かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

相変わらず『ネクサス』礼賛

 それにしても『ウルトラマンネクサス』が好きすぎる。
 映画『ULTRAMAN』も合わせて、切りどころ捨てどころのない超つきの傑作シリーズだと思うが、わけてもエピソード26『憐』以降の牽引力は堪らない。
 もともとは初代ウルトラマンのアップデート&リファインが目的だったろうシリーズだが、ウルトラマンという“概念”の見直し(あるいは初心以前の初心への回帰)よりなにより、ウルトラマンは「マン」――ひと、だという基本理念が、どのシリーズより強く感じられる。
 ひととはどういうものなのか、どうあるものなのか、それを徹底して描いている。

 シリーズ前半では主人公の孤門一輝(演:川久保拓司)の個人としての懊悩にさまざまな種を見出し、恋人・斎田リコ(演:中丸シオン)との破局を経て、自我とはなにか、なにによって成立しているかまでを描いてしまう。
 そこにトップ屋(という語も今さら懐かし過ぎるがw)の根来甚蔵(演:大河内 浩)やカメラマンの保呂草(演:林 泰文)、グラビアモデルの七夏(演:吉井 怜)が幅を加える。孤門を基本に人間はなにによって成り立っているかを見ながら、その具体的な実現、その実例をチラ見せするという感じか。
 そうして大づかみに全体を描いたあと、満を持して、という感じで千樹 憐(演:内山眞人)と野々宮瑞生(演:宮下ともみ)が登場し、“その先”を見せてくれる。
 そう、前半で条件を提示し、後半でそのひとつの結実を見せる。
 見事にシリーズがまとまっている。

 聞くところによれば、視聴率が伸びずに早めの切り上げが製作途中で決定、それにより後半はかなり圧縮されたらしい。だが、結果論ながらそのおかげで映像もシナリオもどえらい濃度になっていて、一瞬も眼を離せない緊張感が続く。
 さらには、こちらのイメージが介入する余地も、大胆な(というより強いられたギリギリの)編集でおおいに確保されている。これがおいしいところで、もし隅から隅までぎっちり描き込まれていたら、想像の余地がなくなる。比較するのもアレだが、ゴム人間第1号マンガのようにとことん描き切られたりすれば、作品はただ納得するためだけにあるものになってしまう。それでは“観客”としてそこにいる甲斐がないというものだ。
 ネクサスは、とことんまで凝縮濃縮圧縮した材料で引っ張る上、それらを解凍し伸ばして薄めて味わい直すことまで楽しませてくれる。
 あるいは一生繰り返し見られるシリーズかもしれない。

 それにつけても後半の憐パートは圧倒的だ。
 考えてみれば、ネクサス以前にこれだけ個人(しかも民間人)にこだわったシリーズはないかもしれない。いやレオと80は民間パート多いか。いやいやでも完遂はしていないな。ネクサスは完遂しちゃったからな。
 ネクサスでは“光”の力はとことん異物として扱われる、まずそこがよかった。
 ウルトラの力は、敵とも味方ともつかない。正義も関係ない。ただ“寄生”宿主の人間の意志にのみ従う。宿主選択になんらかの傾向はあるものの、基本的にそれは純粋な力そのものであって、その行使はすべて人間の意志に基づく。
 その辺が“光の国”を土台とする昭和ウルトラとは違うわけだ。これは平成三部作(ティガ、ダイナ、ガイア)とネクサスの、際立った特徴だと思う。
 そして、だからこそ憐という個が際立つ。
 さらに、憐という人間の成り立ちには、えらく周到な仕掛けが施されている。

