doa『英雄』が好きなわけ
「責任」を連呼するヤツがキライだ。大ッキライだ。
そういうヤツは事態の重みをわかっていないか、単に責任者を責めることだけを目的に据えている。そんな奴とは金輪際かかわりをもちたくない。
この宇宙のエントロピーは常に増大の方向へ動いている。
だから、それが“よいこと”であれ“わるいこと”であれ、はたまた“どうでもよいこと”であれ、一旦生じた事態はなにをどうしたって引っ繰り返せない。
たとえばの話、過酸化水素水に二酸化マンガンぶち込んで酸素を取り出したとしよう。あとにはタダの水が残る。ここに過酸化水素を混ぜ込んで過酸化水素水にしたとする。これは元に戻ったのか。否。ふたつの化学反応が起きて、結果的に以前と同じ性質の物体がまたあるだけだ。元に戻ったわけじゃない。
すべてのことはこれと同じ。
起きたことは戻らない。同じようなものになっても、それは同じものじゃない。
次々と新しいことが積み重なってゆくだけのことだ。
責任を連呼する者、特に「どう責任を取るつもりだ」と言う者は、根本に「元の状態へ戻せ」という意識をもっている。
それが無理なことがわからないのだったら、これはもうただのバカであって、そんなヤツには身近にいてほしくない。
わかっていながら起きたことがなかったことになるような処理を求めるのなら、それは無理ゲーを強いる以外のなにものでもない。それってどういう悪意の露呈だよ。そんな悪意のもち主とは、それこそかかわりをもちたくない。
処罰と同じ意味で責任という語を使う者もある。ここに至ると、あるのはもはや卑怯な自衛意識ばかりだ。たとえ責任を問われる者が重罪人だったとしても、罰と言わず責任と言う者には加担したくない。
罰は与えられるものだから、必ず与える者がいる。だが責任は当人が取るもので、与えるのも実行するのも当人だ。つまり罰を責任と言い換えれば、処罰する者がいなくなる。罰する“責任”を回避できるのだ。
自分は一片の関与もせず当人だけにすべてを負わせる。そんなやり口には、責任云々を論じる前に吐き気がして、聞くだけでも穢らわしく思う。
だから doa の『英雄』が好きだ。
これは『ウルトラマンネクサス』の第一期オープニングに使われた歌だ。
この歌はちょっと聞くとずいぶんハードなことを言っているように思える。
「男なら 誰かのために強くなれ
歯を食いしばって 思いっきり守り抜け」
……厳しいねえ。
じゃあ守れなかったらどうしたらよいのか。「責任」を取らなきゃいけないのか。
違う。
doa の歌はこう続く。
「転んでもいいよ また立ち上がればいい」
この懐の深さ。
これがいい。
守りたいものがある。
でも、守り損ねて転ぶこともあるだろう。その結果、守るべきものを傷つけたり、失ってしまうことさえあるかもしれない。
だからといって、そこであきらめたら、それこそ仕舞いだ。
あきらめずに、また立ち上がればよい。
次こそ守り抜けばよいのだ。
転んでもいいよ――そう、失敗は含み済み。なにかをする以上、失敗は常に起き得る。
ここで使われる“よ”の器の大きさは無類だ。
それは呼びかけの“よ”だし、許容の“よ”でもある。この“よ”がついた時点で、歌う者は歌われる者と同じ地平に立っている。裁く者でも求める者でも強いる者でもなく、共闘する者であり許容する者であり、そして励ます者になっているのだ。
そして、もし失敗が起きた時にはどうするか。
「責任」を問い(問われ)、“失地回復”のために、成し遂げようもない無理ゲーに挑戦するのか。
違う。
また立ち上がり、挑み直せばよい。
もし失ったあとだったとしても、新たに得るか、失われたものが本来すべきだったことを代わりにでもなんでもおこなえばよい。
それが“元へ戻す”ことにならないのは、わかっている。
だが、どんなことも元へは戻らないのなら、元へ戻すことに腐心して「結局ダメでした」なんてことになるより、また立ち上がってやり直す方がずっと有意義ってものだ。
「責任を取れ」ということばは、その道を塞ぎかねない。
もちろん事情のわかったひとが「やり直せ」という意味でそれを言う場合もあるだろう。だが多くの場合「責任」を口にする者は、そんなつもりで言ってはいない。単に「返せ」「罰を自分で決めろ」と言っているだけだ。無理を求めているだけだ。
そういう理不尽を撥ね除けながら、何度でも立ち上がれ。
うまくゆかなくて泣いてもよい。いつか笑える日へ辿り着ければよい。
男だけじゃない。女も同じだ。起きてしまうすべてのものごとを、ただ待っていたり眺めていたりするだけではなにもなし得ない。
「責任」に囚われるより、新しいアクションを起こそう。挑もう。
だから、転んでもいいよ。転ぶことを恐れなくてよいよ、それより立ち上がっておこなう気力を育もう。
その意志をもち続けることが、すべてが変わり続けるしかないこの世界を生きるということなんだ。
もしかしたら達成はできないかもしれない。でもそれは、最終最後の場面に至らないことには、わからない。
できるかできないかを気にしたり、元へ戻そうとしたりする前に、立ち上がれ。
doa の歌は、そういう歌だと思うのだ。
そして doa は歌う。
「ただそれだけ できれば
英雄さ」
英雄とは、成し遂げた者へ送られる称号ではない。
立ち上がること。立ち上がろうとし続けること。
それができる者に捧げられる賛辞であり、やろうとする者を応援するためのことばなのだ。
だから――あきらめるな。
doa の歌は、そういう歌だと思うのだ。
それが、俺が doa の『英雄』という歌が好きな理由だ。
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