結果的に「それはさすがにやり過ぎでしょー」ということになって却下されたそうだが、ゴジラの肌の独自の質感には活きていると思う。
 それをちょいと頂き、実際のケロイドのように全身にバラバラと散らしてみて、さらにケロイドは火脹れの類ゆえ隆起しているが、逆にくぼませちゃえという発想で出てきたのが、エレキングのあの模様なのではあるまいか。

 そんなこんなで、エレキングという怪獣、その造形を細かく見てゆくと、“なんか違う”の塊になっているのだ。
 これはまさしく地球上の存在ではない。宇宙怪獣以外のなにものでもない。
 そしてそれは、我々が自身の裡に備えている名状し難い something の器としてふさわしい。
 内在的something は内在のものだから自分には馴染みがあるもののはずだが、馴染んでいたら「存在してはならない」なんて定義は要らない。自分の一部なのに否定したいのが、怪獣の種になるべき something だ。
 これがエレキングの“なんか違う”という存在感に重なる。
 まさにエレキングこそ宇宙怪獣の極みなのだ。

 そしてついでにいえば、円谷特撮テレビ番組において、“主人”たる宇宙人の忠実なペット乃至ボディガードもしくは“兵器”として登場した最初の宇宙怪獣がエレキングだ。
 登場エピソード『湖のひみつ』で、以後に引き継がれる“侵略者”の主従関係または武装のパターンが確立したといってもよい。
ウルトラQ』のボスタングやナメゴンもけっこう近いが、それらには主人たる宇宙人が登場しない。主人とのセットで登場したのは、エレキングが最初だ。(『キャプテンウルトラ』にはバンデル星人&バンデラーって組み合わせがあったが、あれは東映だし、だいたいバンデラーって見た目は怪獣だけど中身はロボットだからねえ。ふつうに兵器だよねアレは)
 宇宙からやってきた侵略者が携える生物兵器
 このイメージもまた強烈だった。
 エレキングはやはりショッキングな存在なのである。

 ……と、これだけ語ってなおなにか取りこぼした気がして仕方ない、俺はそんなエレキング大好きおやじ。
 もちろん、こどもの頃からこんなことを整然と考えていたわけではない。そんなこどもがいたら気味が悪い。上記すべて成長したあとに言語化した結果だ。
 そう、成長の結果。
 エレキングはまた、“成長する”怪獣でもあるのだった。(結論が出たかと思いきやまたまた話題の提起/クドいと嫌われるパターン)

 エレキング、最初の登場時は岩魚のできそこないみたいな姿で湖に潜み、これが釣り人にまんまと釣り上げられてしまう。
 これはヤバイってんでご主人さまたるピット星人(の化けた女の子)が釣り人から奪いリリースするわけだが、これが俗に“幼獣”と称される形態。
 それがピット星人のコントロールにより突如急成長、巨大化して、湖から現われる。
 これは成獣などとも呼ばれるが、どうもエレキング、成獣になってからも成長し続けているらしいのだ。
 なんとなれば、巨大化して登場した最初には、白い。
 だがこれが場面が重なるにつれて色を濃くしてゆき、ウルトラセブンに倒される時にはクリーム色を通り越して黄色といっていい体色になっているのだ。
 これはいったいどういうことだ。

 現実的には、さまざまな意見がある。
 曰く、画面に映えないから塗り直した。光学合成処理がしづらいから塗り直した。汚れが目立つから以下同文。塗料がヘタレで、水に浸かる撮影のあと数日したら自然に黄変していた。等々。
 おそらくどれもが正解なのだろう。
 それらの複合的な結果として、エレキングは黄色くなった。そう解釈しておくのがよさそうだ。
 実際のところ制作現場では、なりゆき任せの行き当たりばったりが多い。というより、想定外の事態の発生は日常のことなので、その事態に柔軟に対応する力が要求される。水に浸けたらちょっと黄ばんだ、あぁでもこの方が合成やりやすいよね、じゃあこれで進行しよう……ってな感じ。
 うまい具合にドラマ中で時間が進行するにつれ黄色みを増したのは、偶然の味方もあったのだろうし、編集で工夫した部分もあったのだろう。
 なにしろ、“前半用にあとから撮った光学合成場面”とかがあっても、変色に気づいたあとにはもう使えないんだからねえ。
 なんといっても、当時はフィルムだ。今どきのCG処理なんか存在しない。ちょいレタッチで体色変更、なんてわけにはゆかない。違う色でフィルムに記録されていたら、その色で勝負するしかないのだ。
 おまけにエレキング、最期はウルトラセブンエメリウム光線で二本の角をへし折られ、アイスラッガーで首と尾をちょん切られて盛大に真っ赤な鮮血を飛び散らせたあげく爆死する。
 そのシーンまで撮っちゃってから「うわー色が違うー」と気づいても手遅れだ。
 それが時系列に従い得たのは、編集の巧みさもあるが、やはり運だと思う次第。

 だが。
 怪獣好きは、そこで敢えてブンガク的な解釈を試みるのである。
 つまりそれは、成長なのだ。
 セミの羽化とか見るとわかるでしょ。羽化したばかりの時は、白い。それが乾燥ししっかりとしてゆくに従って色が濃くなるよね。あれと同じじゃない?
 そう、巨大化したばかりのエレキングは、まだちゃんと成獣になりきっていなかったんだよ。ミクラスと格闘するうちに、だんだんちゃんとしてったんだ。だいたいさーあんな小さな幼獣から巨大化したんだよ? これって変態だよね。だったら変態する生物のように肌の色が成長につれ変わってってもいんじゃね? つか、逆に変わらなかったらおかしくね?
 エレキングへの愛のなせる業である。

 というわけで、エレキング成獣には、“羽化”したての白肌と(といっても羽はないんだが)、しっかり固まった黄肌がある。もしかすると、もっと時間が経ったら全身真っ黒になったのかもしれない。その姿が本来のエレキングなのかも。
 で俺としては、湖を泡立たせながらザバァッと登場し、湖の真ん中で全身をくねらせつつ咆哮を轟かせた白肌のエレキング、白エレが、最もインパクトあるエレキングなのだ。
 なにしろそれは、少なくとも俺にとっては初めての、本当に本格的な宇宙怪獣だったのだから。今なお越えるものの現われない、隅々にまで宇宙怪獣らしさが行き届いた宇宙怪獣だったのだから。
 そう、あの白さ。
 怪獣はゴジラ以降たいがいくすんだ色をしている。あれだけ白いやつは他にいないといってもいい。
 鮮やかじゃないか。美しいじゃないか。
 エレキングは宇宙怪獣の極みであり、白エレはエレキングの極みなのだ。

 そんなわけで、俺が手元に置いて愛でているエレキングは、白い。
 バンダイの現行ウルトラ怪獣シリーズソフビ人形をリペイントしたもの。敢えてディティールアップやウェザリング、細かい陰影の類はつけていない。なぜならこれは息子との共有物件で、けっこう乱暴に遊んだりもするものだからだ。あんまり細かいことをすると、あとでの補修が面倒くさいw


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