かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

vs太田 愛/連敗記録更新(『ウルトラマンコスモス』第57話『雪の扉』)

 コスモスに入り、それでも第13・14話『時の娘』には見応えを感じていたわけだが、第57話『雪の扉』にはもう完敗。白旗を力いっぱいに振り回しているところ。
 といきなり書いても通じないだろうなあ。
 要するに、太田 愛という作家さんがいらして、ウルトラマンシリーズで脚本を書かれていて、で俺は太田脚本作品を見るたびに参っているわけ。
 一回ぐらいは、ふーん、と受け流す作品もあってよかろうに、脚本が誰かチェックせずに観始めたらぐいぐい引っ張られ、引き返して調べてみたら「あっまた太田」てな目に遭っている。遭い続けている。
 今回は先に気づいていて心構えを整えてから観たが、やっぱり泣かされた。
 こころを揺さぶられたらもう負けだろ、こういうものは。やっぱ。
 かくて連敗中。

 時系列的には、このあとネクサスとなり、第30話から太田節どっぷりに千樹 憐が登場。35・36話では憐の切実がナイトレイダー全員(どころかMPやイラストレーターにまで)“伝染”する場面を描き、ラストの炸裂へ至る足場を仕上げることになる。36話での憐と瑞生のやりとりなんてのは、太田 愛以外の誰かに描けたとは思えない。
 さらにあとには、マックス第20話で日常と怪獣の突如の邂逅という得意なジャンルを軽いタッチで描くわけだが、そして俺はズルいことにそっちはもう見ちゃってちゃっかり連敗記録を更新していたわけだが、途中の空白だったコスモスの二作もこれでクリアしたわけで、かなりすっきりした気分。

 コスモス『雪の扉』は、太田 愛シナリオ作品の中でも屈指の仕上がりになっていると思う。単に物語の流れがよいとか台詞がどうとかというのではなく、一本の映像作品としての完成度が高い。えらそうなものいいで恐縮だが、ホントにそう思う。
 まず天本英世がいい。もうどこからが演技なのかわからん。まるごと全部が戸間乃(とまの)さんという存在だってぐらい凄い。このキャスティング誰がしたのすごいよ絶品よ。TV版『三つ首塔』の米倉斉加年ぐらいぴったりよ。それ以外ないってキャスティング。
 向かい合うアキラ少年もいい。伝説的怪優を前に全然ひけをとらず、未定の少年の姿を見せてくれて清々しい。
 なによりも『雪の扉』ですばらしかったのは、戸間乃さんが最後の最後で“この世界”に残したことばが「ありがとう」だったことだ。
 難しいことばじゃない。美辞でも麗句でもない。でも、こんなにいいことばはない。
 ありがとう。
 なんと美しい場面であったことか。

 そう、美しい場面だった。
 平成三部作では、映像が太田イメージに追いついていないんじゃないかと思える場面がしばしばあった。俺は、そう感じた。
 たとえば『ウルトラマンガイア』第29話『遠い町・ウクバール』。
 映像に現れたウクバールは、あんまり遥かじゃなかった。ウクバールはもっと絢爛で、なのに柔らかく、小さいのに広さを感じさせる世界だと思う。でも残念なことにドラマ中のそれは、妙にちんまりこちょこちょしていた。
 あれはおそらく、美術・造形がイメージをつかみきれず、また物理的・時間的制約もあって、ああなってしまったのだろう。特に物理的制約は大きかったと思う。ないものを撮り、ないものを見せるのが特撮というものらしいが、それでも撮る以上は物理的対象が必要だ。それが“撮る”行為の限界でもある。
 特にあの回は、本編の出来が信じられないほどハイレベルだったので、要であるウクバールの姿が(……ごめん!)ショボかったのが俺にはものすごくショックだった(なお本編中にあるウクバールらしきものが描かれたカレンダーの“1966”はウルトラシリーズが始まった年だ)(ところでこの回で屋台で飲んでる姐さんが太田 愛ご当人だという話は本当だろうか)。
 その辺が、CG技術の進歩でずいぶんと自由になったように思う。
『雪の扉』は、強いて異世界をつくる必要がない展開だったというメリットもあるが、時の流れを隔てて傍観するしかない過去の光景、現在と当時を区切るその流れなどは、照明の効果もあいまって実に美しく実に切なく、そして残酷だった。
 これはおそらくCG活用術がこなれたということであり、また太田世界に映像制作者がより近づいたということでもあると思えた。
 単に脚本がいいというだけでなく、完成品全部が迫るものになっている所以。

 ことばやこころも美しい。
 戸間乃さんは言う。
「心から“寂しい”と思えるほど大切なものを、もつことが、できたんです」
 そうだ。その通りだ。
 すべては比較によってしか認識できない。心からの寂しさは、心からの充実、それの喪失が自身の全存在以上に重いほどの充実があって初めて感じるものだ。
 そのことに気づかないまま過去を探し、しかし“それ”を見てそのことを知った戸間乃さんは、でも、おそらくもう寂しくない。いや寂しいんだが、知らずに求めていた時よりも寂しくない。求めていた頃の渇望の源に気づくことができたのだから、焦慮の寂しさはない。
 けれど今度は、それを埋める手だてがないことを知ってしまったという、別の寂しさに襲われるのかもしれないな。

 そんな戸間乃さんを見て、アキラ少年は、でも、呑まれることがない。
「ボクは走る。ゴールが見えなくても。イチバンじゃなくても。――ボクは、おとなになる」
 そう、多分そうなんだ。わかりやすい目標がなくても自分がしたいこと、すべきと思うことをやり続けることが、多分、おとなってことなんだろうな。わからなくてもやり続けること、それは強さだ。その強さを身につけることが多分、おとなになること――の、ひとつ、なんだろうな。俺にはまだわかんないんだけど。
 そしてアキラ少年も、いつか走りきるのだろう。戸間乃さんのように。

 ああ、この一本からどれだけの世界が膨らむことか。
 それにしてもなんにしても。
 太田 愛というひとは、少年を描かせたらホント絶品だね。
 そこに登場する少年たちは実体を備えないゆえに純粋に少年となる。
 憐もアキラも、そうして結晶化したまじりっけのない少年なんだなあ。
 いや、戸間乃さんもまた、おとなの時間を経た少年なんだなあ。
 ああ。