かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

俺にとっての『ウルトラマンティガ』

 初代『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』、遡れば『ウルトラQ』、この三作品は連携しないそれぞれ単独の作品だったはずだ。
 確かに、初代マンにラゴンが登場した時には、Qでのラゴンを踏まえた設定があった。ザラブ星人がケムール人を召喚した時も同様だった。だが、だからQの後日譚としてウルトラマンがある、という印象にはならなかった。
 Qは制作当時の“現在”と密接に繋がっている印象があったが、初代マンの世界は未来だった。これは違う世界の物語なのだ――未就学児でもそう感じるだけの開きが、ふたつの作品の間にはあった。
 初代マンとセブンはなおさら繋がらない。
 科特隊と地球防衛軍ウルトラ警備隊のバッティング問題があるし、物語内での“科学”の進み具合にもいろいろと違和感がある。
 当時リアルタイムで観ていたが、マン−セブン間には東映制作の『キャプテンウルトラ』が挟まったこともあり、初代マンとセブンは、Qと初代マンが違う物語であったように、まったく別の世界の別の物語だと受け取っていた。

 これが一転、いきなり繋がった世界の話になるのは次作『帰ってきたウルトラマン』(ウルトラマンジャック)からだ。
 そもそも“帰ってきた”という辺りが明らかに過去の作品との連続をいい切っているし、追い打ちをかけるように第十八話でウルトラセブンがゲスト出演し(『ウルトラセブン参上!』)、三作が一連の世界であるということが決定づけられてしまった。
 そしてその次の作品、『ウルトラマンA』では、これまた第一話のタイトルからして飛ばしていて(『輝け! ウルトラ五兄弟』)、もはや『ウルトラマン』以降の物語はすべて一元的に扱われるべきもの、ということになってしまった。
 おそらくそれは、多くの視聴者――主にこどもたち――の望むところであったのだろうし、商業的な面でも有利だったのだろう。
 俺のような、ジャックがセブンと繋がることに違和感を覚えるようなこまっしゃくれたガキは、おそらく例外中の例外だったのだ。
 だが、例外ではあれ絶無ではなかったのだろうと思えたのが、平成三部作ともいわれている(らしい)『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』を観終えた時だ。

 俺はこの三部作が放映されていた当時、完全にウルトラから離れていた。
 だから三部作についてリアルタイムでどんなことがあり、どんな評判があったのかを知らない。もちろん後追いで情報を集めることは可能だが、それはあくまでも伝聞にしかならない。たとえば今の若いひとたちがバブル景気の時代のことをどんなに調べても、あの時代の奇妙に歪んだ空気の感触まではわからないだろう。それと同様、たとえその“時代”に居合わせても、そのイベントに触れなかった者には、その実際の感覚はわからない。
 だが、おかげで自分自身の感覚で作品に接することができるのは、怪我の功名か。
 そう、同時代性をもたなかった者の目から見ると、平成三部作は明らかに新しい作品群であり、そしておそらくはウルトラ兄弟という設定に納得しないひとびとが、旧いウルトラマンを大切にしながら新しいウルトラマンを創造しようとしたものだったと思えるのだ。
 もし俺が同時代性を得ていたら、また違う感想をもったのだろうと思う。
 あるいは平成三部作の制作当時には、制作陣が自身の口で上記のようなことを言っていたかもしれない。それを聞いてから(または聞きながら)観ていたら、ふーんそうですか、というほどの感想になってしまったり、せっかくの良作を変にシビアな目で見てしまっていたかもしれない。
 おそらくこれは、俺の“運”だ。

 余談ではあるが、俺がどういう経緯で新しいウルトラマンに触れるようになったかというと。
 今、五歳になる息子が三歳になる直前のこと。
 ひょんなことから“怪獣”を見せる機会があった。
 偶さかその直前、ほんの一か月ほど前に俺は、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』のDVDをようやくコンプリートしていた。これも運か。
 それで初代とセブンを自由に観られる環境にあったため、俺は息子に、まず初代マン第八話『怪獣無法地帯』を見せた。
 彼はこれで一気にウルトラマンと怪獣に溺れ、今も怪獣の海を遊泳中だ。
 最近になって「うるとらまんのなかには、ひとがはいっているんだって! おとーさん、しってた?」などと言うようになってきたが、性格のよろしくないおとーさんは「んー、なんで人間はそんなことするんだ?」と尋ね返し、息子を絶句させた。
 どうしてなの、と改めて問われ、ヒネたおとーさんは“それはウルトラの心があるからじゃないかなあ”と答えた。
 ウルトラの心が人間にウルトラマンの恰好をさせているんじゃないか。そしてウルトラの心があったら、それはふつうの人間でもウルトラマンなんじゃないか。ダメ父はそんなことを言って、こどもを煙に巻いている。
 そんなわけで、こどもにきっちりと怪獣を見せたいとなったら、新しいものも相応に“勉強”しなければならない、そういう理由でまず平成三部作を観始めたのだった。

