かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

ティガ大好き話(その②)

ウルトラマンティガ』は本当によくできていると思う。
 とにかく新しいウルトラマンをつくろう。そういう気概がまずあって、だから世界からなにから全部ゼロからつくり始めようという意志がある。
 そういう作品はたいがいおもしろいが、ティガにはその中でも図抜けた印象がある。

 たとえば『ウルトラマン』――つまり初代――では、“宇宙から来た、怪獣と互角以上に戦えるヒーロー”という概念自体が斬新だった。
 その斬新さを“観られるもの”にするためには、そういうヒーローを登場させられる世界をゼロから考える必要があったはずだ。
 それで『ウルトラマン』は、まず科特隊のカッコよさから入る。
 もともとはウルトラマン不在で、科特隊がメインになるドラマをつくろうとしていたらしい。つまり“怪獣退治の専門家”集団。それ自体は『ウルトラQ』のレギュラー設定が対怪獣集団としては不自然だし弱いという問題から生じたようだ。
 そこへ宇宙からの助っ人という別アイディアが加わり、ウルトラマン世界がつくられていったと思しい。
 続く『ウルトラセブン』は『ウルトラマン』の設定をまったく引きずらず、だから世界設定も一からやり直しになっていた。
 ゆえにこそだろう、地球防衛軍の凝った設定やウルトラ警備隊やその装備のシャープなデザイン(銃器のデザインとしては今なおウルトラ警備隊のウルトラガンがウルトラシリーズで最もキマっていると思う)にはすっきりとした統一感があったし、そのおかげで宇宙からの侵略が唯一最大の脅威となっている“時代”をすんなりと受け入れることができた。
 これらと同じ、いやそれ以上のことをティガは実現したと思う。

 たとえばTPC――セブンの地球防衛軍に相当する“地球平和連合”――や、その一セクションとしてのGUTSの設定には、まったく新しい、かつ腰の入った意志を感じる。
 もともと怪獣が存在しなかった世界のことだ。宇宙からの侵略も想定していない。
 GUTSは本来は研究・調査のセクションで、武装もしていない。それが事態に対応して対怪獣・対星間侵略チームとして変化するのは、GUTSがGlobal Unlimited Task Squad、世界的無制限活動チームだからだ。
 さらに背景には、国連+地球防衛軍から非武装組織TPCへの変化という設定がある。TPCは元国連事務総長で現TPC総監であるサワイにより設立されたが、それに先駆けて各国間の戦争・紛争も解決され全世界で対人武装解除が実現されている。だから武装セクションはTPCにも各国にも存在しなかったのだ。GUTSが対応せざるを得ない。
 すべてをゼロから設定し、その設定や世界をドラマとして“紹介”してゆく。
 なにしろウルトラマンという概念すら当初にはないのだ。最初“彼”は、単に“巨人”と呼ばれる。ウルトラマンティガという名前を与えられるのは、ようやく第二話のラストシーンでだ。うっかりしていたらマウンテンガリバーになってしまうところだった。

 これらはすべて、“新しいウルトラマン”――M78星雲と関係のない巨人と、それを取り巻き迎えるひとびと――を創造しようというスタッフの気概の顕れ以外のなにものでもないと思う。
 それを実行するため、最初の数話の構築は実にがっちりと定まっている。
 第一話では巨人の復活と、それが太古の地球に一度存在したということ、現生人類以前に超高度の文明をもつ別種の人類も存在したという情報が提示される。
 第二話でGUTSが対怪獣組織として再編され、そのために武装もおこなうエピソードが入り、ここで人間側の設定がかたちづくられ語られる。
 第三話では、物語内世界の社会のティガや怪獣への対応・反応が描かれて世界が世界としての広がりを備え、さらに知的生命体による地球への侵略が始まって、GUTSにもうひとつの任務が加えられる。
 そして第四話では、物語全体を貫くひとつの大きな設定(あるいは概念)として、人間の意志には物理的な攻撃に勝る力があり、それは“光”として認識されることがあるというファクターが追加される。
 実に周到にして、入念な足場固め。
 観る者は物語とティガの活躍を追いながら、一か月がかりで新しい“世界”へ、少しずつ参加してゆけるようになっている。