 人間とはどのように成り立っているか、自我というものはどんなものかを真面目に考えると、関係性が重要な要素であることがわかる。ネクサス前半は、孤門をサンプルとしてそれを入念に“おさらい”していたといえる。
 人間は単独では人間足り得ない。人間の自我は根本的に相対のものであって、他者との関係性があって初めて具体的な像を浮かび上がらせる。
 ところが憐という個人は、他者との関係性をもたない人間なのだ。というより正確には……いやそれはナイショだな。書いちゃいけない話だな。
 とにかく憐は、関係性から浮かび上がる自我は内包しない。
 なのになぜ憐が魅力的になるかといえば、周囲に集まるひとびとが際立っているからだ。
 たとえば、兄貴分というかボスというか、頼りになる人生の大先輩・針巣直市。演じるのはウルトラマンジャックスーツアクターだった きくち英一というのが、ものすごい贅沢だ。文字通りに人生の大先輩。きくちはウルトラマンメビウスにも重要な役どころで出演していて、これも見ていて感涙にむせんだ。(TVシリーズの『ワイルド7』では消耗品の悪役だったけどねw)
 またたとえば、友人であり同僚であり、あるいは兄弟といってもいい近さで憐に関わろうとする若者代表、尾白高志(演:鈴木 圭)。彼の不器用だがストレートなやさしさもいい。
 もちろんシリーズ主人公の孤門とのやりあいや、“イラストレーター”吉良沢 優(演:田中伸彦 彼もまたメビウスでの客演が印象的。まだ17歳の仲 里依紗との共演は必見)との結びつきも描かれて、関係性の芽はいろいろと並べられる。
 だが、憐自身が積極的なリアクションを見せないから、憐がなかなか現われない。
 憐に対する針巣、憐に対する高志、憐に対する孤門や優。それぞれは描かれても、憐自身がいつまで経ってもニュートラル。だから憐の陰画は見えても、憐自身は見えない。そのもどかしさ。
 それが終盤、急激に突出してくる。
 シリーズ後半のヒロイン、瑞生とのやりとりから、憐が自身を制御できなくなるからだ。
 然り、ネクサス後半は憐と瑞生のラブストーリーでもあって、その戸惑いや、それゆえの無類に強固な繋がりが、人間を描いてくれる。
 最終的に憐と瑞生は、孤門には達成できなかったところへ辿りつく。
 そしてそれが人間(と人間関係)の最も根本的な部分であることも遠回しに描かれる。
 そこへ至る道程が、あまりにも魅力的だ。

 これを魅力的に表現できたのは、スタッフ(監督・脚本・編集その他全員!)の力はもちろんのこと、若い内山と宮原の、突出した技量に因るものであることは間違いない。
 明暗を同時に内包できて、それぞれに表現できる内山。
 少女と女性、私人と公人などのふたつの立ち位置の狭間で常に悩む瑞生の姿を、それこそ全身で演じきった宮原。(ことに救急車の中からの一礼は“女”になりきって絶品だ)
 このふたりのぶつかり合いと結びつきが、後半から終盤のネクサスを躍動させた。
 このふたりでなかったら、ネクサスの印象はだいぶ違っただろう。
 このふたりの存在感があったからこそ、最終の三話分の怒濤の展開が説得力を備えるのだし、ラストシーンで孤門が言う「あきらめるな!」のひとことも活きてくる。
 すばらしいキャスティングだったと思う。

 や、ほかのキャスティングもいいんだけどね。
 和倉英輔隊長(演:石橋 保 名演!)を初めとするナイトレイダーズの面々も、松永要一郎管理官(演:堀内正美 怪演!)も、“以外”が考えられないほど嵌まっているし、シナリオ上の味つけをおおいに増幅してくれていたと思う。特に和倉隊長の頼り甲斐は、ムラマツキャップの冷静やキリヤマ隊長の職業軍人的な落ち着き、ヒビキ隊長の迸る熱血と比しても抜きんでて魅力的。
 もうホント大好きなんだわネクサス。

 ……個人的な布教活動のため改めて全編見直しちゃって、愛が溢れました。すみません。


※関連ログ※
『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−01 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−02 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
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