 三部作コンプ後は、続けてハイコンセプトシリーズといわれる(らしい)『ウルトラマンコスモス』『ウルトラマンネクサス』『ウルトラマンマックス』『ウルトラマンメビウス』も観て、ひと通りの知識を得た。
 本当はさらに『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』シリーズや『ウルトラマンギンガ』『ウルトラマンギンガS』『ウルトラマンX』も“勉強”しなければならないのだろうが、さすがに少々疲れ気味。
 それでも『ウルトラマンオーブ』地上波放映分は半分くらい観たし(あれはおもしろかったにゃあ特にジャグラスジャグラーの青柳尊哉氏の怪演がなあ)(あと平成シリーズの影のレギュラー赤星昇一郎氏のブラック指令には悶絶して喜んだぞ俺)、現在進行形の『ウルトラマンジード』も今のところ全話を観ている。
 ウルトラマンゼロについても一応それなりにフォローしている。

 そういう事情があってウルトラへ舞い戻った俺にとって、短期間で集中的に観た平成三部作は、すべて傑作以外のなにものでもなかった。
 なにより強く感じたのは、「これが俺の見たかったセブンの後番組だ」ということだ。
 然り、制作者たちには申し訳ないと思うし、その実績がなければ平成三部作だって存在しなかったことは明白なのだが、それでも俺は思ってしまう。
 ジャックからレオまでを全部引っこ抜き、アニメの『ザ☆ウルトラマン』『ウルトラマンUSA』、国外制作の『ウルトラマングレート』『ウルトラマンパワード』辺りはスピンオフとし、平成セブンはちょっと取り置きとしておいて(あれは正味の続編だったりするようだから)、『ウルトラセブン』の次の新しいウルトラマンは『ウルトラマンティガ』、その続編がダイナ、そしてまったく新しいウルトラマンがガイアというかたちで、間に挟まる何十年は“なかったこと”でいい……そう思ってしまうのだ。

 ティガを観て覚えた興奮や感動は、セブンを観た時のものと等質だった。
 前作の延長上にありながら世界は繋がらない、新しいアプローチ。これは、初代マンからセブンへ移行した時と同じもので、そしてセブンの次になにがあればよいかといえば、ティガでしかない。
 巨大ヒーロー・怪獣や宇宙人・地球という星への侵略・それに対する人間たち……そういう要素は引き継ぎながら、さまざまな設定や映像表現はより進化/深化し、さらにまったく新しい要素を加える。そういう移行のあり方。
 ジャックからレオまでのウルトラは、本当に一連のものになっている。
 わかりやすいのは初代マンからジャックへの変化で、デザインをそのまま活かしながら線を加えて新しいキャラクターとした。怪獣を超獣にするのも、セブンにツノを生やすのも、ひと筋の同じ流れの中のことだ。
 逆にいえば、ジャックからレオまでは、途中の一作を抜いたら成立しない。だからジャックからレオまでは、シリーズが変わってもずっと同じ物語といえる。
 その延長上にあるメビウスについては、また違う感想があって、これはむしろ感動の域にあるコダワリに脱帽なのだが、それはまた別の機会に。
 とにかく昭和ウルトラは、流れを維持する過程で要素がどんどん足された。ジャックに線が増えたように、父や母、キングと、とにかく世界はこてこてと飾りつけられ、足された以上は引くわけにもゆかず、肥大の一途を辿った。
 だがティガはそれら全部をなしにして、ゼロから始めている。
 ティガの直接の続編であるダイナはとにかく、ガイアがまたゼロからのスタートだ。
 本来ウルトラはそうして紡がれるものだったと俺は思っている、思い続けてきた。
 ティガはまさにそれを実現してくれたシリーズだった。

 だから平成三部作、特にティガは、俺の中で特別の位置を占めている。
 いい加減くどいが、これこそが俺の見たかったセブンの後番組。
 現実の時間としては約三十年、リタイアしていた俺にはほぼ五十年近い時間を経てようやく観られた、セブンの次のウルトラ。
 それはどうしたって好きになるしかない、傑作以外になり得ない作品なのだ。