かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『ウルトラマンコスモス』感想――第55話時点

 もうなんかウルトラづいちゃってて困るな。
 やらなきゃならないことがあるから、そっちへ力を割くべきなんだけどな。多分これ逃げだな逃避だな。アタマの皮だ。違う。トウヒには違いないが。漢方薬にもあったなトウヒっての。なんの薬だったっけ。

 アレが好きなひともあるのだろうし、当時には調子よかったのかもしれないし、関わったスタッフだって決して手抜きはしていなかったろうことはわかっているんだが、どうしても『ウルトラマンコスモス』が好きになれない。というより、キライだ。
 その前にあるいわゆる平成三部作(ティガ、ダイナ、ガイア)が好きで、いや大好きで、そのあとにあるネクサス、メビウスもやはり大好きのレベルにあるのに、真ん中のコスモスだけが俺にはどうしても合わない。
 そう、これは好き嫌いの話なんだよな。

 ではなぜコスモスがキライなのか。
 まず第一に、「そんなウルトラは別に求めていない」というのがある。
 怪獣をだっこしてなでなでするウルトラマンは、見たくないわけではないが、積極的に見たいとも思わない。つまり、どーでもよい。
 この辺で実は、評価がすでに低い。最初からある程度の期待があったら、“甘いレモンの法則”により、実際には低い評価を出すべき対象にもつい点を甘くしてしまうのがひとというもの。期待もなにもしていなければ、そういうアドバンテージがない。これは総合点を考える時にはマイナスの要素だ。
 第二に、怪獣がなぜなんらかの対策を要するかについての、皮膚感覚的な認識がゆるい。
 これは、そもそもそれがなぜ「怪」獣なのか、という問題だ。
 単に「怪獣」という括りなわけではなく、「怪」な獣だという視点がずっぽり抜けている。ここでしつこく「怪」の定義はしないが、生活に馴染んだらそれはすでに「怪」ではない、とだけは書いておく。チームアイズが主張するような保護を受ける立場のモノは、そもそも「怪」ではないのだ。怪獣がなぜ怪獣なのか、それが本能的ともいえる部分できちんと認識されていない。
 第三に、これは第二の延長上にある問題だが、ゆえに怪獣に対する立ち位置が常に怪獣より上にある。おそらく俺個人には、これが一番苛立つポイントなのだろう。なら第一に書くべきじゃないかという意見もあろうが、ものには順序ってものがあるのでね。

 そもそも「保護する」ってコンセプト自体がおかしいといえる。
 怪獣と人間は、どうしたって対立せざるを得ないものだ。人間がつけた「怪獣」という名前自体が、そういう意味を含んでいる。
 個体としての力を比べれば、これはもう圧倒的に人間の方が下だ。下位のものがなにを勘違いして保護とか言い出すのか。おまけにその保護の提示の仕方が、保護区への隔離とはね。
 基本的に集団で存在していることや、文明というものをもつことも含めれば、人間の方が怪獣より“上”の立場にあるといえるのかもしれない。“地球”でのはびこり具合を見ても、それはいえそうだ。だから保護し隔離するというなら、それは人間による地球征服の一環であって、そこにはたとえば『ウルトラマンガイア』最終回で示された、怪獣と人間の文字通りの並存、ガイア思想的な共生の意志がない。人間第一の傲りがあるだけだ。
 もし怪獣と人間が対等であるなら、保護区設定と隔離は「人間が人間を隔離」するのと同じ話になる。これはアメリカ黎明期のネイティブアメリカン駆逐政策と重なって見える。こういうのを非人道的という。
 そして実際の力関係はどうかというと、チームアイズも防衛軍もまともな防衛に成功した試しがないといっていい。結局はウルトラマン頼みだ。そんな非力なものが、なにを勘違いして高い視点から保護などといえるのか。
 比べたら、科特隊なんか警察機構の一部門に過ぎないにもかかわらず、自力で何頭もの怪獣の始末をつけているぞ。ゼットンまでやっつけた。彼らが保護をいいだしたら、もう少しは説得力があるだろう。

 第四に、これまた第三を引き継ぐかたちだが、結局はウルトラマン頼みでしかないという情けなさが全編に満ちている。おまけにそのウルトラマンがあまりにも非効率的な存在で、呪術医に等しい“活躍”しかしないフラストレーションがある。
 第五に……もういいや。なんだかどんどん気分がささくれてきた。

 現時点では、最後まで見ていない。第55話まで見た。まだ十話ぐらいあるらしい。
 本当はそこまで全部見てから語り始めるべきなんだろうが、もういい加減我慢ができないし、ここまで五十話以上も見てきていっかな変化がない以上、この先十話があってもまず評価が変わることはないだろうと思っている。
 ストーリー的に大きなどんでん返しをして、それこそこれまでの流れを全部ひっくり返すような――たとえば地球上での“コスモス的共存”はやっぱ無理なので、人間と怪獣どちらかを地球から根絶するような――があったとしても、ふーん、って程度だ。そんな考えないのと同じようなことに何十話も費やすなよと思うだけだろうな。
 それでも一応、最後までは見る。
 なぜか。
 最後まで見なければ、ちゃんと語る資格はないと考えるからだ。
 今日のはだから、ちゃんとした語りではない。
 愚痴だ。
 あと十話も見なきゃならんのだ、という愚痴。

 並行して見ている『ウルトラマンメビウス』は全五十話中第36話までを見て、いよいよ赤星節の冴え渡るさまにわくわくしているんだけどね。
 赤星ついに昭和ウルトラ後半の建て直しに着手した。まさかそこまでやるとは思わなかった。俺がいらないと言い捨てたジャック以降、特にエース・タロウ・レオ&アストラの、整合性もなにもとふつうなら匙を投げるような部分にまでビシッとした“背骨”を入れつつある。すごいとしかいいようがない。さすがは世代の当事者。覚悟が違う。
 おまけに、これは赤星脚本ではなかったが、あの『怪獣使いと少年』(『帰ってきたウルトラマン』)に決着をつけた。これにはぶん殴られたようなショックを受けた。話自体はおおいに甘くはあったが、その甘さも含めてそれは新たな希望の提示だったと思う。
 それは、原典を見た“少年”が、ちゃんと自分の“回答”を、長い時間をかけて得たんですよ……という報告にも近いものだった。そう、これはまさに当時のこどもが、上原正三というちょっとではなく意地悪な“先生”に示した答えであり、同時に次の世代へ示した課題でもあるのだ。
 それを提示する場をつくったのは赤星。やっぱその仕事はすごいとしか。うん。