 おかしな比較だとは思うが、これは『ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち』とよく似た部分を備えている。
 かの有名RPGは、それ自体がすでに伝説の域にあるⅠ〜Ⅲを経てひとつのサガに決着を着け、Ⅳから新章に入(らざるを得なか)った。
 この時、制作陣は新たな世界観を提示しつつ、さらに市場を拡大しようと考えたと思しい。
 リリース当時に“今回は五章立て!”と騒がれた。この章立て構造は、既存ユーザーに従来以上に大きな世界と物語への期待を与えつつ、これまでDQをプレイしたことがない、どころかファミコンRPG自体を未経験という層への対策になっていた。
 DQの歴史はそのままファミコンRPGの歴史でもあった。
 Ⅰではひとりの勇者を“コマンド選択方式によって”操り、その勇者を自身の代理に仕立てて=自身が勇者になりきって世界を渡る。指先の鍛練が必要なアクション系ではなく、考えて参加するというシステムをAVGSLG以外で実現したという功績は大きい。
 Ⅱではそれを拡張し、パーティプレイを導入した。つまり複数のキャラクターを操りながら世界を渡る。RPGとしてはこちらの方が本来のかたちに近いのだが、最初から何人もを操るのはハードルが高いと考えた部分もあったのだろう。当時の技術的限界もあるが。
 Ⅲではさらにキャラクターの転職や自由にキャラを作って選ぶシステムなどが導入され、世界はますます広くなって、ここでようやくDQ的世界は完成した。
 この流れをⅣは一本でやっている。
 まず第一章『王宮の戦士たち』でⅠに相当する“ひとり勇者”スタイルを提示。第二章『おてんば姫の冒険』でパーティプレイ導入。第三章『武器屋トルネコ』では、戦うだけがRPGではないというFC-RPGにおいてはまったく新しいアプローチを見せ、第四章『モンバーバラの姉妹』は第五章(本編)の導入、かつ強烈な動機づけをおこなっている。
 つまり第一〜第四章で、DQⅠ〜Ⅲを総復習したわけだ。
 これでまったくDQに触れたことのないひとも、シリーズ最新作にして最大のボリュームを誇るⅣ世界へ不安なく入ることができた。
 ティガの最初の数話は、これに相当することをやっている。
 まったくウルトラを知らないひとたちには、“光の巨人”と怪獣や地球外知的生命体とのやりとりをダイジェストして見せ、かつてのウルトラを知るひとたちには物語の深みをアピールしつつ“これはまったく新しいものですよ”という意思表示をする。
 よく練られたオープニングなのだ。

 続く第五話では、以後重要な意味を備えてゆく市井とのかかわりが提示される。
 第六話は、TPCの活動規模の大きさを示しつつ、まったく異なる価値観の存在をわかりやすく物語にし、第七話ではついに明確な星間侵略者が登場、第八話はさらに“異次元”という舞台の導入……と、毎話が新しい世界の紹介になっている。
 かといって過去のウルトラを否定しているわけではない。
 さまざまなオマージュや、過去のウルトラが提示したテーマへの(それを見て育った世代としての)回答や、それを踏まえた上での同一テーマの再提示を随時おこなっている。
 たとえば第四話『サ・ヨ・ナ・ラ 地球』は、『ウルトラマン』第二十三話『故郷は地球』が『ウルトラマンパワード』第六話『宇宙からの帰還』を経てティガへ至ったもの、と捉えるのがよいと思う。つまり地球人がなんらかの事情で地球の敵となってしまうというモチーフ。
 初代ではそれは人類の愚かしさの糾弾になり、パワードではそれでも残る人間としての意志がピックアップされ、ティガはさらにそれを超えて“光の生命体”としての新たな人類誕生の予感を加えた。
 タイトルもわかりやすい。初代からは「地球」の語を、パワード(はそもそも初代のリメイクだが)からは「帰還」に対応する語としての「サ・ヨ・ナ・ラ」を、それぞれもってきている。さらにティガのエピソードとしては、この「サ・ヨ・ナ・ラ」が前半とエンディングで異なる意味をもってくる辺りが深い。前半では自己犠牲もしくは“奪われる帰還”のためのものであり、ラストではまったく新しい次元を目指すためのあいさつになっているのだ。素晴らしい。

 一話ずつがすべてチャレンジでありつつ、過去作への敬意を失わない。
 そういう真摯さが、ティガには満ちている。
 この調子で最終話までを突っ走り、かつところどころでは息抜きのようなものも加えて、“ティガの世界”は構築された。
 そこにはわずかな手抜きも迷いもない。
 だからこそティガは、素晴らしいシリーズになったのだと思っている。